抑圧と弱者について考える - suVeneのアレ

抑圧と弱者について考える

 抑圧。心理学的な意味合いでの抑圧ではなく(受け入れられないものや、認められないものを意識から無意識下へと押し込める心理)、他者からの抑圧、社会的構造からの抑圧、権力からの抑圧、など主に外部からの抑圧について考える。もう少し簡単に言うと、認められた(られるべきと考える)権利や価値観を外部からの影響により妨げられていると考えることである。

 人は意識していようがしてなかろうが様々な抑圧を受けている。抑圧とは、わかり易い例をあげれば、社会的にも認知されている「女性に対する抑圧」などのことだ。ジェンダーの問題などというと、「何だか自分にも関係するけど、蚊帳の外のような感じ」がする人もいると思うが、もっと身近な問題も沢山ある。例えばそれは学校教育における「みんな仲良く」というスローガンの元に人と仲良くすることを強要されることであったり、会話が苦手な人にコミュニケーションがとれない人間はダメ人間であるという価値観を押し付けてくる人であったり、30になったらそろそろ結婚を考えなければならないという親戚・知人などからの圧力であったり、などそういうことである。俺は学がないので、こんなことは既に語りつくされている問題なのかもしれないが、それも踏まえてそのような問題に対する考察をしたりする。

 同一の目的がある集団において(共同体と呼ぶ)、その目的を達成する為に障壁となる価値観というのは排除されるのは当然ありえる。問題なのは、その共同体が抑圧されている者にとって唯一無二であったり、その共同体から他の共同体へ移る為のコストが非常に高い場合である。例えば、社会の制度や、世間の一般的常識などは国内にいる限り急激には変わらない。親戚・知人や近所の人などの身近なネットワークに対しても、様々なしがらみなどから変更することが困難である場合がある。職場などの変更も、養うものや蓄えが必要などの理由から、簡単には変更できない人が多いだろう。

 ここで注意しておきたいのは、「抑圧を受けている=弱者」ではないということである。個人レベルで見れば抑圧があるのは当たり前のことだからだ。俺が考える「抑圧の問題」とは、その中でも「抑圧に対して対抗する術を知らないもの・できないもの」のことである。要するに、精神的弱者であったり、圧倒的少数派であったりすることだ。

 この記事で言っている「抑圧」を定義するのはとても難しい問題でもある。何故ならば、「抑圧されている」と「感じるのは自分」という内面的な問題を抱えるからである。外面的な不当・不利益な問題は誰にも理解しやすいが、内面的な問題は声を上げなければわからないどころか、声を上げても理解されないことが多々ある。元も子もない言い方をしてしまうと「気にするな」という話になってしまうからである。被害妄想との境界もわかりづらい。いや、それどころか「声を上げることすら」できない人は不可視であり、他者からすれば存在しないのと同義であるのだ。

 故に、抑圧の構造を見抜き、指摘し「抑圧の見える化」に成功した場合や、その「見える化」をしようとしている人はすごいと感じる。抑圧の事例を比較して「どちらがマシか」なんてことはまったく馬鹿馬鹿しいことである。それは理解しているが、それでも尚抑圧に対して声を上げられない人に対して、言葉では言い表せない気持ちになる。可哀想でもなく、同情でもなく、蔑みでもなく、見下しでもない、何だかやるせない気持ちになる。いや、それは相手に対する感情というよりも、寧ろ自分自身のエゴなのかもしれない。相手を可哀想だと思い、同情し、蔑み、見下しているだけなのかもしれない。その薄汚れた感情を、現実に対する不条理や、どうしようもできないという無力感と置き換えて嘆いているだけなのかもしれない。
 望まれない救済を成したい、成せないと思うことは俺の中のエゴであり、優越感であり、醜いものである。その醜さと、救済を望む弱者と、救済を望まない弱者と、それに気づかない抑圧する強者。そして、俺もまたその中の全てに属する人間なのである。

 そんな理由はどうでもよいと思うこともある。ただただ、悲しい時があるのだ。

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