今まで emone を主に利用していたが、今日 T-01A を買ってきたので、とりあえずアプリからインストール。一応 T-01A でラフ動作で確認したもの。
アプリインストール
ユーティリティ・その他
WindowsMobile用のアプリのインストール管理。更新チェックや、旧バージョンのインストールができたりと、超便利。
task管理とアプリケーションランチャ
カスタマイズに必要なレジストリ変更。あんまり使うところない。
画面キャプチャ。
ファイラ
多機能ファイラ。エクスプローラのような。使い心地がよい。便利。GSFindeer + for W-ZERO3 の方がもうちょっと便利なんだけど、オプション設定でエラーがでるので、こちらを利用。
データ(画像・動画・めも)
いわずと知れた、マルチプラットフォームめも同期ツール。
エディタ。使い勝手よし。
emone のときは、XnView Pocket や TCPMP を使ってたのだが、T-01A は KinomaPlay という凄そうなマルチメディアプレイヤーと 結構高性能な WindowsMediaPlayer がインストールされてるので、しばらく
様子見。※ 追記 2009/06/21 23:56
とりあず、一旦ここまで。
追記: 2009/06/21 23:56
と思ったけど、画像の表示がフラットにライブラリに表示されて、見たい画像がすぐに探しにくいので、やっぱり XnView はインストール。
XnView Pocket
後で追記する。
日記・散文・その他
mobile, T-01A
一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ
を読んで。
一番引っかかったのが以下の部分。
「一方的な非難を受けた」のであれば、それはおおよそ「一方的にそのエントリが誤っている」のだと思う。
一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ 
この考え方はとても怖いものだと感じる。
最初に読んでくれる方に断っておくが、引用元エントリーがどのようなパターンを想定して、引用した部分を述べたかは定かではないので、引用元エントリーへの直接的な批判ではない。あくまで、引用部分を一般化して考えることの危険性を感じる、という話である。(現にそういう人はよくいるので)
まず、「正しさ」「誤り」「客観的」の定義自体をどのように置くかにもよるが、「大多数であること」が「正当性」を担保する、というのは客観的事実として真偽を判断する為の十分条件ではない。
有名な話で言えばガリレオの天動説などもそうだが、戦時中に戦争反対して非国民扱いされた人や、在日や部落との結婚を周囲の「大多数」から批判されたが結婚した人や、ある宗教が8割以上を占める国の中で、異教徒扱いされた人などなど。それぞれ、客観的に正しいとされてる意見が否定されたり、歴史的に振り返って正しかったとされた人が否定されたり、法的に正しいことをしている人が否定されたり、思想・信仰の自由的に非難されたりという状況である。
最初以外の例は、もはや客観的正否などない訳だが、とりあえず「多数派」だから「正しい」という思い込みは、「少数派」を押し殺しかねない危険な思想だと考える。特にイデオロギーの衝突などの場合にこの論理を振りかざすと、泥沼の抗争になることは免れない。
引用元エントリーに対する直接的な批判ではないといいつつ、またもや引用元のブログから抜粋させていただくが、結論を導き出す為のプロセスを見てみよう。
正しい主張をしたのに「これはひどい」と言われるのはどのような原因が考えられるんだろう?
- 読んだ人がみな馬鹿で主張を理解できず「これはひどい」と言った
- 読んだ人がみな結託してネガティブコメントを書いている
- 読んだ人がみな叩きたいがために群がってきたネットイナゴである
- 読んだ人のうち、イナゴではない人もいるかもしれないが、ブックマークを付けた人はネットイナゴばかりだった
- 読んだ人のうち最初の数名がネガティブコメントを書いたため、叩く空気ができ、同調圧力で皆が叩いている
- (著者略)
どれもかなりトンデモな主張じゃなかろうか。
一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ 
と、結論が「トンデモ」なので仮定が間違っていると導き出している訳だが、個人的な観点でみると「トンデモな主張じゃないか」という推定に少し飛躍を感じる。
「(著者略)」とある部分は、私の目から見ても無理筋な気がしたので同意できるのだが、2-1. 2-2. に関して、そのような状況は「炎上」と呼ばれる場所でよく見かけると感じるが、読者の方はどうだろうか。
理由としては、まず「祭り」や「炎上」というのは、叩きたいが為、或いはその場の状況を楽しみたい為に、人が人を呼んで特定のブログなどに対して集まってくるという状況が「祭り」を加速させる。その意味で、2-1. は、全体のページビューに対して、かなりの割合で叩きたいが為に集まってきた人物であるともいえる。
「面白半分で見に来ただけの人もいるのではないか?」という考え方もあるが、そうだとしても、わざわざ「叩きたいが為に集まってきてコメントしている人々」がいるなかで、明らかに少数派意見であり、そのような人たちと関わりあうことを前提にして、あまりよく知らない炎上元著者の為に擁護や反論のコメントを書く人がどれほどいるだろうか。その意味で、2-2. もやはり、「トンデモ」だとは考えにくい。
話がだいぶずれてきたが、引用元のエントリはあくまで「はてなブックマーク」に限った話をしているのかもしれないし、そのへんはよくわからない。しかし、このような論理をもって、冒頭でも述べたように、『引用部分を一般化して考えることの危険性を感じる』というのが、個人的に書き記しておきたい事柄である。
思想・心理・議論・対話
マイノリティ, 常識
YES/NOが知りたい質問とYES/NOで答えさせたい質問の違い – novtan別館 
どこかの誰かとやりとりしてたなかでのぼやきのような記事だったが、その経緯は知らないので、エントリの内容に対して考えたことだけ書き留める。
答えが多値をとる場合、その答えの可能性を設問によって狭めることは可能であって、それがある意図を持って誘導的になされたときは誘導尋問であるといえるんだろうけど、2値の場合に誘導尋問とかはありえない。
YES/NOが知りたい質問とYES/NOで答えさせたい質問の違い – novtan別館 
疑問に思ったのは後半の『2値の場合に誘導尋問とかはありえない』の部分。
前半の『答えが多値をとる場合、その答えの可能性を設問によって狭めることは可能』という部分は理解できる。ただ、『2値の場合に誘導尋問とかはありえない』というのがひっかかる。Yes/No の二択であっても、誘導的な設問は可能じゃないかと思うが、どうなのだろう。(まぁ、俺が「誘導尋問」の解釈を間違えてるのかもしれないが)
例えば、誘導とはいえないかもしれないが、何らかの先入観を与えてYes/Noを迫る場合。
- 自分の意見や一般論を述べてから相手に Yes/No の決断を迫る。(心理的圧迫)
- あそこにいたあなた以外は○○に見えたと言っていましたが、あなたもそう見えましたか?
これは、「知りたい質問」と「答えさせたい質問」とが織り交ぜになっているとは思うが、圧迫をかけて「誘導」したことにはならないのだろうか(疑問)。
他には、ひとつの設問だけでなく、いくつもの Yes/No を繰り返して、全体として何かに誘導するようなパターンとか。 引用元のタイトルは、、「明らかに2値であること」と、「多値であるのに2値(或いは方向)を迫ること」の違いを言っているのだと思うが、「明らかに2値」でも、質問の仕方と積み重ねによって、最終的に答えさせたい(誘導したい)内容に、寄せていくことは可能だと思うのだけれども、よい例が思い浮かばないのが残念。要は部分としてみれば『2値の場合に誘導尋問とかはありえない』ように見えても、全体を見れば「誘導」されていたという状況のような。(多少詭弁的ではあるが、誘導尋問はある意味詭弁スレスレなものもある?)
いずれにせよ、「2値かどうか」と「誘導されているか」は、文脈抜きで『2値の場合に誘導尋問とかはありえない』と言えるほどの根拠はない、というのが感想。
まぁ、
だから、YES/NOでの設問がすなわち誘導尋問を意味する、なんて思っている人はいるわけないんで わざわざ説明しなければならないわけないんだけど…
YES/NOが知りたい質問とYES/NOで答えさせたい質問の違い – novtan別館 
ってのは、上記までの説明と同じ意味で同意するわけだけども。
日記・散文・その他
考えたこと
いままで、このブログの feed アドレスは
http://feeds.feedburner.jp/suvene
だった訳ですが、CNAME で
http://feeds-d.zeromemory.info/suvene
にも設定してはいました。が、feedburner の google アカウント完全移行がなされたようで、多分その時点でfeed の配信ができていなかったようです。放置気味だったので、その事実にさっき気づいたので、早速 google にアカウントをちゃんと移行して、CNAME の設定をしなおして、上記アドレスで配信可能なことを確認しときました。
過去のアドレスについては、どれ位の期間配信されるか未定のようなので、こんなブログでも、何か更新があれば読んでくださるかたがございましたら、お手数ではございますが、
http://feeds-d.zeromemory.info/suvene
の方に変更してください。
ちなみに、wordpress にはコメントだけの feed もデフォルトであるので、そちらのアドレスは
http://feeds-d.zeromemory.info/suvene-comments
です。
フィードアドレスが変わるのは残念だけど、いい機会なのでよろしく。
日記・散文・その他
更新通知
生きている意味が圧倒的にわからない 
と、その反応の
はてなブックマーク – 生きている意味が圧倒的にわからない 
を読んで感じたこと等。
1つ目の記事は、よく見かける生きることにおける「虚無感について」というか「無意味さ」について、《理屈》で疑問点などを揚げている文章。それほど長くないので目を通してもらった方が早いかも。
2つ目の記事は、それに対するひとこと反応。
ざっくりみた感じでは(件数を数えた訳ではないが)、
- 「意味」自体考えることに意味あるの?
- 「意味」なんてないのだから、今を楽しめばいいじゃない。
- 「これはひどい」「ネタ」「中二病」などの、あまりまともな意見と取り合わないもの。
というような反応が見受けられる。(あくまで反対意見だけのパターン)
で、なんというか、このような記事に対して、このような反応は、これまたよくあるパターンなのだけれど、それをみていつも思うのは、あくまで
ズレているのだなぁ、という感覚。
どの辺にズレがあるのかといえば、ひとつは、《感覚》として「意味がなくても今を楽しむ」ことができない(又は問題にしていない)という文章に対して、「今を実感せよ」という、
「実感できないことを実感せよ」と迫るナンセンスさや、「意味を定義することの無意味性」は既に《理屈》として理解しているのに、再度それを違う角度から《理屈》として説明したり、「《感覚》として生きよ」という指摘は、
それこそ意味をなさないものではないかなぁ、などなど。
簡単に言ってしまえば、「究極的な意味を考えること自体が無意味なので、生きている今を楽もう」という《理屈》と《感覚》が伴っていれば(或いはそういう「価値観」なら)、そもそも1つ目の記事はできない訳で。
んで、ズレだけならまだしも、最後のパターンであげた、「まともに取り合わない」ってのは、読んでて一番残念な気持ちになるというか。(もちろん、異なる価値観を「ひどい」というのも、「ネタ」扱いするのも、原則自由だという前提で)
何故なら、弱っている・苦しんでいる?(ように見える)価値観の内容に対して、その表現をまともに取り合わないというのは、その表現した本人に対して、さらに苦痛を与えるのではないだろうか?と考えてしまうからである。
少なくとも個人的には、異なる価値観や理屈で悩んでる人を見かけたとき、例えその解決方法が自分にとっては当たり前の《理屈》であり《感覚》である内容であったとして、その意見に対してなにかリアクションを取る必要がある場合には、「はなから取り合わない」という言動をとらないように気をつけたいと思う。仮にどうしても「取り合う価値がない」と判断したが、相手が真剣に主張しているのならば、その相手から頼まれない限り「取り合わないことをわざわざ伝える」ことを避けたいところである。
勿論、決定的な矛盾や根拠がない限り、断片的な文章や情報だけでは、「ネタ」か「真剣」かはわからないので、その判断以前の行動として。
日記・散文・その他
マイノリティ, 価値観
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