「感覚」と「理屈」が、かけ離れているということは、よくあることだと思う。理屈の上では、「A という手段が合理的」だとわかっていても、自分の「実感」からその方法を取れない場合などだ。
少しわかりにくいかもしれないので、具体例を挙げると、
- (感覚)コミュニケーションに対して、「上手くいきっこない」と悲観的である。
- → (理屈)上手くいくかどうかは、やってみなければわからない。
- (感覚)過去の行動に対して、執着して考え込んでしまう
- → (理屈)済んだことは取り返しようがないので、重要なのは「過去の失敗に対して、どういう行動を起こすか」である。
などというような、「理屈の上ではわかっているが、実感としてそうでない」場合などだ。
(例に挙げたのは、「ネガティブ」な実感に反する理屈であるが、逆のパターンもあるかもしれない)
このような、「感覚」と「理屈」の齟齬は、本人にとっても十分自覚的な場合が多く、それを承知した上で「内面の吐露」のような形で、ブログなどのエントリに表現されていることも多々あるだろう。そして、その「内面の吐露」のような表現に対して、いわゆる「理屈」で対応することは、すれ違いになりやすいのではないかとも思う。
勿論、観察者から「著者の内面」を窺い知ることは不可能だし、内面を察したつもりで発言するには、よほど注意深く一連の表現を追いかけているか、周りの反応を伺うかしなければ無理なことであろう。「断片化された情報」を拾いやすい状況であるネットにおいては、なかなか難しいことなのかもしれない。
だからといって、「著者の感覚と理屈との齟齬を注意深く発掘せよ」ということを言いたい訳ではない。だが、「齟齬がある可能性」は、頭の片隅に置いておいて損はないし、表現者も「齟齬を読み取ってもらえない反応」があることは、至極当たり前のことだと認識しておくのは、精神衛生上よいのかもしれないなぁ、と思った次第である。
齟齬を責められること恐れて表現しない表現者が増えるのは、個人的には寂しいことだから。