前置き
これは特定個人の心理を断定したり、なぞったりするエントリではありません。「うそとネチネチと KY と 」で引用したエントリに対する、状況・関係を推測している部分もありますが、あくまで個人的な推測であり、断定しているわけでもありません。
そういう前提の元に、普段から感じることを文章に纏めた内容になっているので、それを踏まえてお読みください。
本文
何をいまさらなテーマだが、たまたま私生活において、「うそ」や「議論」に関する本(「だまされない〈議論力〉」など)を読み返していたのと、先日書いた記事(「うそとネチネチと KY と 」)と、その他普段目にするものが重なって、やはり「議論する・対話する」というのは、とてもコストがかかるものであり、また、いたるところで避けられているのだなぁ、と改めて考えたと。
ここでいう議論・対話とは、少なくとも「お互いに主観による主張と、その根拠を自分以外の相手に述べること」くらいは前提として使っているが、その前提をクリアする為の条件には、
- お互いに「向き合う」姿勢があること
- 相手の意見を聞いて、自分の主観に影響を受けることや、考えを変更することがあることを認めること
- 一つのテーマについて、お互い共通認識がとれたと“思える”まで繰り返し付き合うこと
といったものが必要になってくる。
その意味で、「うそとネチネチと KY と 」で引用させていただいた男女については、はなから「向き合う」という前提が共有されていないにも関わらず、男性は「相手が真摯に答えて当然」という誤解をしたようにも思う。要するに、あの文章だけ読めば、男性は、女性に「相手にされてなかっただけ」であり、対話するだけの関係を気づくことができなかっただけなのではなかろうか。
「だまされない〈議論力〉」の内容については、今回は深くは踏み込まないが、概要だけいうと、議論に対する考え方・前提などの解釈の仕方・注意点などについて書かれている。その中で一点、今回のエントリに関連する内容に関連する部分を挙げるならば、前置きや相対主義などの説明の部分で、『「人それぞれ」はなにも問題を解決しない』と述べており、さらに『「人それぞれ」は他を尊重するようでいて、実はコミュニケーション拒否』とあるところだ。これは全くその通りだと思う。
「拒否」とあるので、拒否するのは悪いこと、のような意味に読み取れるかもしれないし、実際この本の中では「議論」という意味においてそのように解釈できるが、少なくとも個人的にはそのような意味では考えていない。コミュニケーションを「拒否」するのは、それなりの理由があるからなんだろうなぁ、と考える方が多いと思う。(当然、拒否されて憤慨するシチュエーションもあるだろうけど)
その理由とは、
- 理由を説明するほど考えがまとまっていない。
- コストをかけてまで(又はコストがなくとも)、主観を相手に伝えることに意味や価値を感じない。
- 根拠を説明するだけの語録がない。
- 議論に慣れていないので、価値観の違いから「対立」することを避けたい。
- 相手の考えを、聞きたいと思わない。
- 感じたものを「自分だけのもの」にしておきたい。
などだろうか。
どんな理由にせよ、やはり「人それぞれだから」といって、その話はそれでおしまいにするということは、相手がその会話を望むという要望に対する「拒否」であることには変わらない。
「私はこう思う。あなたがなんと言おうと、なんと解釈しようと、こう思う」
というのは、ひとつの信念であり、誰もそれを否定する事はできないのと同時に、信念であることから、他者の解釈・信念を排他するということである。また、逆に信念でなく、「どうでもよいこと」などについても、いちいちコストをかけることもないだろう。ただ、問題は、その「どうでもよいこと」が共通認識だという思い込みが、いたるところに見受けられると感じることである。