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「信用と信頼」に関するイメージを文章にしてみる

2007 年 1 月 25 日

正式な用途は辞書を引いてもらうとして、個人的には<<信用>>と<<信頼>>の概念には大きな違いがある。
「(主観的判断で)信じる」という意味においては、どちらにも共通点がある。

信用
 まず、「信用」という意味を考えてみよう。文字を額面通り受け取ると「信じて用いる」だ。信用する為には
 

  • 信じる為の(必要だと思われる)幾つかの客観的根拠
  • 又は信じるに値する(と判断できる)、対象との直接的経験
  • 又は自分自身の経験から自明であると判断できるもの(“常識”や“当たり前”と思っているもの)

が必要である。そして、これらの条件をクリアしたモノを信じることを「信用できる」と考える。

 しかし、というか、当然のことながらこれらの条件は多分に主観的な推測であるので、信じていたこと(期待していたこと)にそぐわない結果が出ると信用は「失われる」。また、信用している対象と口約束などを含む契約をしていると、信用に値しなかったことに対する「補償を求める」。また、信じていた対象が故意に信じていることに反する結果を選択すれば「裏切り」であると判断する。

 勿論、対象にばかり責任がある訳ではない。例えば、契約関係のない一方的な「信用」を押し付け、その対象が期待する結果にそぐわない場合は、完全に自分の責任である。先にあげた条件のうち、常識や当たり前だと思って過度に相手に期待してしまった場合などはこれに当たる。また、契約関係にあったとしても、信用する為の条件の基準や、判断ミスなどに対する反省も必要になることがある。 信用関係の例を挙げるとするならば、業務を遂行する為の、同僚やパートナーとなる企業など。その他、生活している上で欠かせないモノなども、信用の変形であると考えられる。

 要するに、「信用」の基本は個人と個人(法人)の対等な関係であり、お互いに「期待する結果」が存在し、それを信じることにより円滑に物事を進めていく関係を「信用関係」と呼ぶ。一つ重要なのは「信用関係」には「感情的な好き嫌い」はさほど影響しない。嫌いであっても信用できる場合もあれば、好きであっても信用できない場合もある。(ただし、信用する為の担保が少し厳しくなる可能性はある)

信頼
 次に、「信頼」を考えてみる。こちらは「信じて頼る」だ。信頼する為の条件は

  • 信じる対象に好意的であること
  • かつ、信じた結果にそぐわなくても責任を問わないこと

である。「信用」に比べると、感情的であり、一方的であり、客観的根拠に乏しい気もするが。

 例えば信頼とは、信じていたこと(期待していたこと)にそぐわない結果が出たとしても「失われない」。また、期待していた結果がでなかったとしても「補償など求めない」。そして、信頼していた対象が、故意にこちらが信じていることに反する結果を選択しても「裏切りではない」。
 何故ならば、「頼る」というのは「相手の判断に頼る(を信じる)」ということであり、その結果に対する責任は自分自身の選択にあるからだ。故に、選択した理由や根拠を質問する事はあっても、その理由を責めることはなく、相手の判断を受け入れるということである。信頼関係の例を挙げるとするならば、友人や恋人や肉親や恩師などが当てはまるかもしれない。

 信頼関係とは、一方的である思いが双方向に生じた状態を呼ぶ。必ずしも対等でなければならない事はないが、信頼という名の下に相手に依存していたり、依存されていたりする場合は信頼とは呼ばない。個々が自立し尊重しあう関係でなければならない。

そんな訳で
 信頼と信用の関係は対象によって簡単に割り切れるモノではない。ある場面では信頼していたり、ある場面では信用していたり、またその逆もあったりする。信頼と信用は簡単に切り離せるモノでもない。その境界はとても曖昧である。故に、「信頼しているから~~」「信用しているから~~」というよりは、「~~だから信頼と呼ぶ」「~~だから信用と呼ぶ」と考えるほうが分かりやすい場合もある。

 それでも、境界は曖昧だとしても、その二つの概念は明確に別である。

 俺は、信頼の置ける人物に出会えることはとても恵まれたことだと思うし、俺が信頼する人物からの信頼を得られたならば、それもまた恵まれたことだと思う。

という、概念遊びで、そんなに煮詰めて考えてないんだけども。そんな感じ?



思想・心理・議論・対話

自己と他者を同化する価値観(追記1)

2006 年 10 月 19 日

この様な価値観を持つ人は結構多い気がする。

例えば過去に教師や親からの躾として、とても違和感を覚えている言葉がある。

「他人の嫌がる事をしてはいけない」※ 追記1

これはとても不思議だったし、今でも不思議である。
もちろん、生物学的に、あるいは本能的に嫌がる事をするのはしてはいけないと思う。(脅迫であるとか、傷害であるとか)
ただ、この言葉はとても拡大解釈されて「これが正義」と言わんばかりの勢いで、印籠のように振りかざす人間がいるわけだ。

* 他人の嫌がる事が分かるのか?
はっきり言えば、分かるはずがない。
相手が「嫌だ」と言葉にしたり、態度に示していたりすれば別だが、人間には原則としてテレパシーはない。
親しい仲であれば、好き嫌いを察する事が出来るかもしれないが、他人の好き嫌いなど事前に分かるはずもないし、ましてやネット上の交流などが発生してきている現在においては、ことさら困難である。

* この言葉が出る背景
上記までのことは、大体の人が理解できるだろう。
それを踏まえて「他者が嫌だとアピールしているのに、それをする人間に対して言う言葉だ」と言うかもしれない。
だが、この言葉を言う人に多く(と感じる)、問題だと感じるところは
「自分と被害者(嫌な事をされていると主張する側)の「嫌な事」に対する価値観が同じで、それが一般常識(あるいはマナー)」
だと考えるところにある。
そして、大抵の場合この時の「害を加えているとされる側」の「嫌な事」は無視される傾向にある。
たまたま「被害者と主張する側」の「嫌な事」だと感じる事と、自分が「嫌な事」と感じるという事が一致したというだけなのに、「自分が嫌な事は他人も嫌なはず⇒一般常識」へと転化し絶対視する。

価値観が異なるのは当然のことで、だからこそ言葉による対話が必要なのだと思うのだが、前回の記事でも書いたように、絶対視された価値観以外は「悪」だという事になるので、「人格攻撃」になりやすい。
これが、生徒間の価値観の対立による争いの仲介に教師が入った場合や、兄弟喧嘩の仲介に親が入った時にこれをされると、自分より上の立場から「お前は人の嫌がる事をする最低の人間だ」という烙印を押され、加害を加えたとされたほうは、とても不条理な思いをする。
諍いが起こるという事は、双方言い分があるはずなのに、教師や親 一方的に頭ごなしに押さえつけられ裁かれるというわけだ。

そこに疑問を感じずに育った人間が、同じように他者を裁くようになるのだろうか?

* 自分の価値観を絶対視しないという事
これは自分自身も気をつけようと思っていることなのだが、自分の価値観を一般化して常識やマナーとして絶対視しないという事だ。
自己と他者(又は世間)とを同一視し、自分が考える事は常識的であると判断してしまうと、異論に対しての柔軟性がなくなってしまう。

まぁ、この記事に書いてある事が何のことだか分からない人に、そのような傾向があるから難しいのだけれど。

suVeneのあれ: 空気と自主的言論統制

追記: 2006/10/19 18:00
あまり記事の本質ではないが、ブクマコメントでも指摘されているように、「自分の嫌な事を他人に~」のほうが多いのかもしれない。
(本文中では、そのように言っているが)

その前提として、「自分がされて嫌な事は他人も嫌だろう(可能性が高い)」という推論があると思う。
自戒として行動しているうちは良いが、「自分が嫌な事⇒世間(常識・マナー)として嫌な事」に転化・同化するのが問題だという話。
「自分は嫌だが、他人はどうだろうか?」の問いが欠落するという事。

次の例は飛躍しすぎな面もあるが、例えば他者から嫌だなと思う事をされた時に
「私(自己)は自分がされて嫌な事を我慢しているのに、何故あなたは私にそんな事するんだ!」(他者の「嫌だと思う事」を分けて考えない)
という事であり、仲介者が片方の嫌がる事の価値観を一般化し常識として裁いてしまうという問題点を述べている。

自分がされて嫌な事  の検索結果のうち 日本語のページ 約 17,800 件中 1 – 100
自分がされて嫌な事は の検索結果のうち 日本語のページ 約 13,900 件中 1 – 100 件目 (0.19 秒)
自分がされて嫌な事を の検索結果のうち 日本語のページ 約 266 件中 1 – 100 件目 (0.21 秒)
自分がされて嫌がる事を の検索結果のうち 日本語のページ 約 350,000 件中 1 – 100 件目 (0.94 秒)
自分がされて嫌がる事は の検索結果のうち 日本語のページ 約 333,000 件中 1 – 100 件目 (0.83 秒)

他人が嫌がる事  の検索結果のうち 日本語のページ 約 1,220 件中 1 – 100 件目 (0.58 秒)
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他人が嫌がる事は の検索結果のうち 日本語のページ 約 14 件中 1 – 13 件目 (0.44 秒)
他人の嫌がる事を の検索結果のうち 日本語のページ 約 151,000 件中 1 – 100 件目 (0.24 秒)
他人の嫌がる事は の検索結果のうち 日本語のページ 約 144,000 件中 1 – 100 件目 (0.66 秒)

言い回しは沢山あるので参考程度にしかならないが、どちらにしろ記事が言わんとしている事にあまり関連ない。



思想・心理・議論・対話

空気と自主的言論統制

2006 年 10 月 18 日

なんていう、大それたタイトルはいささかオーバーではあるが、少々最近の無断リンク議論周辺を違った視点で書いてみようと思う。

自主的言論統制
まず、「自主的言論統制」という言葉があるかどうかは知らないが、「自主的+言論統制」というそのままの意味である。
分けて考えると「自主的」というのは「他の指示・援助を受けず自力で行動する事」であり、「言論統制」とは「出版・言論・報道」等の表現物の内容を(国家権力・行政権力が)審査し統制する事を指す。

言葉の説明はこれくらいにして、この言葉がどのような状況を指すのかという具体例を考えてみよう。

た と え ば
軍事政権下などにおけるマスメディアの規制や、刑務所から外部へ(またはその逆)へ手紙を送ろうとする時に「検閲」が入るのは周知の通りで、戦時中の新聞や資料などを見ると黒塗りでまともに読めない文章が多かったりする。
現在、刑務所においてどれほどの検閲がなされているのかはわからないが、もっと身近な例で言えば中国政府におけるネット上の表現物の検閲がグーグルに同意されたりした事は記憶に新しいだろう。

このような状況下に置かれると、そのうち現れる思想が
「どうせ好きなことを書いても検閲され、規制・統制されるのだから、最初から検閲に引っ掛からないモノを書こう」
という発想に至るのは極自然の事であると思われる。

これが自主的言論統制。

国家や公権力による統制が行われる前に「自主的に」言論・表現を統制し無駄な敵や争いごとを避けたりする目的でなされる状態を指した言葉である。

広義におけるファシズムが台頭する前兆、または最中のような土壌であり、日本のマスコミはいまだ自主的言論統制下にあると思っているが、その話は大きすぎるのでここでは一旦おいておこう。(てか、そんな話できない)

“空気のようなモノ”による検閲・統制
正確には公権力による検閲・統制ではないので「検閲」というのは誤用なのだが、しばしばネットやブログ上で議論をしているとこの「自主的言論統制」と呼べるような状態を見かける。
具体例を引用してみよう。

重要なのは他者にとってどうかより、自分はどう思うかどう感じるかってこと。それを人の目や人の反応が気になって書けないのがはてブによくある状況かもね。
メモ – 人の目が気になるのね

3. ネタ的な空気ができた中でブクマするのは悪である、もしくは控えるべき。 ・・・ 略 ・・・
本当は(貶める等の目的以外に)ブクマしたいのに、空気を読むとブクマできないジレンマ。それに従うべきなのかどうかとか。従わないと共犯にされてしまう。
断片部 – floating between – 無断リンク問題を整理したりメタに逃げたり

つーかね、正しいとか間違いとかはどうでもいいんです。向こうが正しくてこっちが間違いであっても関係ない。単純に、「リンクしにくい空気」が醸成されるのはぼくの利益にならないので止めさせたいだけ。
「で、みちアキはどうするの?」- love, tinycafe

最近見たところではこんな感じ。
なんとなくニュアンスが伝わっただろうか。
要するに、何だかよく分からないが反論しにくい空気が漂っていて(反対・反論・批判するだけで人格攻撃する集団がいたり、はなからネタ扱いされたりするような雰囲気)、その空気に支配され自ずから発言を控えたり、ブックマークしなかったり、ブログでいうとエントリーしなかったりする状況だということだ。

正義という価値観
この空気が醸成されるときの弁論(と呼べるかどうか)として、よく用いられるのが「正義」という価値観である。
(こっちの価値観が正義なので相手は悪だという弁論。空気の醸成パターンとしては、他にも色々あけども今回は言及しない)
分かりやすくいえば、表現物の内容に対しての批判ではなく、その表現物を出す事自体を悪とする論法である。

具体例を挙げると
・ 「それは人間として最低ではないだろうか?」
・ 「それは言ってはいけない事だと思う」
・ 「それはいじめである」
・ 「相手が嫌がっているのだからやめればいいのに」
・ 「人としてのマナーがなっていない(常識はずれである)」
などなど。
これらの共通点として考えられるのは、「人間としての価値」「感情」を攻撃したりするという事だ。
もうひとつの共通点として、これらの発言の多くは「何故人間として最低なのか」「何故言ってはいけないのか」「人としてのマナーとは何か」という立証を自分自身は行わず相手に押し付けたり、感情や常識に訴えたりするところにあり、発言者自身は「最低だから最低だ」と繰り返す場合が多い。

ま と め
個人的には“空気”に囚われて反論を控えたり、表現を控えたりはしたくないのでこのような事を書いている訳である。
このように日ごろから、気をつけていても

前回記事の補足と少し考えが修正されたところを書いてはみたが、tinycafe氏の記事は見ていてあまりにも滑稽で笑ってしまうモノが多々ある。
しかし、個人的感覚からブクマしないだけである。
suVeneのあれ: tinycafe氏とはてブの続き

と、ある意味ジレンマに陥ってしまっている。

はっきりいえば、そのようなあるかないか分からないような“空気”に縛られているのは、外部から見れば何もない空間でもがいているようで滑稽である。
ではどのように対処していくのが好ましいのか?(個人的に)
それは、法的に許される範囲で“空気”など気にせず「自分自身が発言したい事を発言すればよい」という簡単な結論になる。
たとえその発言により、周りから人格攻撃を受けたり、常識はずれだとか、最低だとか言われても、それは言っているほうがアレなのでほっとけばいいのである。
(どうしても反論したいのならば(パワーゲーム中だとか)すればよいのだが、同じフィールドとして扱われる事だろう。この辺の対応はもうちょっと考える。)

この記事を書こうと思っていた時に先に同じような結論を導いていた人を見かけたので引用してみよう。

結局自分は自分としてブクマし続けていくしかあるまい。それがいじめの共犯として認知されるなら、それは違うと主張し続けるよ。わかりやすいような説明が求められるのが当然かどうかはわからないけど、自分としては少なくともわかりやすく説明していくよ。
断片部 – floating between – 無断リンク問題を整理したりメタに逃げたり

俺はこの結論に賛成である。

メモ – 人の目が気になるのね
断片部 – floating between – 無断リンク問題を整理したりメタに逃げたり
「で、みちアキはどうするの?」- love, tinycafe

追記: 2006/10/18 19:48
ちょっとタイトル変更

suVeneのあれ: 自己と他者を同化する価値観



日記・散文・その他

[空気論]序論・定義・分析

2006 年 4 月 18 日

◇ 序論 – 空気の定義・分析・考察

はてな界隈では「空気」又は、「空気読め」とは何かについて議論するのが流行っている。
(多少ピークは去った感があるが、社会において根源的問題であると認識する)
これは はてな界のみならず、TVのニュースや雑誌・本等でも度々「コミュニケーション能力不足」として、時には「マナー」「常識」「ニート」「今時の若者」と絡めて取り上げられたりする。

はたして「空気」とは何だろうか。(酸素とか二酸化炭素とか窒素とかなしで)
そして「空気読め」とはどういう意味で使われているのか。
「空気読め」と言いたくなる心理、「空気読め」と言われたくない心理とはなにか。
「空気」は読むべきか、読まざるべきか。
相関して用いられる各々の記号との関連はなんであるか。

これらの問題について、定義、分析、考察をする。

◇ 1. 空気の定義

・ 空気とは「意見・ルール・目的・流れ・指向」の側面を捉えた別称である。従って、個人でも空気を有し、複数の空気が存在する場では、最大公約数として認識されるそれらが「場の空気」として「空気を支配」する。
・ 空気の支配とは力関係(権力・暴力・勢力)に左右される。
・ 意見には「積極的意見の肯定」と「消極的意見の肯定」が存在する。
・ 積極的意見の肯定とは、自分以外の他者の影響が少なく、自らの判断で能動的に行う肯定である。(コントロールされている可能性はあるが、自分自身は能動的に判断していると思う状態も含まれる)
・ 消極的意見の肯定とは、自分以外の他者の影響が大きく、他者が判断しているであろう方向を能動的に肯定する事である。又は、自分自身の意見とは関係なく、より多数の判断に任せようとする受動的肯定である。
・ (暗黙の)ルールとは、成文化・言語化問わず、自分以外の他者と共有されているであろうと判断する「決まり」である。(≒マナー・常識)

◇ 2. 空気の分析

定義が分かりにくくなってしまったが、要約すると「場におけるマジョリティの判断」がキーワードになる。
「空気」自体に「善悪」「正誤」「真偽」の絶対的属性はなく、空気を肯定・又は否定する人々によって相手を従属させようとする場合に「善悪」「正誤」「真偽」の価値が用いられる。(絶対的属性はないが、社会という構造が他人との関係によって維持されている物であるので、マジョリティの判断が「正しい」とされる場合が多い(相対的属性))

◇ 3. 空気に関連する考察 – コミュニケーション能力

「空気」を論じる時、コミュニケーション能力と絡められて論じられる事が度々ある。
何らかの相関関係があると認められる。
「コミュニケーション能力」とは何であろうか。

3-1. 「コミュニケーション」について
コミュニケーションとはそれ自体「コミュニケーション論」「コミュニケーション学」と
研究対象になりうる記号なので、一概に定義することは難しいが、ここでは「相互意思伝達」とする。一方通行ではなく、相手からの応答を受け取ってコミュニケーションと呼べるという事である。

3-2. 「コミュニケーション能力」について
相互意思伝達(目的)を行使する為の能力(手段)である。
能力は以下の分類があると考えられる。
・ 構成能力
・ 伝達能力
・ 理解力

構成力とは
 考えを論理だてて纏める能力。(統合力・判断力・論理的思考等)
伝達能力とは
 構成された意見を伝える能力。(言語力・筆記力・表現力等)
理解力とは
 相手から伝達された意見を理解する能力。(知識・読解力・分析力・解析力・認識力・判断力等)
現実に相手と相対している場合は、言語だけではなく、表情・仕草等の非言語による意思の伝達もそのうちの一つと考えられる。ネットなどの掲示板の場合は、文章力が重視される。
* 蛇足
 コミュニケーション能力は重要であるが、「コミュニケーション」をする為の手段として、又は何らかの達成したい目的の為に重要なのであり、英語力を高める為の英語の勉強等、能力が高くなった時点で満足してしまうような手段の目的化には気をつけたい。

次回は
3-3. コミュニケーション能力と空気の関連
4. 空気に関連する考察 – 常識・マナー・ニート
5. 「空気嫁」の心理
の3本でお送りしま~す。ンマクック。

(予定変更 4/21 3-3. 空気を巡る混乱)

* 関連記事
[空気論]空気を巡る混乱

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日記・散文・その他