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2008 年 3 月 28 日 のアーカイブ

「否定」に対する嫌悪感について

2008 年 3 月 28 日

suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 はてなブックマーク数
において、「何故ですか?」と問うことが、「否定」的な意味と「質問」としての意味を持つというようなことを書いた。そして、やや意識してではあるが、「否定」的な場合の例を、非難めいた価値観を織り交ぜたものとした。
しかし、本来俺が考える、主張に対する「否定」は、それほど嫌なイメージはない。寧ろ、不特定多数に対する意見を交換できる場所ならば、好ましくあることも多い。

嫌な「否定」と嫌じゃない「否定」

まず、嫌な否定の話。人は何故、主張に対する否定的意見に嫌悪感を持つことがあるのだろうか。

ひとつは、(全人格とは言わないが)自分の価値観の一部である「感受性を否定された」と感じるからではなかろうか。
これは、「ネガティブコメント」などにも絡む問題だとは思うが、「○○だと思う」という主張に対し、「○○ではない」と言われることで、「○○だと思った自分の感受性」(つまり価値観)について否定されたと感じるのではないかということだ。

他にも、感受性に直接絡まない主張などにおいての否定についても、嫌な感じを受けたりすることもあるかもしれない。それは、「頭ごなしの否定」などである。つまり、自分の意見を少しも聞いてもらえずに、「ハイハイ、ダメダメ」のように否定される場合である。

一方、嫌じゃない「否定」というのはどのようなものか。
それは、「私はそうは思わない」というような、「相手の感じ方そのもの」に対する否定ではなく、「相手の感じ方に対して、自分の感じ方との差異における否定」などだ。
以前に、このようなことを書いたことがある。

「好み」に正解も不正解もない。「好み方」への直接の否定は、まさしく価値観の否定である。これは、対立する価値観の表明とは根本的に意味が違うと考えるのだが、どうだろうか。
suVeneのあれ: 共感を求める場で、違った価値観の表明は「思いやりに欠ける」 はてなブックマーク数

この考えは今も尚変わっていない。

他にも色々ありそうだが、一旦この辺で終わりにして、前回のエントリのブクマコメへのレスを。

ブクマコメへのレス

# 2008年03月25日 bobokov コミュニケーション, 考察, 言葉 どっちの「何故」も説明を求めているのは同じだしあまり意識する必要性を感じない。否定を嫌う人は確かにかなり存在するっぽいが、理解に苦しむ。そこからが面白いのに。
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

「説明を求めている」のが共通して、相手もそのように解釈していれば、あまり意識する必要がないと思うのですね。エントリの前者の例は、「お前は間違っている」という意味での否定であり、差異の原因を知りたいが上の否定ではないところがポイントでした。

# 2008年03月25日 julajp あまりに何故を連発されると詰問されているようできつくなったり。何故の前に、自分はこのように感じる、思うのだけれど、などの前置きの元に対比検討確認なんてだと応じ易いかも。
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

同意です。なるべく私も質問の前には、「○○と思うが、何故××ですか?」のように、理解している部分と相違がある部分を明確にするようには気をつけてます。

# 2008年03月25日 ululun 「パタン」と書くのは何故ですか
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

クセです!たまにいるようです。> “パタン” 表記 – Google 検索

2008年03月25日 feather_angel communication 俺も俺も/こちらは相手が理解してくれようがしてくれまいが気にしないんだが、それもダメらしく……
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

何が「俺も俺も」なのかがよくわかりませんでした。「こちらは相手が理解してくれようがしてくれまいが気にしない」というのは、個人的な考えではだいたい逆なので。「質問される側」としてエントリを読んだということかな。私の意図はどちらかといえば「質問する側」として書きました。

# 2008年03月25日 nekora 良く見掛けるが、知ってどうするんだろうとしばしば思う。
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

個人的には、単純に「興味」ですね。自分とは全く違う視点であればあるほど、「何故そのように考えたのか?」というプロセスには興味があります。自分が興味のあるテーマであれば尚更。

2008年03月25日 wacok communication 出来ない人に対してWhy~?と聞いてはいけないと英会話で習ったのだが、そういうことかな?
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

これは、エントリのテーマとは多少ずれる気もするのですが、確かに、と思いました。出来ない人に出来ない理由を問うことは酷でしょうね。本人にもその理由がわからないことが多いであろうことから。(もしくは分かっていても改善が困難だろうから)

関連エントリ

- suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 はてなブックマーク数
- suVeneのあれ: 好きな対象を否定される時に感じる嫌悪感について(追記) はてなブックマーク数
- suVeneのあれ: 共感を求める場で、違った価値観の表明は「思いやりに欠ける」 はてなブックマーク数



思想・心理・議論・対話 ,

「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

2008 年 3 月 25 日

よく俺はネット上の文章におけるコミュニケーションで、「何故ですか?」とか「○○が理解できない」という事を書くわけだけれども、それを「主張に対する否定」という意味と解釈されることがあるから、一応気をつけているよ、という話。

質問としての「何故」、否定としての「何故」

まず、「何故?」にも二種類の意味があると思われる。
それは、質問する側が、「自分が正しいと思う主張と異なる」と考える時に発せられる「何故」と、そうでない場合に発せられる「何故」である。

前者の例を挙げると、目上の人間が目下の人間(母から子や、上司から部下、など)に対して叱咤の意味で発せられる、「何故そんなことしたんだ!」「あなたのやったことが理解できない!」といったものがあるだろう。この場合の「何故」や「理解できない」には、明らかに「叱咤される側の方法は間違えていて、他に正しい方法がある」という前提がある故に、「何故そのようにしなかったのか、理解できない」という意味で発せられるのであり、そうしなかった理由を責めている場合である。これが否定としての「何故」である。

もう一方は、「10 + 10 = 100」という教え(主張)があったとして、純粋な疑問から、「それは何故ですか?」や「理解できない」というパタンである。これは、「10進数で考えれば 20 なのに、何か他に理由があって 100 になるのだろうか?」という、「唯一自分の考えが正しいとは考えていない場合」という意味の例だが、質問する側が「20が正しいに決まっている!」という意図があれば、前者のパタンと変わらないだろう。

文章では伝わりにくい、質問としての「何故」

どちらのパタンにおいても、「何故ですか?」や「理解できない」という言葉の裏には、「(Aだと思うのにBと主張しているのは)何故ですか?」のように、自分の方が想定する前提との相違があったり、全く相手の前提が分からない場合に質問するということがほとんどなのであるが、文章のみだと、それプラス、「自分(質問している側)が正しいと信じているのことと異なる」ゆえに質問していると読み取られることが多い気がする。リアルなコミュニケーションなら、まだどのような意図で質問しているのか読み取る情報が多いのだが、文章だと尚更分かりにくいのだろう。

しかし、その背景には「自分(質問される側)が言っていることは正しく、その前提は誰しも理解しやすいはずである」という思い込みがある場合、「理解しやすいはずの主張を理解しない」(質問を投げかけてくる)ということは、間接的に「正しくないといわれている」あるいは「否定されている」と考えるのかなぁ、とも思う。

というわけで

何度か対話したことのある人や、普段のエントリやコメント欄で他の人とのやりとりを見たことある人ならば、相手がどのように解釈する傾向があるかというのが分かるので、それほど気にすることもないが、初めてコメントする人や、質問する人に対しては、「あなたの主張を否定するつもりはないです」的な注釈をつけることがある。
俺が質問するときの、ほとんどの場合は、ただ単純に、相手がその結論に至るロジックや前提を知りたいというだけの意味であって、(明らかな事実誤認だと思うことはともかく)相手の主張を否定するといった意図はないことが多いから。

ただまぁ、その注釈が功を奏しているのか、神経を逆撫でしているのかは、もっぱら不明であるのだが。



思想・心理・議論・対話

「感情の共有派」vs「自称論理派」

2008 年 3 月 20 日

感情の共有ができないことは欠落である はてなブックマーク数
http://anond.hatelabo.jp/20080319004540

を読んで。
内容は、「自称理論派は自分が正しいと思い込んでいて感情を共感する能力なく、なにかが欠落している」という話である。
同意できる部分もあり、幾つか異論がある部分もある。

感情の共有が出来ないことは欠落か

個人的な結論を言えば、全く誰にも共感することが出来ない人間、というのならば欠落である。人間というのは、共感、共有をなくして社会的活動はほとんど無理である。全く他人の感情を推測することが出来ないという意味で「感情の共有が出来ない」のならば、欠点といわざるをえないと考える。

ごく自然に人の感情を汲み取り共感する力を備える人間からすれば、
… 略 …
感情の共有ができない人間も明らかになにかが欠落しているように感じられる。

感情の共有ができないことは欠落である はてなブックマーク数

(強調部分は著者による)

しかし、この「ごく自然に」という発想と、「感情の共有が出来ない人間」という表現が、この文章だけを読むとクセモノである。これは、「自然に感情の共有ができる」という発想から、「感情の共有が出来ないのは不自然」であり欠落であると結論付けているのだが、この前提に同意できない。
個人的に考えるに、人間は、「自然に感情の共有」は出来ない。生物的な恐怖や痛み、(身体的な)快感などの反応などは、まだ共通する部分が多そうだが、価値判断において多様性を認める限り、何を快・不快に思い、何に妬み・尊敬を感じるかなどは、自然と共有したり、推測したりできるものではないと考える。

“常に”極端な人間はいない

引用元のエントリは、「感情の共有の欠落」の例として書いているので、やや誇張気味にしているというのは分かるのだが、“常に”誰に対しても感情を共感する能力が欠ける人間というのは、なかなかいないと考えている。例えば、自分にとってそういう(感情を共有してくれそうにない)人間でも、他人にとっては「感情を共有してくれる相手」なのかもしれないのだ。

たとえば、「Aはおかしい!許せない!」という人に対し、

「Aが正しいと言っている訳ではない」と付け加えながらも、

開口一番「いやAはおかしくないよ」と言う。
感情の共有ができないことは欠落である はてなブックマーク数

この部分だけでは、とても前提が曖昧なので判断しかねるが、この後に続く、

Aなにやらのせいでどうやら憤り苦しんでいるらしい人が

その言葉によってさらに追い込まれるだろうことは、
感情を共有できる人間には簡単に想像がつき、
言うべきではないと察せられる
感情の共有ができないことは欠落である はてなブックマーク数

という、「憤り苦しんでいる」状況を知っており、かつ、「Aはおかしい!」と主張されることが、自分の苦しみに直結しない状況であり、かつ、「Aはおかしいと思うが、どう思いますか?」という意見を求められている場でなく、……。というような条件を付加えていって、やっと同意できる文章になると思う。しかし、

自称理論派にはそれを察する能力が無いのだ。

それどころか、正しいことを言う自分は正しい行動をしていると思っているらしい。
感情の共有ができないことは欠落である はてなブックマーク数

といったようなこれらの文章には、「Aはおかしくないよ」と主張しなければ「どうやら憤り苦しむ」可能性については考慮されていない。実は別の見方からすれば、「よくぞ、Aはおかしくないと言ってくれた!」と考える人間が排除されてしまっている。(例だからしょうがないけど)

このように、ある見方からすれば、「常に感情を共感する能力がない」と断定してしまえそうな事例も、実は「感情を共感する能力がない」とその場にいる周りから判断されているのは、「Aがおかしい!」と言っている人だという可能性も捨てきれないのである。いや、相対的に持っていってもしょうがないのだけれど、可能性は考えておいて損はない(かも)。
上記の引用が、果たして「共感能力」を活かした推測なのかどうかはさておき、何故「論理」が必要なのかを考えてみよう。

何故論理が必要か

単純に考えれば、前提を理解して(又は認めて)、論理が間違っていなければ、結論が推測できるからに他ならない。
そもそも、「感情の共有」というのは、似たような文化や趣味や価値観。あるいは、長い対話の時間をかけて、初めて相手の感情を読み取るといったことが可能になってくると思われるが、そこまで到達するのは、考えているより難しいのである。
その、「感情の共有」をする相手が、(物理距離的な意味で)身近にいる人間ならばまだしも、インターネットにおけるコミュニケーションなどが活発なるに従って、相手がどのような環境で育ち、どのような価値観の元で物事を判断しているかを、文字や言葉から推測しなければならないとなれば、尚更である。(今はまだ文字によるコミュニケーションが主流なので)
しかし、相手の発言により、好み・快・不快・不平不満等を「共感」は出来なくても、「理解」することは可能である。そういう理解の積み重ねによって、初めて感情の推測が可能となってくるのだ。それは「論理」という大げさなものでないとしても、ある程度道筋だった推論であるはずなのだ。要するに、「論理」とはそういった決まりごとを定めたルールなのである。
(極論すれば、現象や感情を変数・数式に当てはめて、だからこういう結論(Q)に至る、という説明でもよい)

怖いのは相手の気持ちが「分かるはず」という思い込み

というのを書こうと思ったが、また今度にしよ。

理論派vs共感派

とりあえず、簡単な結論というか思うことは、自称理論派にしても、自称感情共感派にしても、一まとめに括って大雑把な例を挙げて議論することは、あまり意味がないと個人的に考える。まぁ、意味なんか別に必要ないのだけどね。

参考エントリ

感情の共有ができないことは欠落である はてなブックマーク数

関連エントリ

suVeneのあれ: コミュニケーションとは相互情報伝達のことである はてなブックマーク数
suVeneのあれ: 共感を求める場で、違った価値観の表明は「思いやりに欠ける」 はてなブックマーク数



思想・心理・議論・対話

「表現」するということと、その「読者」

2008 年 3 月 18 日

どんな記事を読みたいでしょうか?お答えくださった方に、はてなポイント差し上げます(全体で計500P) – ヘボメガネ一進一退 はてなブックマーク数
http://d.hatena.ne.jp/hebomegane/20080317/1205724829

を読んで。
リンク先の内容は、「読者はいったい何を求めているのか」ということなのだが、これを読んで最初に思ったことは、「著者はいったい何を求めているのか」だった。

ブログを書く目的とは何か

人によって、ブログを書くこと。すなわち、文章によって表現する意味というのは様々だろうが、俺にとってブログを書くことをいうのは、技術的な話は別として、自分の意見に対する反応をみる事が一番の目的であると思う。反応をみてどうするのかといえば、自分の意見との差異を考えたり、自分にない視点を参考にしたりしている。

そういった価値観のもとでブログを書いていると、「ブログを続けるコツ」のような記事に対して、素朴に疑問を持ってしまう。というのも、タイトルやその内容から「ブログを続ける事」が目的とされているように感じてしまい、何の為にブログを続けるのだろう?という考えが浮かんでくるからだ。(実際は手段としてのコツが書かれているだけで、目的は別にあるのかもしれないが)

「読者が求める」という「読者」について

確かに、自分が何かを表現していると、「読者は何を求めているのか」ということを考えてしまうことには同意できる。これは、特定の知り合いなどとの会話において、相手の求める会話や興味のある内容を話すことで、距離感が近づいたり、場を共有する雰囲気がよくなったり、共に楽しめたりするのと同じ原理ではないかと思う。というのも、特定の知り合いの全く興味ない話を、相手の反応も伺いもせずに話し続けることは、なかなかないのに比べ、ブログなどは、コメント欄などがあるにしても、ある種一方通行的な表現になってしまいがちだからだ。

では、自分の文章を読んでくれる「読者」は、いったい何を求めているのだろうか。俺が思うに、それは「そのブログに興味がある人が「読者」なのだ」ということだ。そう。順序が逆なのである。「読者」が興味があるものは何かではなく、興味があるから読んでいる人が「読者」なのだ。

「読者」は移り行く。しかしそこには「読者」がいる

表現することを長く続けていれば、意見を交わすことが多くなるユーザが表れたり、RSSリーダなどにより、更新情報を拾って読んでくれるユーザというのも、増えてくるだろう。だが、(どれくらいの割合でかは分からないが)逆に今まで読んでいたけど離れていくユーザも少なからずいるのは確かである。考えてみれば当然のことだ。それぞれのユーザが、何を求めて読者になったのかは分からないし、その読者自身の求めるものが変わってくれば、おのずと距離を置くということである。

要するに、俺が言いたいのは、移り行く読者を繋ぎとめる為の文章ではなく、自分が表現した内容に興味を持ってくれる読者の為の文章を書いてたほうがよいのではないかということである。

勿論、ブログを書く目的なんて、人それぞれなので、こんな提案は蹴ってもらって一向に構わないのだが、少なくとも俺は、(数少ない更新において)そのようなスタンスで書いていきたいと考える。

参考エントリ

どんな記事を読みたいでしょうか?お答えくださった方に、はてなポイント差し上げます(全体で計500P) – ヘボメガネ一進一退 はてなブックマーク数

関連エントリ

suVeneのあれ: ブログを続けるコツは何ですか? はてなブックマーク数
suVeneのあれ: 何故 blog を書くのか その1 はてなブックマーク数



Web・Net関連

事実は事実として認識していくしかないという話

2008 年 3 月 10 日

★ 電脳ポトラッチ: 誰かのために心理的リソースをどれだけ割いているか はてなブックマーク数
http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2008/0303001019.php

を読んで。
書いてある内容は、私個人が感じる事実にかなり近いという意味で正しいと思った。

引用元の話は、「他人の好意や愛情を信じ、助けを請う人、またそれが許されている人というのは、自分も他人に対する手助けを惜しまない人」の、具体的例などについてと、そうでないタイプ(他人にリソースを裂くことを何らかの理由でしない(できない)人)の対比や「感情の共有」についてなどである。主に後者について説明を割いている感じだ。

前者については、とりあえず置いておくとして、後者についての分析を少し長いが引用してみよう。

これが、ポジティブな感情は全然表現しないのに、ネガティブな気持ちだけ表に出すような人だったらどうなるかというと。「いつも不機嫌そうな人」、「常に怒りと憎悪のオーラをまき散らしている人」ということになる。
本人的には機嫌の良いときも、誰かに大好きと言いたいときももちろんあるわけだが、その気持ちを全然表に出さないので、結局のところ他人には伝わっていない。たいていいつも仏頂面である。あるいは、そう見える。
こういう人の周りには当然、人は集まってこない。いつも不満そうな顔をしているだけで、楽しい気持ちにさせてくれることが皆無な人間なんて、誰だって近づきたくないに決まっているからだ。
かくしてこういう人は、感情を受け止めて甘えさせてくれる友人にも恵まれず、さらに世の中への怒りや恨みを増幅させるネガティブスパイラルにハマっていくわけである。
★ 電脳ポトラッチ: 誰かのために心理的リソースをどれだけ割いているか はてなブックマーク数

ポジティブな感情を表現しない(できない)人は、ネガティブな気持ちも表現しない(できない)タイプが多いのではないか?とも思ったが、それはともかく、引用元にあるような態度では、おのずと人が離れていくというのは容易に理解できる。「共感」などを与えたり、与えられたりするようなこともなく、下手すれば不平・不満な雰囲気が伝播してきそうな人に近づいていくというのは、一般的に考えて少ないのは当然のことである。
「触らぬ神に祟りなし」といったところか。

続いて、そのような人が起こす反応の一例として、以下のような例を挙げている。

さらに不可解なことに、こういう人は、人の悩みを聞いて優しい言葉をかける人たちのことを、「偽善者だ」と糾弾する。
「共感するふりなんか誰にでもできる。俺は(私は)正直で純粋だから、そんな狡猾なやりかたで他人の気を惹きたくないだけだ」と叫ぶ。見せかけの優しさに騙されて恋愛したり友情を育んだりする奴らはバカだ、とさえ見下すのだ。
要するに、人に優しくできない俺は自分に正直で不器用なだけだから、それを理解しろ、理解して、「純粋な俺様」を好きになれ、というわけである。
★ 電脳ポトラッチ: 誰かのために心理的リソースをどれだけ割いているか はてなブックマーク数

本当に、「不可解」だと思っているのかどうかは、全体的な分析を読んでいて、ある程度予測しているのではないかと感じるのだが、そこは大した問題じゃないか。それと、特に言及はされていないが、このような主張は、実は後者だけではなく、前者の中にも自分自身を含めて「偽善かどうか」を問う態度としてあるとは思うが、それも別の話だな。

個人的には、この引用の中の主張は、「優しい言葉をかける中に潜む「自己愛」や「正義の普遍化」」に対する無自覚さへの批判という意味において、それほど否定的でもないのだが、その後の、「それとは打って変わって、私は不器用で正直だから……」という主張をする者がいるとすれば、そこには批判的な意見を持たざるを得ない。(同じ論理に陥ってしまっているから)

ところがそう主張する本人は、といえば。「今まで辛かったんだね」と、涙目で優しいことを言ってくれるような異性や友人を、人一倍求めているのだ。
かれらの論理でいけば、「甘えるな。私はあんたのママじゃない」と突き放す人こそ、その場しのぎの優しい言葉でごまかしたりしない、「真に正直な人」ということになるはずなのだが、なぜかそういう人間はお気に召さないようなのである。
★ 電脳ポトラッチ: 誰かのために心理的リソースをどれだけ割いているか はてなブックマーク数

実はそうでないタイプのほうが思い浮かぶので、この部分はいささか疑問ではあるのだが、引用元の文章は、それ以外のタイプについて言及していないので、しょうがないか。

長々と引用と感想を書いてきたが、このような状況において、私自身がどのように考えるかという意味において、以下の部分が全くその通りであると考えた。

そんな性格になってしまった経緯については、各々の事情があるのは当然であり、わたし自身も、ここまでひねくれるにあたっては幼少期からの体験の蓄積があるわけだが、どんな個人的事情があろうが赤の他人様にはまったくの「無関係」なので、「事情を考慮して優しくして欲しい」と期待するのも、当然ながらお門違いの甘えである。
「関係がある」状態にしたいのなら、自分で濃密な人間関係を構築するしか方法がないのだ。
★ 電脳ポトラッチ: 誰かのために心理的リソースをどれだけ割いているか はてなブックマーク数

まさに、この部分に尽きる。
これ以上補足することはないし、削る部分もない。

引用ばかりで、付け加える主張もほとんどない、面白みのないエントリになってしまったが、もう少し感じた部分を書き出してみよう。

この引用元のような、「他者の自己愛や偽善について批判しながら、自らの自己愛や承認欲求について省みない人」や、「自らのコミュ能力のなさを正当化する為に他者を攻撃する人」に当てはまる人、あるいはそのような主張に対する批判的視点は、とても同意できるのは今まで述べたとおりだが、それよりも問題だと思うことがある。(「それよりも」というのは、個人的な問題意識として)

それは、「他者に優しく出来ないのも、善意ある行動が出来ないのも、コミュ能力が低いのも、自分が悪からなんだ」と原因を自分に求めてしまう、自己否定的なスパイラルに陥るタイプのことである。いや、ルサンチマン的な行動として、今までの引用のような言動をとる人も含まれる可能性があるが、そうではなく、もっと不可視な人に対する問題である。
だからといって、そういう人たちを「救いたい」というのは語弊があり、そもそも「救うこと」など他者には出来ないのではあるが、その手助け程度でもできればなぁ、と「自分の都合で」そう思う。

最後に、勘違いしないで頂きたいのだが(しないか)、引用もとのエントリでは、「生まれ持った資質としての、コミュニケーションや「感情の共感」を善しとする感覚のなさ」を批判しているわけではない。どちらかといえば、「そういう自分の資質を自覚していくしかない」というスタンスであると解釈している。

コメント欄まで含めて、よいエントリだと思ったので、少しでも興味のある人は、是非コメント欄まで含めて読んでいただきたい文章だった。

参考エントリ

★ 電脳ポトラッチ: 誰かのために心理的リソースをどれだけ割いているか はてなブックマーク数

関連エントリ

- suVeneのあれ: 「非コミュ」について はてなブックマーク数
- suVeneのあれ: 他人を誉める時に感じる葛藤について はてなブックマーク数



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