「共感」とは何か - suVeneのアレ

「共感」とは何か

普段から俺は、書き手の価値観とは異なる意見を述べても、ネガティブコメントだとは思わないし、否定的意見や批判的意見に関しても同様だ。逆の立場(俺が書き手)だとしても、色んな意見があるんだなぁくらいに思うことが多いはずだ。たぶん。

まぁ、それは置いておくとして、だからといって「共感」がまったく無意味だとか不必要だなどとは考えていない。寧ろ「味方」を増やすためには有効な手段なんだろうと考えているし、「否定」は「敵」を生みやすいというふうにも考えている。そこまで打算的な損得として掘り下げなくとも、普段の交友関係などにおける「共感」はコミュニケーションを円滑にする上でも欠かせないものだろう。

んな訳で、今回は否定的意見や批判的意見や異論・反論の話ではなく、「共感」について考えてみる。まぁ、異論・反論などの二項対立として「共感」を持ってくるところが、水掛け論におけるスパイラル的な部分を補強する結果になるということではあるわけだけれども。

「共感」の定義

文字通りの意味で考えれば
『感情を相手と共にする。相手の状況を理解し同じように感じること』
あたりだろうか。「広辞苑」などによると、
『他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを自分も全く同じように感じたり理解すること。同感。』
ということになるらしい。その他、「同情」や「感情移入」なども大切なキーワードである。

しかし、当たり前のことではあるが、「他人の心と全く同じ」であることを“知る”というのは原理的に不可能であるということは誰しも理解していることだろう。生理的な反応などは“直感”的に相手も同じ感覚・感情だと判断することはあっても、複雑な感情の推移になってくると、「全く同じように共有」することの不可能性は身にしみて“実感”しているのではなかろうか。

だからこそ「共感」の重要性

これは、id:hejihou さんの言葉であるが

id:hejihogu > 分かり合えないと思ってるからこそ、少しでも同じ方向見てたり、部分的でも一致してそうと感じられたら嬉しいんじゃないの

という意見を見て、「なるほど」と思ったことがある。「相手の気持ちがわかる」ことではなく、「相手の気持ちと似たような方向性を持っていること」を感じることが「共感」だということだ。やはり人間というのは原則的に社交的動物なので、何らかの関わり・繋がりを実感すると快感を伴うのかもしれない。

「共感」を「相手への配慮」に摩り替える危険性

このように、「共感」というのは、例え勘違い、又は想像上の産物であると知りつつも尚、相手の状況を理解し、気持ちを想像し、その上で似たような感覚を持つようにするということが必要条件となるわけであるが、あくまでもそれは似たような文化・似たような感受性を持つ場合にのみ有効な訳で、「相手への配慮」がある場合に必ず「共感」する訳ではない、という事を肝に銘じておかなければならない。
その前提を取り違えると、「共感しない人間は相手への配慮が足りない」ということになりやすく、「共感」という実感を伴わない両者によるすれ違いは、互いに互いのことを「相手への配慮がない人間」だと考えてしまうことになるのである。

んな訳で

「共感」というのが大事なのは確かなのだが、それに縛られるあまり自分の意見を言えなくなったり、「共感」することを前提として他者とコミュニケーションを図るというのも本末転倒な話だと思う訳である。安易な「君の気持ちはわかる」という思い込みをするのも危険であり、逆に親身に考えた結果そのように言ってくれる人に対して、「俺の(私の)気持ちなんかわかってたまるか」というのも、「そりゃそうだ」という話なのである。

重要なのは、異論・反論・否定・批判があったとしても、いかに「共感」してくれなかったと(感じた)しても、お互いが何を言おうとしているのか、何を考えたのかという事を、理解しあおうという合意の元で図られるコミュニケーションということなのではなかろうか。
(んなもん「何が重要かは人による!」と言われたら、これまた「そりゃそうだ」って話なんだけれど)

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コメント

  1. [心理][雑感]「理解」と「共感」は何が違うのか

    suVeneのあれ: 「共感」とは何かを読んで。 「共感」を「相手への配慮」に摩り替える危険性 このように、「共感」というのは、例え勘違い、又は想像上の産物であると知りつつも尚、相手の状況を理解し、気持ちを想像し、その上で似たような感覚を持つようにするということが

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