先生と生徒、先輩と後輩、親と子、などなど。人間関係には「教える立場」と「教わる立場」という状態がしばしば発生する。
その関係には「与えるもの」と「与えられるもの」という前提があるので、前者に力関係が寄りがちになる。故に、「教わる側」の人間がそれ相応の報酬を支払わなければ、「教える側」の人間は、より一層威圧的な態度をとることがある。これが、対等な友人関係等の「教える側」「教わる側」という一時的な関係ならば、持ちつ持たれつの場合が多いので、さほど威圧的な態度を取るものは少ないだろうが、もう少し疎な関係になると(ネット上における交流なども一部含む)、そのような例を顕著に見られることが多い。
「教えてあげる」から「教えてあげてる」への転化
例を挙げると、最初に「困っている」という人がいて「(解決方法などを)教えてあげる」と名乗りをあげたものがいるとする。前者を Q、後者を A とするならば、A は自分の知識を与える見返りとして、何らかを要求するだろう。これは、最初は対等な立場故に、交換によってその状態を保とうとするある意味わかりやすい思考だと思う。
そしてその見返りとは、相手からの「尊敬」や「名声」或いは「金品」といった直接的な見返りの場合もあれば、「自己満足」や「相手と知識が共有することで自分にも利益がある」場合などの間接的な見返りなどがあるだろう。
間接的な見返りの(割合が高い)場合は、相手の態度に関係なく、自分自身でが納得して終了することが多い。しかし、A が直接的な見返りを求めて「教える側」にたった時、Q が A の望むような見返りをしなければ、その時点で A からの視点で Q との関係は対等ではなくなり、Q に対して「与えているのに、受取っていない」というある意味勘違い的な不公平感がつのってくる。そしてその感覚は、「教えてあげる」から「教えてあげてる」に転化し、最終的には押し付けがましく威圧的になるのである。
見返りのギャップ
上の例で、Q が初めに「教えて欲しい」と頼み A に教えを請い、その結果としての態度が「教えてもらって当然」のようなものならば、A の態度もある程度仕方がないと見るものも少なくないだろう。しかし、Q は「「困っている」事実は伝えたが、「教えてくれ」とは頼んでいない」という認識にある場合、A の態度は「押し付けがましいただの教えたがり」に見えるだろう。そして、A が Q に教えたことで自己満足して終了ならまだしも、直接的な見返りを要求してくるならば、Q にとって A は押し売り以外の何者でもない。(寒いなぁといってたらコートを着せられ金品を要求されるようなものだ)
常識を盾にとる
この押し売りのタチが悪いところは、「教わった側が迷惑を感じている」という事実が一般的に伝わりにくいところだろうか。
- 教えてもらってるのになんだその態度は。
- 教えてくれる人がいるだけ幸せ。
- 君のためを思って指摘しているのに。
などといった、「迷惑を感じている」こととはかけ離れた主張を持って周囲を取り入れやすく、また、そのように悪気もなく考えるものも多い(あくまで個人的な感覚としてというのはいうまでもないが)。
同じような状況として
- チェックする側とチェックされる側
- 監視する側と監視される側
などもある。
これらの状況は元からの力関係に起因する役割分担の場合も多いが、平等な立場からの役割分担でも同じように「役割分担からの勘違い」がうまれやすい。有名な話では、「囚人と看守の実験」のような部類の話である。
気をつけて何とかなるような話かどうかはわからないが、気には止めておきたい事柄だ。
コメント
先生のピュタゴラスは,生徒のピュタゴラスが授業に出るたびにオボローズ銀貨を三枚与えた。
最初はいやいや学んでいた少年だったが,数週間が過ぎたころから貪欲に知識を求めるようになった。
ピュタゴラスはこの生徒を試すために,金がなくなったので授業を辞めなければならないといってみた。
するとこの少年は,授業をやめるのはいやです,お金はこちらからお払いしましょうと申し出たのだった。
あわせて読みたいと思ったので「フェルマーの最終定理」から引用しました。
途中でQとAの立ち位置が入れ替わってないか?
特に「見返りのギャップ」の項。
@せ
入れ替わってる!
> しかし、A は「「困っている」事実は伝えた……
ここ以降全て入れ替わってる!
ご指摘ありがとう。
@匿名
今更ながらありがとう。修正しました。