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2007 年 6 月 24 日 のアーカイブ

私的制裁

2007 年 6 月 24 日

元々、口が達者だと言われるような子どもだった。
理屈・屁理屈・ルール・善悪を問わず思ったことを口にする子どもだった。
神経質すぎる子どもでもあった。
5歳前後にして、髪の毛が抜けて10円はげができるほどに。

小学校にあがる前に引越をした。
それまでの近所の友達とはお別れをし、新しい場所での生活が始まった。
幸い同じような年齢の子供は近くに沢山いたので、遊ぶ友達はすぐにできた。

しかし、子どもというものは時として残酷なものである。

ある日、1歳~3歳上の子ども達に家に呼ばれた。
その家の両親は留守だった。
そこで人生1回目の私的制裁を受けた。
つまり、リンチというものを経験した。
新参者であり、生意気でもあるその子は目障りだったのであろう。
同時にそれは、信じるものからの裏切りという意味でもあった。

その時の記憶は朧げである。

覚えているのは、ソファ、音量の大きいテレビ、凭れかかったタンス、そこにいた年上の男2~3人、その家の住人である姉妹2人、終らない時間、無抵抗であれば危害が小さくて済むかもしれないという希望、痛がる演技をする自分。

何度も蹴られた。
普通に殴ったり蹴ったりしていては面白味がないので、タンスに凭れかけさせ、ソファの上から何度もジャンプして蹴られた。呻き声を漏らすと、声を出すなと言われた。小学校2~3年生ともなると多少知恵がまわるようで、顔は殴ったりせず、腹や背中や足などを集中的にやられた。
その頃の一つ以上の歳の差による、体力差は圧倒的だった。
ただただ、耐えるだけだった。

いつのまにか私的制裁は終っていた。
男どもは帰ったのか、その場にいたのかは覚えていない。
多分、いなかったように思う。
既に泣き止んではいたが、泣いた目が腫れていたので、親にばれる危険性もあり、すぐには家に返してもらえなかった。

姉妹と取り残され、居場所がなかったので、音量の大きなテレビをショックで放心した振りをして眺めていた。
本当は意識はハッキリしていたが、この場では“放心している振り”“弱っている振り”をするほうがよいのだと考えていた。
彼女らは、“ショックで放心した振り”をみて信じたようだった。
そしてたまに囁きあった。

まるで、幼き我が子を連れ、子どもは分かっちゃいないという思い込みで、子ども自身の話や育児に関する悩みを相談しあう母親達のように囁きあった。

そんなことはないのに。

自分の話をどのような心証で話をしているのかくらいは分かっているし、聞いているし、考えているのだ。
ただそれは、“聞いていない振り”“理解していない振り”“何も考えていない振り”をするほうがよいのだという判断のもとで行っているだけなのに。

それが、“子どもらしい態度”なのだから。

その後、どういう経路でかは記憶が定かではないが、私的制裁の事件はすぐに明るみになった。
父親がひどく怒って怒鳴り込んでいたような気がするし、相手の親が謝罪にきていた気もするが、どちらもあまり覚えていない。

その中で唯一記憶に残っていることがある。

事件が明るみになった後日、窓から外を見ていると、当事者の姉妹が通りかかった。

だから、笑って手を振った。

何故あんなことをされた後に、笑って手が振れるのか?
それは、謝りにきてくれたのだから、これからもまた前のように一緒に楽しく遊べるのだと思っていたからだ。
しかし、姉妹はこちらの想像とは全く意に反した対応だった。

相手は憎らしそうにこちらを睨んだ後ぷいっとよそを向いた。

何故その場面だけが鮮明なのか。
あの憎悪の目を向けられた瞬間に感じた気持ちは一体なんだったのだろうか。
悲しみ?怒り?恐れ?孤独?
うまく言葉で言い表せないが、“なにか”を感じたのは確かである。



日記・散文・その他

共感を求める場で、違った価値観の表明は「思いやりに欠ける」

2007 年 6 月 12 日

ムラ社会だとか、女同士のコミュニケーションとかそういった括りで語るつもりはない。しかし、タイトルのように考える人は存在するし、シチュエーションによっては誰しもが持っている一面であろう。勿論、男にも女にもだ。

b# – 好きなもののことを語る気持ち はてなブックマーク数

共感を求めているのであり、意見は求めていない

前回のエントリについて言及を頂いた。

「~が好き」といった直後に「私は好きじゃない」といったように,全く違う価値観を示すのはちょっと思いやりに欠けるような気がする。盛り上がりに水を差してる気がする。「なぜ,それを今いうの?」と思う。
b# – 好きなもののことを語る気持ち

幾度となくどこかで小さな話題となる「悩みごとを相談する時、相手は答えを求めていない」といったようなとこだろうか。

疑問なのは、自分の好みを表明することが「思いやりに欠ける」ことであると判定されることだ。
(相手を卑下したり、相手の価値観を否定することで自尊心を満そうとするのならば理解できるが)

では、逆のパターンはどうだろう。
「嫌い」と発言した後に、「私は好き」という場合だ。
これも、異なる価値観の表明であるので配慮に欠けるということになのかもしれない。

要するに、プラス方向でもマイナス方向でも、発言された価値観に対抗する価値観の表明は思いやりに欠け、言う必要がないとみなされる場合があるということだ。

「意見交換」とは

前回のエントリ

何故ならば、俺は大抵の会話や対話などにおいて相手が「好きだ」という対象について、自分が好ましくないと判断した場合、「俺は好きではない」もしくは「嫌いだ」と言うであろうから
… …
このように、そもそも「否定」ではなく、意見や価値観の違いの表明であり、そしてその理由はお互いの自分とは違う視点との意見交換でしかない。
suVeneのあれ: 好きな対象を否定される時に感じる嫌悪感について(追記)

と書いたのであるが、この「意見交換」についての前提が違うのかもしれない。
俺にとっての「意見交換」とは、どのように考えたり感じたりしているのかを聞くことであり、話すことだ。
議論や論理立てた話だけが対象ではない。

じゃぁ「我慢して黙ってて!」ってことかと言われると,確かに申し訳ない感じはするんだけど,「~が好き」っていうのは意見交換ではないと思うのです。「嫌悪感」はたぶん言葉がキツイ。ただ,違和感は確実にある。「~が好き」に対して,「・・・が好き」っていう返しだったら,まだわかるんだけど。
b# – 好きなもののことを語る気持ち

もし前提が同じであると仮定すると、共感してくれる仲間が欲しいか、あるいは自分の話を聞いてほしいだけであるということなのだろう。
何にせよ、価値観の不一致(特に対立する)は、避けるべきだということである。

以下の部分は同意できる。

で,「自分も好きだけど,その好きさは間違ってるよ」みたいのが一番イヤなのです。「好きな対象を否定」というのではなくて,「自分の好み方」についてあれこれ言われたくない,と私は思ってます
b# – 好きなもののことを語る気持ち

「好み」に正解も不正解もない。「好み方」への直接の否定は、まさしく価値観の否定である。これは、対立する価値観の表明とは根本的に意味が違うと考えるのだが、どうだろうか。

相手との距離感や何についての話なのかが重要

だということは、前回のエントリに書いた通りである。
こんな俺でも、相手との距離や話している内容によっては、無闇に否定する価値観の言葉を選ばないようにする場合もあるし、ただ相手が話を聞いて欲しいだけのようなら、口を挟まない場合も当然ある。
id:yumizou さんが、「思いやりに欠ける」と考えるのは、どのような関係の人と、どのようなシチュエーションでの会話を想定しているのだろうか気になるところだ。

追記: よくみたら、以下のような場面を想定してそうだった。

「私もそう思う」という人が現れてくれると,「おお,同士よ!」と大喜びなんだけれど,「私はそう思わないな,なぜなら~」なんて言われても困っちゃう。だって,そんなこと聞こうと思って言ったわけじゃないのに。
b# – 好きなもののことを語る気持ち

最後に

「思いやり」とは一体何に対する、思いやりなのだろうか。
少なくとも「人間としての思いやり」ではないはずだ。

異なる意見を表明された人への思いやりが足りないということだろうか。
しかし、それなら異なる意見を表明した人への思いやりはどこに。

id:yumizou さんのエントリに対して大いに共感する人に聞いてみたい話である。

関連エントリ

b# – 好きなもののことを語る気持ち はてなブックマーク数
suVeneのあれ: 好きな対象を否定される時に感じる嫌悪感について(追記) はてなブックマーク数



思想・心理・議論・対話

好きな対象を否定される時に感じる嫌悪感について(追記)

2007 年 6 月 11 日

昨日の続きでも書こうと思ったが、興味のあるエントリを読んだのでそれについて。

奥様、鼻毛が出ておりますことよ – 本当に好きで大切なものを守るために口を閉ざす。 はてなブックマーク数

ざっくりと要約すると

  • 音楽のとあるバンドが好きだ
  • 同じ嗜好を持つ人達と(蘊蓄を含む)話しをするのは楽しい
  • でも、「知識自慢」になるのが嫌いで、くだらない
  • 自分の好きなバンドをどんな形であれ批判されるのが嫌だ

ってな感じだ。

おもしろいと感じたのは、以下の2点だ。

  • 好きである対象について、知識量を競いたくなる心理
  • 好きな対象を否定される時に感じる嫌悪感

前者はどこかの心理学者なり分析なりにまかせるとして、後者について少し感じたことを書こう。
何故ならば、俺は大抵の会話や対話などにおいて相手が「好きだ」という対象について、自分が好ましくないと判断した場合、「俺は好きではない」もしくは「嫌いだ」と言うであろうから、「あぁ、俺は id:wakamura_you さんに嫌がられるタイプなのだなぁ」と考えたからだ。

このエントリに対する俺のコメントはこうだ。

2007年06月11日 suVene 価値観 『好きだというものを否定するのは、私にも好きでなくなって欲しい訳じゃない』というのは非常によくわかる。だが、『自分の価値観を表明したいのならば、私が好きだといった直後に…』というのは、通りにくい意見。
はてなブックマーク – 奥様、鼻毛が出ておりますことよ – 本当に好きで大切なものを守るために口を閉ざす。

まずは、これについて少し補足してみよう。

相手の「好き」を否定する為に発話する訳ではない

また、私が好きだと思っているものを、それほどでもないと思う人もたくさんいるのは当然だし、悪いことだとも思いません。

ですが、私が愛してやまないということを、どんな理屈で持っても否定するのは、正当性の問題でなく、感情的に嫌なのです。
奥様、鼻毛が出ておりますことよ – 本当に好きで大切なものを守るために口を閉ざす。

「感情的に」嫌になるのは理屈ではないし、過剰にケチをつけられれば嫌な気持になるのは理解できる。
(この場合、「過剰な」というのが要点になるのだろうが、ひとまず置いておく)

気になったのは、次の部分だ。

好きだというものを否定するのは、私にも好きでなくなって欲しい訳じゃないはずなのに、なんでそんなこと言うんだろうと、理解に苦しみます。
奥様、鼻毛が出ておりますことよ – 本当に好きで大切なものを守るために口を閉ざす。

理解に苦しむようだ。これは、あくまで俺個人の考えなのだということを前提に説明してみよう。

まず誰かと会話していて、ある対象について、好き嫌いの意見が別れたとしよう。(俺が「嫌い」側だとする)
その場合、その対象を好きな相手を卑下する為に「好きではない」と言う訳ではないし、ましてや id:wakamura_you さんが言うように相手に嫌いになってほしいから言う訳でもない

では、「理解に苦しむ」部分については何故なのか。

それは、こんな感覚だからだ。

俺: へぇー、俺はこれこれこーいう理由で嫌いなのだが、おまえは何で好きなの?
もしくは、
相手:へぇー、俺はこんなところが好きなのだが、何でおまえは嫌いなの?
(好き嫌いの立場はどちらでもよい。仲のよさにより表現が異なるのは、ご想像に)

このように、そもそも「否定」ではなく、意見や価値観の違いの表明であり、そしてその理由はお互いの自分とは違う視点との意見交換でしかない。

とまぁ、ここまでの話しはある程度距離のある人との会話か、愛しすぎていない対象について会話、自分の根源に関わらない話しをしている場合なのだと思う。

一旦置いておいた、「過剰な」の境界

結局ここがポイントなのだろう。
例えば、「カレーが好きか嫌いか」についての会話で意見が別れたとしても、そうそう嫌な気分になる人は少ないだろう。
しかし、「おまえの恋人はデブだから嫌いだ」とか「おまえの子供は生意気なので嫌いだ」などのように言われれば、怒らないまでも、気分を悪くする人を想像することは難しくない。
現に最近も「母親を冒涜された」と怒っている人をみた。これは相手の発言内容の意図と、それに対する解釈の仕方(愛するものへの批判)という点で齟齬があり、感情的になってしまうのはわかる気もする。(それに対する正当性は別問題は別だが)

気をつけなければならないとのは、その指摘されたことが「事実かどうか」は関係なく「嫌いだ」と言われること即ち「否定された」と感じる人もいるのではなかろうかということだ。
(事実でありコンプレックスがある部分であれば違う怒りもありそうだが)

俺自身も、先ほども述べたように(ネット上などを含む)『ある程度距離のある人』に言われるのは平気だが(だって関係ないから)、身近な人に(例えば親や友人)愛するものを否定されるのは悲しい。

ちょっとまってくれ。続きを書きたいが、寝むいので寝る。
今日の夜にでも書く。(たぶん)

追記 2007/06/11 21:08

ん、でだ。
追記したところで、誰が読むのかわからんが気持ち悪いので書いておこう。
新しい記事 があるが、特に言及がないので、個人的なまとめとして書くこととするか。

繰り返しになるが、結局「好きな対象を否定された時の不安・嫌悪感」というものは、「自分が好きな度合い」と「他者との距離感」という軸があり、主にその二つのバランスによって感じるものなのだと思う。
(その嫌悪感は「痛み」と同じで、人によって様々)

そして、その不快感・嫌悪感は何故生まれるのか?

……

うーん。

ごちゃごちゃ書いては消してを繰り返したが、うまくまとまらないのでやめた。
少なくとも、「相手の価値観を否定することで、アイデンティティを確保する輩」の話は今回は関係ない。

最後に気になった点について。

自分の価値観を表明したいのならば、私が好きだといった直後にはやめて欲しいものです
奥様、鼻毛が出ておりますことよ – 本当に好きで大切なものを守るために口を閉ざす。

ブクマコメントにも書いたが、これは無理だと思うのよな。比較的、仲の知れ合った人ならともかく。

何故なら、これは「相手にも好きになってほしい」とまではいかなくとも、相手の価値観より自分の価値観を優先して欲しいといっているようなものだし、「好き」であることが「嫌い」に優先されるという理由もない訳だし。
これって結局、相手の「嫌い」だという価値観の否定だと思う訳だ。
まぁ、だから
『自分が本当に好きなものを私が口に出さなければ、私の大切なものは守られるような気になっていきました』
となっているのかもしれないが。

どちらにとっても損失だ。

なんだか余計に文章が錯乱してきたな。

とりあえず、相手がどんな言論や行動をしようが、自分の信念や尊厳や価値観を踏みにじることはできないし、ましてや汚すこともできない。

もうええわ。おわり。

関連エントリ

奥様、鼻毛が出ておりますことよ – 本当に好きで大切なものを守るために口を閉ざす。 はてなブックマーク数
奥様、鼻毛が出ておりますことよ – そして、頭痛がひどい。。。



思想・心理・議論・対話

「誉める」ことに対する個人的な葛藤 その1

2007 年 6 月 9 日

 一時期「誉める」コミュニケーションと「貶す」コミュニケーションが話題になっていて、その時は仕事の忙しさと、文章を input/output する気力のなさが重なてたっのだが、少し関連するエントリーを追ってみた。
まぁ、ココである程度関連エントリを纏めているようなので、興味がある人は覗いてみてくれ。

 んで、流し読みだがよく見掛けるタイプのエントリとして、「誉め」の文化と「貶し」の文化の比較とか、男女間の違いとか、日本とその他(おもに欧米)での違いとかを分析なり考察なりを加えているかのようなものが多いと感じた。(これらの言及のうち、30前後しか読んでないが)
 「無断リンク文化圏 vs 関連リンク文化圏」などのように、異なる文化(や思想)を持つであろう集団を想定(または規定)して比較したりするのならまだしも、根拠なく既存のカテゴリに当て嵌めて「男は~」「女は~」「日本人は~」などと相関があるように論じ、なんとなく日頃の感覚から「それっぽく」見えそうな文章ばかりで、個人的にはおもしろくなかった。
(根拠なく「それっぽい」文章をかくなんてのは、俺の文章にも腐るほどある訳で! 普段ならそれなりに楽しめるのだが、疲れてるのかもしれん)

そんな 中で、一般的な分析ではなく、独白のようなエントリを書いていた id:tomomoon さんの文章は興味深かった。

ワタシは、「人を褒めること」が苦手だ。
月がでたでた月がでた – 「手榴弾」と「砂糖菓子」

という出だしで始まるこの文章。
そう、俺も「誉める」事に対して苦手意識があるのだ。
(「誉められる」事に対しては、そうでもないのだが)

少し中身を見てみよう。

しかしワタシにとっては、「誰かを褒めること」からして相当に勇気の要る行為だ。

誰かを「褒めること」も「けなすこと」も、実は「相手を自分の価値観の物差しによって評価付け、それを相手にハッキリ伝える」という点では同じ。
月がでたでた月がでた – 「手榴弾」と「砂糖菓子」

確かにその通りだ。(どちらにリスクが、という観点は別として)
そして、その価値観を相手に伝えることにより

いや、例え甘い物が大好きであっても

「今は食べたい気分じゃないんだよ!余計なことすんな!」

「甘いものは好きだけどさ、これは嫌いなんだよ…」

「今は虫歯の治療中だからやめてくれ」

「そんな汚い手で掴んだ物なんかいらねーよ!」

と、拒絶されることだってある。

運が悪ければ、周囲の人達から

「あの人、好かれたいからって甘い物で釣ろうとして…必死だなw」

などと嘲笑されてしまう可能性だってある。

ワタシが恐れているのは、まさにこういうことなのだ。
月がでたでた月がでた – 「手榴弾」と「砂糖菓子」

という理由から、「誉めることが苦手」だという話だ。

なるほど、なるほど。「他者からの拒絶」と「過去の失敗体験」がキーワードな訳か。
俺とは異なる理由なのだが、だからこそ参考になる。
このエントリについていたコメントも、興味深いことが多かったのだが、とりわけ id:REV さんのが参考になった。

2007/05/29 REV: 誉め言葉がコミュニケーションのトークンとなるのは、アカウントが開かれてから。

どう参考になったというのは、後でかくとしよう。

他にも Spherical-moss.net: おらも褒めニケーションが苦手だわ というエントリもおもしろかった。
特に、「社交辞令=悪くない、という解釈」のあたりとか。共感できる部分もあり、異なる部分もありって感じで。

 んな訳で、社会学的な文化比較っぽい一般論は置いておくとして、個人的に「誉める」ことについて感じることについて書こうと思ったのだが、いいかげん長くなってきたので、一旦区切ろうと思う。

また中途半端かよ! みたいな展開で申し訳ねェ。
これじゃ単にエントリ紹介して、「おもしろかったー」「おもしろくなかったー」と言ってるだけの、ただの阿呆だな。
(いや、阿呆だけど)

だが、きっと続きは書く!

たぶん、書くとおもう。

書くんじゃないかな。

ま、書かない可能性もある。

関連エントリ

はてなブックマーク – suVeneのSBM / 誉めるについて はてなブックマーク数
呉市振興委員会 – 今月貰った楽ポ消費(靴!! 靴!!) はてなブックマーク数
月がでたでた月がでた – 「手榴弾」と「砂糖菓子」 はてなブックマーク数
Spherical-moss.net: おらも褒めニケーションが苦手だわ はてなブックマーク数



思想・心理・議論・対話