感情の共有ができないことは欠落である
http://anond.hatelabo.jp/20080319004540
を読んで。
内容は、「自称理論派は自分が正しいと思い込んでいて感情を共感する能力なく、なにかが欠落している」という話である。
同意できる部分もあり、幾つか異論がある部分もある。
Contents
感情の共有が出来ないことは欠落か
個人的な結論を言えば、全く誰にも共感することが出来ない人間、というのならば欠落である。人間というのは、共感、共有をなくして社会的活動はほとんど無理である。全く他人の感情を推測することが出来ないという意味で「感情の共有が出来ない」のならば、欠点といわざるをえないと考える。
ごく自然に人の感情を汲み取り共感する力を備える人間からすれば、
… 略 …
感情の共有ができない人間も明らかになにかが欠落しているように感じられる。
(強調部分は著者による)
しかし、この「ごく自然に」という発想と、「感情の共有が出来ない人間」という表現が、この文章だけを読むとクセモノである。これは、「自然に感情の共有ができる」という発想から、「感情の共有が出来ないのは不自然」であり欠落であると結論付けているのだが、この前提に同意できない。
個人的に考えるに、人間は、「自然に感情の共有」は出来ない。生物的な恐怖や痛み、(身体的な)快感などの反応などは、まだ共通する部分が多そうだが、価値判断において多様性を認める限り、何を快・不快に思い、何に妬み・尊敬を感じるかなどは、自然と共有したり、推測したりできるものではないと考える。
“常に”極端な人間はいない
引用元のエントリは、「感情の共有の欠落」の例として書いているので、やや誇張気味にしているというのは分かるのだが、“常に”誰に対しても感情を共感する能力が欠ける人間というのは、なかなかいないと考えている。例えば、自分にとってそういう(感情を共有してくれそうにない)人間でも、他人にとっては「感情を共有してくれる相手」なのかもしれないのだ。
たとえば、「Aはおかしい!許せない!」という人に対し、
「Aが正しいと言っている訳ではない」と付け加えながらも、
開口一番「いやAはおかしくないよ」と言う。
感情の共有ができないことは欠落である
この部分だけでは、とても前提が曖昧なので判断しかねるが、この後に続く、
Aなにやらのせいでどうやら憤り苦しんでいるらしい人が
その言葉によってさらに追い込まれるだろうことは、
感情を共有できる人間には簡単に想像がつき、
言うべきではないと察せられる
感情の共有ができないことは欠落である
という、「憤り苦しんでいる」状況を知っており、かつ、「Aはおかしい!」と主張されることが、自分の苦しみに直結しない状況であり、かつ、「Aはおかしいと思うが、どう思いますか?」という意見を求められている場でなく、……。というような条件を付加えていって、やっと同意できる文章になると思う。しかし、
自称理論派にはそれを察する能力が無いのだ。
それどころか、正しいことを言う自分は正しい行動をしていると思っているらしい。
感情の共有ができないことは欠落である
といったようなこれらの文章には、「Aはおかしくないよ」と主張しなければ「どうやら憤り苦しむ」可能性については考慮されていない。実は別の見方からすれば、「よくぞ、Aはおかしくないと言ってくれた!」と考える人間が排除されてしまっている。(例だからしょうがないけど)
このように、ある見方からすれば、「常に感情を共感する能力がない」と断定してしまえそうな事例も、実は「感情を共感する能力がない」とその場にいる周りから判断されているのは、「Aがおかしい!」と言っている人だという可能性も捨てきれないのである。いや、相対的に持っていってもしょうがないのだけれど、可能性は考えておいて損はない(かも)。
上記の引用が、果たして「共感能力」を活かした推測なのかどうかはさておき、何故「論理」が必要なのかを考えてみよう。
何故論理が必要か
単純に考えれば、前提を理解して(又は認めて)、論理が間違っていなければ、結論が推測できるからに他ならない。
そもそも、「感情の共有」というのは、似たような文化や趣味や価値観。あるいは、長い対話の時間をかけて、初めて相手の感情を読み取るといったことが可能になってくると思われるが、そこまで到達するのは、考えているより難しいのである。
その、「感情の共有」をする相手が、(物理距離的な意味で)身近にいる人間ならばまだしも、インターネットにおけるコミュニケーションなどが活発なるに従って、相手がどのような環境で育ち、どのような価値観の元で物事を判断しているかを、文字や言葉から推測しなければならないとなれば、尚更である。(今はまだ文字によるコミュニケーションが主流なので)
しかし、相手の発言により、好み・快・不快・不平不満等を「共感」は出来なくても、「理解」することは可能である。そういう理解の積み重ねによって、初めて感情の推測が可能となってくるのだ。それは「論理」という大げさなものでないとしても、ある程度道筋だった推論であるはずなのだ。要するに、「論理」とはそういった決まりごとを定めたルールなのである。
(極論すれば、現象や感情を変数・数式に当てはめて、だからこういう結論(Q)に至る、という説明でもよい)
怖いのは相手の気持ちが「分かるはず」という思い込み
というのを書こうと思ったが、また今度にしよ。
理論派vs共感派
とりあえず、簡単な結論というか思うことは、自称理論派にしても、自称感情共感派にしても、一まとめに括って大雑把な例を挙げて議論することは、あまり意味がないと個人的に考える。まぁ、意味なんか別に必要ないのだけどね。
参考エントリ
関連エントリ
suVeneのあれ: コミュニケーションとは相互情報伝達のことである
suVeneのあれ: 共感を求める場で、違った価値観の表明は「思いやりに欠ける」
コメント
suVeneさんは目が据わっている冷静な方ですね。私は他人から見れば恐らく理論派に観えるのでしょうから、ひとつの理論を紹介したいと思います。
心理の研究者にトール・ノーレットランダーシュという物凄く長い名前の方がいます。ノーレットランダーシュの調査によると、人間の視覚や聴覚などで外部から受信している情報量は約1100万ビットであるのに対して、意識が知覚している情報量は40ビット程度しかないそうです。外部の情報量を全て受信すると、意識はパンクしてしまうので、フィルタリングを掛けている訳ですね。何かを知って覚えることよりも、忘れたり無視したりすることのほうが、重要だったりします。自称理論派に観えているであろう私が言っても説得力なさそうですけどね。
こうした調査を前提にシステム理論の視座から言えるのは、感情は情報の複雑性に対する免疫であるということです。たとえばこの記事に結び付けるなら、自称理論派から理論的で高度な言い回しで批判されたとしましょう。批判された側は、その批判内容の情報を受信すると意識はパンクしてしまいます。だから、「悔しい」とか「ムカつく」という感情を意識の中で顕在化させることで批判されたというアクチュアリティを意識しないようにする、ということです。要は、批判内容ではなく感情の方にスポットライトを当てることで、批判内容を無視するということですね。
理論というのも複雑性を縮減(単純化)するためにあるようなものですから、私の見解では、理論と感情は機能的等価物です。理論が有効な時もあれば感情が有効な時もあります。勿論、たった今私が述べていることも理論に過ぎませんから、この発言を感情的に否定することは可能です。私見によりますと、「こいつの話はツマラナイから聞かない」という感情的攻撃ほど、理論派にとって恐いものはありません。
> 「こいつの話はツマラナイから聞かない」という感情的攻撃ほど、理論派にとって恐いものはありません。
これは確かに怖いですね。
合理的な理由なく(ここでいう「合理性」は絶対的合理性ではなく、前提と推論と結論を経ない、感情から直結する言動のこと)、行動を進められたり、多数派から排除されたりすれば、逆らう方は、解決の手段が「感情論で多数派を取り込む」か、「暴力による支配」などになってきますものね。
感情が理論化することもあると思います。「感情論で多数派を取り込む」というのも、ポピュリズム政治では王道ですし(笑)ニーチェが言う世論の「憤慨ペシミスト」たちも、同じようなものです。
一方で、理論が感情化することもあると思います。合理性や客観性やロジックを追及することが、「合理性信者」や「客観性信者」や「ロジック信者」を生み出すというパラドクスです。メディア論者のノルベルト・ボルツ流に言えば、<脱魔術化たる魔術化>です。
原因があるから結果があるという論理的思考を展開したからといって、それが客観的であるという保証も合理的であるという保証も無いのです。原因には、原因の原因があり、原因の原因の原因があります。無限後退です。
ある人にとって<原因の原因>まで遡ることが客観的であるのに、別の人にとっては<原因の原因の原因の原因>まで遡ってこそ客観的であったりします。そして、こうした無限後退に付き合うことが、ある人にとっては非合理的な選択である可能性もあります。時間の無駄になるかもしれないからです。
だから理論か感情かという選択は、私ならばケースバイケースですね。良く言えば臨機応変。悪く言えば便宜主義です。
http://t.co/mUcwScI <suVeneのアレ「感情の共有派」vs「自称論理派」 >もっぱら私は感情の共有ができない。