一時期「誉める」コミュニケーションと「貶す」コミュニケーションが話題になっていて、その時は仕事の忙しさと、文章を input/output する気力のなさが重なてたっのだが、少し関連するエントリーを追ってみた。
まぁ、ココである程度関連エントリを纏めているようなので、興味がある人は覗いてみてくれ。
んで、流し読みだがよく見掛けるタイプのエントリとして、「誉め」の文化と「貶し」の文化の比較とか、男女間の違いとか、日本とその他(おもに欧米)での違いとかを分析なり考察なりを加えているかのようなものが多いと感じた。(これらの言及のうち、30前後しか読んでないが)
「無断リンク文化圏 vs 関連リンク文化圏」などのように、異なる文化(や思想)を持つであろう集団を想定(または規定)して比較したりするのならまだしも、根拠なく既存のカテゴリに当て嵌めて「男は~」「女は~」「日本人は~」などと相関があるように論じ、なんとなく日頃の感覚から「それっぽく」見えそうな文章ばかりで、個人的にはおもしろくなかった。
(根拠なく「それっぽい」文章をかくなんてのは、俺の文章にも腐るほどある訳で! 普段ならそれなりに楽しめるのだが、疲れてるのかもしれん)
そんな 中で、一般的な分析ではなく、独白のようなエントリを書いていた id:tomomoon さんの文章は興味深かった。
ワタシは、「人を褒めること」が苦手だ。
月がでたでた月がでた – 「手榴弾」と「砂糖菓子」
という出だしで始まるこの文章。
そう、俺も「誉める」事に対して苦手意識があるのだ。
(「誉められる」事に対しては、そうでもないのだが)
少し中身を見てみよう。
しかしワタシにとっては、「誰かを褒めること」からして相当に勇気の要る行為だ。
誰かを「褒めること」も「けなすこと」も、実は「相手を自分の価値観の物差しによって評価付け、それを相手にハッキリ伝える」という点では同じ。
月がでたでた月がでた – 「手榴弾」と「砂糖菓子」
確かにその通りだ。(どちらにリスクが、という観点は別として)
そして、その価値観を相手に伝えることにより
いや、例え甘い物が大好きであっても
「今は食べたい気分じゃないんだよ!余計なことすんな!」
「甘いものは好きだけどさ、これは嫌いなんだよ…」
「今は虫歯の治療中だからやめてくれ」
「そんな汚い手で掴んだ物なんかいらねーよ!」
と、拒絶されることだってある。
運が悪ければ、周囲の人達から
「あの人、好かれたいからって甘い物で釣ろうとして…必死だなw」
などと嘲笑されてしまう可能性だってある。
ワタシが恐れているのは、まさにこういうことなのだ。
月がでたでた月がでた – 「手榴弾」と「砂糖菓子」
という理由から、「誉めることが苦手」だという話だ。
なるほど、なるほど。「他者からの拒絶」と「過去の失敗体験」がキーワードな訳か。
俺とは異なる理由なのだが、だからこそ参考になる。
このエントリについていたコメントも、興味深いことが多かったのだが、とりわけ id:REV さんのが参考になった。
2007/05/29 REV: 誉め言葉がコミュニケーションのトークンとなるのは、アカウントが開かれてから。
どう参考になったというのは、後でかくとしよう。
他にも Spherical-moss.net: おらも褒めニケーションが苦手だわ というエントリもおもしろかった。
特に、「社交辞令=悪くない、という解釈」のあたりとか。共感できる部分もあり、異なる部分もありって感じで。
んな訳で、社会学的な文化比較っぽい一般論は置いておくとして、個人的に「誉める」ことについて感じることについて書こうと思ったのだが、いいかげん長くなってきたので、一旦区切ろうと思う。
また中途半端かよ! みたいな展開で申し訳ねェ。
これじゃ単にエントリ紹介して、「おもしろかったー」「おもしろくなかったー」と言ってるだけの、ただの阿呆だな。
(いや、阿呆だけど)
だが、きっと続きは書く!
たぶん、書くとおもう。
書くんじゃないかな。
ま、書かない可能性もある。
関連エントリ
はてなブックマーク – suVeneのSBM / 誉めるについて
呉市振興委員会 – 今月貰った楽ポ消費(靴!! 靴!!)
月がでたでた月がでた – 「手榴弾」と「砂糖菓子」
Spherical-moss.net: おらも褒めニケーションが苦手だわ