一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ
を読んで。
一番引っかかったのが以下の部分。
「一方的な非難を受けた」のであれば、それはおおよそ「一方的にそのエントリが誤っている」のだと思う。
一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ 
この考え方はとても怖いものだと感じる。
最初に読んでくれる方に断っておくが、引用元エントリーがどのようなパターンを想定して、引用した部分を述べたかは定かではないので、引用元エントリーへの直接的な批判ではない。あくまで、引用部分を一般化して考えることの危険性を感じる、という話である。(現にそういう人はよくいるので)
まず、「正しさ」「誤り」「客観的」の定義自体をどのように置くかにもよるが、「大多数であること」が「正当性」を担保する、というのは客観的事実として真偽を判断する為の十分条件ではない。
有名な話で言えばガリレオの天動説などもそうだが、戦時中に戦争反対して非国民扱いされた人や、在日や部落との結婚を周囲の「大多数」から批判されたが結婚した人や、ある宗教が8割以上を占める国の中で、異教徒扱いされた人などなど。それぞれ、客観的に正しいとされてる意見が否定されたり、歴史的に振り返って正しかったとされた人が否定されたり、法的に正しいことをしている人が否定されたり、思想・信仰の自由的に非難されたりという状況である。
最初以外の例は、もはや客観的正否などない訳だが、とりあえず「多数派」だから「正しい」という思い込みは、「少数派」を押し殺しかねない危険な思想だと考える。特にイデオロギーの衝突などの場合にこの論理を振りかざすと、泥沼の抗争になることは免れない。
引用元エントリーに対する直接的な批判ではないといいつつ、またもや引用元のブログから抜粋させていただくが、結論を導き出す為のプロセスを見てみよう。
正しい主張をしたのに「これはひどい」と言われるのはどのような原因が考えられるんだろう?
- 読んだ人がみな馬鹿で主張を理解できず「これはひどい」と言った
- 読んだ人がみな結託してネガティブコメントを書いている
- 読んだ人がみな叩きたいがために群がってきたネットイナゴである
- 読んだ人のうち、イナゴではない人もいるかもしれないが、ブックマークを付けた人はネットイナゴばかりだった
- 読んだ人のうち最初の数名がネガティブコメントを書いたため、叩く空気ができ、同調圧力で皆が叩いている
- (著者略)
どれもかなりトンデモな主張じゃなかろうか。
一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ 
と、結論が「トンデモ」なので仮定が間違っていると導き出している訳だが、個人的な観点でみると「トンデモな主張じゃないか」という推定に少し飛躍を感じる。
「(著者略)」とある部分は、私の目から見ても無理筋な気がしたので同意できるのだが、2-1. 2-2. に関して、そのような状況は「炎上」と呼ばれる場所でよく見かけると感じるが、読者の方はどうだろうか。
理由としては、まず「祭り」や「炎上」というのは、叩きたいが為、或いはその場の状況を楽しみたい為に、人が人を呼んで特定のブログなどに対して集まってくるという状況が「祭り」を加速させる。その意味で、2-1. は、全体のページビューに対して、かなりの割合で叩きたいが為に集まってきた人物であるともいえる。
「面白半分で見に来ただけの人もいるのではないか?」という考え方もあるが、そうだとしても、わざわざ「叩きたいが為に集まってきてコメントしている人々」がいるなかで、明らかに少数派意見であり、そのような人たちと関わりあうことを前提にして、あまりよく知らない炎上元著者の為に擁護や反論のコメントを書く人がどれほどいるだろうか。その意味で、2-2. もやはり、「トンデモ」だとは考えにくい。
話がだいぶずれてきたが、引用元のエントリはあくまで「はてなブックマーク」に限った話をしているのかもしれないし、そのへんはよくわからない。しかし、このような論理をもって、冒頭でも述べたように、『引用部分を一般化して考えることの危険性を感じる』というのが、個人的に書き記しておきたい事柄である。
思想・心理・議論・対話
マイノリティ, 常識
ところてん – 日記/2009年01月11日/AmachangのAdWordsについて 
とういう記事に関連する話。
とはいっても、「金儲け云々に対する正当性」に関する価値観について論じるつもりは一切無く、「その価値観を表明するときの言動」について考えたいと思う。
引用元記事の概要とその反応
引用元の記事の概要は
- 個人(id:amachang)が広告を利用して自サイトの宣伝をした。
- 引用元の著者なんだか不快とコメントした。
- 不快の理由を知りたいと広告を出した個人からコメント。
- その回答。
という感じである。そしてその回答の内容は
- 無料ゲームで例えると、プロゲーマーと趣味のゲーマーみたいな感じ(理屈では正等な行為だと認識しているが、感情的に「チート」」のようなイメージ。
- 引用元の著者は「ブログをクリーンなイメージ」で、考えている。(金儲けは不浄なイメージ)
- 不公平的(に感じる)。
後の詳細は、引用元のブログを見てもらうとして、大雑把に言うとこんな感じだ。そして、このエントリに対する反応はかなり反発や理解できないといった類のものが多く感じる。
個人的な解釈
多くの反発はあるものの、個人的にはこの著者が言いたいロジックはわからなくもない(但し、心情的な同意はできない)。人は誰しも、どのように表出するか(またはしないか)の差はあるものの、「嫉妬」「妬み」の感情を持つものだと思っている。多くの反応のなかで「理解できない」という意見があるが、それは「金儲けに対する判断基準」に対して理解できないという意味であって、「嫉妬」「妬み」の感情自体を否定する人は少ないのではないだろうか。(いや、実際は知らんけど)
そして「嫉妬」「妬み」、そしてそこから感じる「不快」さを感じた場合、多くの人はそのまま黙っている気がする。それが「大人」の態度なのかもしれない。確かにあちらこちらで「嫉妬」「妬み」「不快」さを喚きまくられては、立ち行かない場面も多くあるだろうから、それも仕方の無いことだろう。
不快の表明について
ただ、個人的にはそのように押し黙られるよりは、「不快」な感情を直接的に訴えられるか、もしくは率直に表明されるほうが好ましいと考える。勿論、今回の記事のように反発は多くあるだろうが、それでも「その人がどのように考えているか」を知る手がかりになるし、より多くの価値観や考え方に触れる機会が増える事も好ましい。そのためには、自分にとって理解不能な価値観による意見でも、馬鹿にしたり、幼稚な意見だとして扱わないように心がけたいと考える。(多くの反発の意見が著者を馬鹿にしているだとか幼稚な意見として取り扱っているとは考えていない)
従って、

satromi ↓全く持ってその通り、ただの妬み僻みだね。嫌儲とか言う前に、こんなこと書いたら自分がどれだけ悪く見られるか考えなかったのかな? 2009/01/11
はてなブックマーク – satromiのブックマーク – 2009年1月11日 
という意見などは、個人的な反応からは尤も程遠い意見である。“自分がどれだけ悪くみられるかを考えたほうがよい” 要するに、“世間の空気”や“常識的な判断”を読んで、悪くみられそうならば黙っているほうがマシという意見は、弱小な意見を押し殺しかねないと考える。(もしかすると「黙ってる方がマシ」ではなく純粋に「悪く見られるか考えなかったか?」という疑問の可能性もあるが、文脈的にそうではないと判断した)
ただの妬み僻みで十分なのである(あくまで個人的に)。但し、「不快を表明するほうがマシ」とはいっても、以下のような条件付である。
- 「不快」な感情や「嫉妬・妬み」を「絶対的に正当な意見」として耳を貸さない態度ではないこと。
この一点に尽きる。(単に思い浮かばなかっただけだが)
不毛な争いを避ける
これは、「不快の表明」に限った話ではないのだが、話し合うつもりの無い主張と争うというのは、避けたいところである。特にネガティブな感情を正当性に置き換えた言動と争うのは、その主張自体が否定されてしまうと主張している人自体が持つネガティブな感情も受け入れなければならないことになるので、どのような理由であれこちらの言い分を聞かないことが多いだろう。そうなれば、そこからは単なるパワーゲームとなり、「勝者と敗者」が生まれるのみである。(別にそれはそれでよいのだが、個人的に避けたいという話)
まとめ
という訳で、繰返しにはなるが、今回引用したエントリの内容について、エントリの著者の態度は(このエントリに限って)好ましいと判断したという話であり、まったくもって理解不能な価値観に遭遇した時でも、相手に話し合う余地がある限りは、なるべく話を聞いてみたいと思った次第である。
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常識
視点としては面白いのだが、「私たち」という単語の元に、「大して悪くない(と、筆者が思う)こと」を目の前でやられると、「メンツが立たない」という一方向の視点としているところが、どうも納得できない。
<たいして悪くないけど悪いこと>がコッソリ行なわれているうちは、私たちはそれを黙認しうる。だが、それが大っぴらに行なわれれば、私たちはそれを見過ごすわけには行かない。メンツを潰されてはたまらない。
「うわべだけ規則に従って、規則違反はコッソリやるべし」という規律は、「健全な社会」にとって極めて重要である。(炎上と、<他者>のメンツを立てること) – 草日記 
まず、「コッソリ行う」事についてだが、これは<大して悪くない悪いこと>か<とても悪いこと>かという判断以前に、目の前で行われなければ、その価値判断は行われない(行いようがない)ので、その裁断者(裁定者?審判者?)からすれば存在しないようなものである。(仮に、目に付く場所ではあるが申し訳なさそうな態度などを「コッソリ」と呼ぶのであるとしても、「黙認」するか「批判・糾弾」するかは、まさに多様なので『私たちはそれを黙認しうる』は微妙)
次に、目の前でルール違反が行われた場合、それが<大して悪くない悪いこと>と判断する A と、<とても悪いこと>と判断する B がいる事が無視されて、「私たち」は<大して悪くない悪いこと>を「メンツ」の為に当惑することになっている。
確かに、「メンツ」の為に、批判しなければならないことはあるだろう。
ただ、ネット上を含めた観測内における微罪を探し出しては群がって叩いている人達がいるとするならば、果たしてその人達のメンツというのは、一体何に対するメンツだろうかと考えたとき、全てを「メンツ」で考えるのは無理がある。これは、人の内面の話なので、想像でしかないのだが、ほかにも以下のような理由があるのではないか。
- 批判者は、<大して悪くない悪いこと>とは思わず、<とても悪いこと>だという価値観の持ち主で、批判せずにいられない。(喫煙問題とか、エスカレーター追い越しとか)
- 批判者は、立場上批判する役割をおっている。(警官の目の前で信号無視とか、教師の前で私語だとか)(これは「メンツ」に近いともいえるか。ただ、最適解と判断する「役割的」な行動ともいえる)
- 批判者は、相手がルール違反をしていることを大義名分に、誰かを批判することを目的としている。(憂さ晴らしとか?)
- 批判者は、炎上のような騒ぎに便乗して祭り騒ぎにのっている。
これで全ての例が挙がっているわけでは当然ない。要するに、様々な判断の元に批判しうる理由があるわけだが、そこを「私たちはコッソリ行われているうちは良いが、大っぴらに行なわれれば見過ごせない」と括られることに違和感があるわけだ。
ただまぁ、最後のくくりにおいて
インターネットの普及が、「うわべ」と「コッソリ」の間を、パブリックとプライベートの境目を、奇妙な形に捻じ曲げてしまった。炎上は、この捩れがもたらす混乱として在る。
…… 中略 ……
おそらく、公共空間というものについて、よく考える必要がある。
「うわべだけ規則に従って、規則違反はコッソリやるべし」という規律は、「健全な社会」にとって極めて重要である。(炎上と、<他者>のメンツを立てること) – 草日記 
とあるので、メインはこちらなのだろう。確かに、情報伝達とその記憶・検索において加速度的に移り行く現代において、「公共空間」について考える必要があるというのは、同意できる。
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常識
前回の記事でのコメント欄で laddertothemoonさんに返信しようと思っていたら、ちょっと長くなってしまったので記事にする。laddertothemoon さんのコメントについては全文引用するのも気が引けるので、興味のある人は参照してください。
自分自身の「りんごの実とムラ」に対する見解を述べておくと、どのように読んでも個人的解釈において誤読は原理的にありえないと考えている。あれは、そういったムラがあり、そこに住む人がいて、そこに旅人が現れたという話だからだ。ただ、それだけの話なのだが、個人的に伝えたいことや伝えることによって聞きたいことなどはある。そんな話を書こうと思う。
以下 laddertothemoonさんへ返信
自分はこれは前の記事「抑圧と弱者について考える」の続きというか関連なんだな、と思いました。
Posted by laddertothemoon
前の記事の関連といえば関連です。この物語の「ムラ」というのは、個人の目からみたセカイであり、自身の価値観を育んだ土壌です。
「住む村は自分で決めればいいのに」というのはまったくもってその通りだと思います。私もこれに賛成です。もしくは、「人の目を気にせず好きなものを食べるのが個人的に望ましい」というのが答えです。物語にもあるように「外部から見れば」「りんごが好きでないといけない」というのは、全く馬鹿らしい(と感じる人もいる)価値観であり、りんごが嫌ならば他のものを食えばいいのです。自分が納得できるものを。
前回二つの質問をしました。
- 「住む村は自分で決めればよい」「旅人になるという選択もまた然り」というのは、この物語の誰に向けてのメッセージですか。(想定していなかった可能性もありますが、少し考えて頂ければ幸いです)
- 「それは自分で選択できることなのでは?」「自分にとって居心地のいい村を探せばいいのに」とありますが、個人の選択は常に自分自身からも自由であると考えますか。
それに対する答えが
- 「不本意・つらい・イヤだ」と思いながら生きている人、に向けたんだと思います。
- 個人の意思に反する外部諸事情の中においても、それでもなお、個人の選択は個人の意思に基づいたものであると考えます。
Posted by laddertothemoon(引用者による一部抜粋)
とありました。そして最後に
ただsuVeneさんの返答から推測するに、これは前の記事での
「問題なのは、その共同体が抑圧されている者にとって唯一無二であったり、その共同体から他の共同体へ移る為のコストが非常に高い場合である。」
の場合のお話なのかな、と気がつきました
Posted by laddertothemoon
と仰っています。
私が伝えたいテーマ(そしてできればその後他の人の意見を聞きたい)の一つがそこにあります。説明をする為に、少々物語を拡張します。
仮に、「りんごが好きではないのに我慢して好きなふりをしている村人」即ち「不本意・つらい・イヤだと思いながら生きている人」を A というパターンとしましょう。A というパターンのムラビトがとる行動は幾つかあると思います。
B 周りを気にせずにみかんを食べる
C 他のムラへ行く
D りんご好きと戦いながらみかん好きの連中と一緒になる
E 我慢してりんごを食べる(隠れてみかんを食べたり)
簡単に思い浮かぶ例をあげるとするとこれくらいなのですが、上に挙げた例ほど個人的には望ましい結果になると今のところ考えます。しかしながら、その行動をとる時に障壁となる心理や状況や生い立ちがあるということが、説明したいことです。
まず、B のパターンについて書きます。例えば簡単な例を挙げてみますと、laddertothemoon さんは昆虫を食べますか?いや、別に食べてもいいんですけど、要するに生まれ育った文化では食さないけれど、他の文化では普通に食べたりするような例という意味です。犬でも、カエルでもへびでも蜘蛛でもかまいません。そして、仮に laddertothemoon さんが、それらのものが大好きだとします。何故か子どものころからふと口にして以来、おいしくてしょうがない。遊びに出かけてはとって食う。食っても罪にはならないですし (衛生上の問題はありますが)。で、それを家に帰ってからも両親に昆虫料理をねだったりします。しかし両親は、(怒ることはないかもしれませんが)ダメだと仰るでしょう。せめてお弁当の一品にと、それらのものを持っていっても、周りからおかしなやつだと思われます。
自分が好きなものを好きというだけで、周りから奇異の目を受ける。そこで抑圧が働きます。まだ自我の育成が未熟な時に周りから奇異の目で見られるのはとてもつらいことで、なかなか耐えれるものではありません。そこで、「どうしても昆虫が食べたいけれども我慢して他のものを食べざるを得ない」。大人になってから選択する価値観ならば、そういう食べ物の専門店などは探せばあるでしょうけども、子どものころから変な目でみられてきた人は、必ず「罪悪感」(自分が昆虫が好きなのが悪い)や劣等感(コンプレックス)という意識になりますから、「周りを気にせず食えばいい」というのは、理屈ではそうですが、その体に染み付いた罪悪感や劣等感を乗り越えなければなりません。(昆虫というのはあくまで例で、ようするに肯定的ストロークを十分に得られなかったと感じる環境であるということです)
C のパターンについて書きます。すぐに思いつく障壁は、身内の体が不自由であるとか、愛する人がりんごが好きであるとか、自分自身の体が不自由であるなどです。当然、laddertothemoon さんの意見のように肉親共々全てを捨てて他のムラへ行くことも可能です。
しかし、laddertothemoon さんが一つ抜け落ちているなと感じる視点があります(伝えられなかった部分でもあります)。それは、「住む村は自分で決めればいい」というのは、しっかりと自己肯定できる自我が確立した人が前提だということです。そして、自己肯定できる自我が確立するというのは、己の資質にもよりますが、多分に周りの環境が関わります。周りから常に否定されたり、又は認められていないと感じて育った人や、周りの期待に答えようと頑張りはするものの、周りの期待が強すぎて挫折した場合や、過保護な親の元で育った場合、虐待されて育った場合など様々な例がありますが、自己肯定できない理由は必ずしも本人のせいだとは言い切れない事が多々あります。物語にも出てきた((自分が悪いんだ))という価値観が染み付くということです。
私が laddertothemoon さんに問いたいのは、その人たちに向けても尚「住む村は自分で決めればいいのに」と考えるか否かです。前回問いかけた意図はそこにあります。「自分ならば、住む村は自分で決める」ではなく、『「不本意・つらい・イヤだ」と思いながら生きている人、に向けた』というのが気になるのです。前もって断っておきますが、これは善悪の問題ではありません。「なんて冷たい人なんだ」と勝手な断罪をしたいという話でもありません。「そんな見ず知らずの人のことまで考えてられない。ただ単に自分が良いと思う方法を伝えただけだ」というのも、当然ありえるからです。
2つ目の質問の意図を言います。「個人の選択は常に自分自身からも自由であると考えるか」という問いに対して、『個人の意思に反する外部諸事情の中においても、それでもなお、個人の選択は個人の意思に基づいたものであると考えます』との答えですが、私はそうは思いません。この物語のりんごやみかんというのは当たり前ですがメタファです。それらは、常識・文化・価値観(賞賛する対象・卑下する対象など)に置換されます。私が昆虫を食べないのは、私の意志か。屋内で靴を脱ぐのは、私の意志か。無宗教なのは、自由を至上とするのは、人付きあいが苦手なのは、人前で喋ることが苦手なのは、……。
論点として「自由意志の有無」を問うている訳ではありません。差し迫る環境(不本意にせよ)において、選択する意志はやはり自由である。と考えても差し障りないです。問題はその環境において「自己肯定できないという環境」「多大な罪悪感・劣等感を解消できない環境」しか選択肢がない人もいるという話です。
とまぁ、このように物語を拡張して私は何を言おうとしているのか。それは、「だから、かわいそうだから保護しよう」という話ではありません。「世の中は不平等だ」という話でもない。世の中が不平等・不条理・不合理なのは当たり前の事実だから。
私が知りたいのは、そのような環境で自分が育ったと考えた場合、どのように解決しようとするのかということ。自分の立場に置き換えるのが難しいとするならば、例えば自分が愛する人(恋人とは限らず、親でも友達でも別の何かでも)が、そのような劣等感・罪悪感に怯える人であったら、どのように声をかけるのかということです。
前回の記事では、さすがにそこまで書いてなくて、色んな価値観があることや文化や常識による抑圧があったり、それに対抗する勢力があったり、どこにも属せない人がいたりという事実を書いただけです。もちろんあの物語に出てこない人物も沢山います。
はてブコメントとして個人的に
# 2007年01月31日 z0rac z0rac 政治, 社会, 倫理 中心に居るとその他が見えない。その他も大枠では中心の内だったり。/リンゴ食いながらミカンの味を想像してみる。ただ、見たこともない果物の味は想像もできない。
# 2007年01月31日 mind mind ココロザシ|悩み, スジガキ|落ち, セカイ|if場|フレーム, 6 社会系, 5.ゲーム論, 4.Equivalent(同類), キャラ(擬人)型 ――昔々、フルーツ村にパイナップル妖精おじゃパインがおった。果物に飽きたおじゃパインが良い匂いに釣られやって来たのは、ベジタブル村… //みかんとりんごならORが取れるけど aと~aとが矛盾対立している場合は…><
あたりが気になりました。z0rac さんのコメントで言っていることは、まさしく伝えたかったことです。意識された抑圧ではないところで、常識や価値観や構造により、もがき苦しむ人がいるということです。そしてそれは中にいるからこそ構造が見えない。mind さんの言う「aと~aとが矛盾対立」もそうです。対立しなくてもいいのに、抑圧から解放される為のアイデンティティとして対立せざるを得ないという心理もあります。
それを踏まえて、この物語に対してどのように接し、どのように他の登場人物に声をかけるのだろうかと、とても気になります。というか、できれば教えて欲しいです。一言でも二言でも。なので、laddertothemoon さんを含む他の人のコメントを頂いた皆さんの意見も大変参考になります。
これはひとえに、私にはかける言葉が見つからないからです。
suVeneのあれ: りんごの実とムラ
suVeneのあれ: 抑圧と弱者について考える
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抑圧。心理学的な意味合いでの抑圧ではなく(受け入れられないものや、認められないものを意識から無意識下へと押し込める心理)、他者からの抑圧、社会的構造からの抑圧、権力からの抑圧、など主に外部からの抑圧について考える。もう少し簡単に言うと、認められた(られるべきと考える)権利や価値観を外部からの影響により妨げられていると考えることである。
人は意識していようがしてなかろうが様々な抑圧を受けている。抑圧とは、わかり易い例をあげれば、社会的にも認知されている「女性に対する抑圧」などのことだ。ジェンダーの問題などというと、「何だか自分にも関係するけど、蚊帳の外のような感じ」がする人もいると思うが、もっと身近な問題も沢山ある。例えばそれは学校教育における「みんな仲良く」というスローガンの元に人と仲良くすることを強要されることであったり、会話が苦手な人にコミュニケーションがとれない人間はダメ人間であるという価値観を押し付けてくる人であったり、30になったらそろそろ結婚を考えなければならないという親戚・知人などからの圧力であったり、などそういうことである。俺は学がないので、こんなことは既に語りつくされている問題なのかもしれないが、それも踏まえてそのような問題に対する考察をしたりする。
同一の目的がある集団において(共同体と呼ぶ)、その目的を達成する為に障壁となる価値観というのは排除されるのは当然ありえる。問題なのは、その共同体が抑圧されている者にとって唯一無二であったり、その共同体から他の共同体へ移る為のコストが非常に高い場合である。例えば、社会の制度や、世間の一般的常識などは国内にいる限り急激には変わらない。親戚・知人や近所の人などの身近なネットワークに対しても、様々なしがらみなどから変更することが困難である場合がある。職場などの変更も、養うものや蓄えが必要などの理由から、簡単には変更できない人が多いだろう。
ここで注意しておきたいのは、「抑圧を受けている=弱者」ではないということである。個人レベルで見れば抑圧があるのは当たり前のことだからだ。俺が考える「抑圧の問題」とは、その中でも「抑圧に対して対抗する術を知らないもの・できないもの」のことである。要するに、精神的弱者であったり、圧倒的少数派であったりすることだ。
この記事で言っている「抑圧」を定義するのはとても難しい問題でもある。何故ならば、「抑圧されている」と「感じるのは自分」という内面的な問題を抱えるからである。外面的な不当・不利益な問題は誰にも理解しやすいが、内面的な問題は声を上げなければわからないどころか、声を上げても理解されないことが多々ある。元も子もない言い方をしてしまうと「気にするな」という話になってしまうからである。被害妄想との境界もわかりづらい。いや、それどころか「声を上げることすら」できない人は不可視であり、他者からすれば存在しないのと同義であるのだ。
故に、抑圧の構造を見抜き、指摘し「抑圧の見える化」に成功した場合や、その「見える化」をしようとしている人はすごいと感じる。抑圧の事例を比較して「どちらがマシか」なんてことはまったく馬鹿馬鹿しいことである。それは理解しているが、それでも尚抑圧に対して声を上げられない人に対して、言葉では言い表せない気持ちになる。可哀想でもなく、同情でもなく、蔑みでもなく、見下しでもない、何だかやるせない気持ちになる。いや、それは相手に対する感情というよりも、寧ろ自分自身のエゴなのかもしれない。相手を可哀想だと思い、同情し、蔑み、見下しているだけなのかもしれない。その薄汚れた感情を、現実に対する不条理や、どうしようもできないという無力感と置き換えて嘆いているだけなのかもしれない。
望まれない救済を成したい、成せないと思うことは俺の中のエゴであり、優越感であり、醜いものである。その醜さと、救済を望む弱者と、救済を望まない弱者と、それに気づかない抑圧する強者。そして、俺もまたその中の全てに属する人間なのである。
そんな理由はどうでもよいと思うこともある。ただただ、悲しい時があるのだ。
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