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「多数に非難を受ければ一方的に非難を受けた側が悪い」は真か

2009 年 6 月 20 日

一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそはてなブックマーク数 を読んで。

一番引っかかったのが以下の部分。

「一方的な非難を受けた」のであれば、それはおおよそ「一方的にそのエントリが誤っている」のだと思う。

一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ はてなブックマーク数

この考え方はとても怖いものだと感じる。

最初に読んでくれる方に断っておくが、引用元エントリーがどのようなパターンを想定して、引用した部分を述べたかは定かではないので、引用元エントリーへの直接的な批判ではない。あくまで、引用部分を一般化して考えることの危険性を感じる、という話である。(現にそういう人はよくいるので)

まず、「正しさ」「誤り」「客観的」の定義自体をどのように置くかにもよるが、「大多数であること」が「正当性」を担保する、というのは客観的事実として真偽を判断する為の十分条件ではない。

有名な話で言えばガリレオの天動説などもそうだが、戦時中に戦争反対して非国民扱いされた人や、在日や部落との結婚を周囲の「大多数」から批判されたが結婚した人や、ある宗教が8割以上を占める国の中で、異教徒扱いされた人などなど。それぞれ、客観的に正しいとされてる意見が否定されたり、歴史的に振り返って正しかったとされた人が否定されたり、法的に正しいことをしている人が否定されたり、思想・信仰の自由的に非難されたりという状況である。

最初以外の例は、もはや客観的正否などない訳だが、とりあえず「多数派」だから「正しい」という思い込みは、「少数派」を押し殺しかねない危険な思想だと考える。特にイデオロギーの衝突などの場合にこの論理を振りかざすと、泥沼の抗争になることは免れない。

引用元エントリーに対する直接的な批判ではないといいつつ、またもや引用元のブログから抜粋させていただくが、結論を導き出す為のプロセスを見てみよう。

正しい主張をしたのに「これはひどい」と言われるのはどのような原因が考えられるんだろう?

  1. 読んだ人がみな馬鹿で主張を理解できず「これはひどい」と言った
    • (著者略)
  2. 読んだ人がみな結託してネガティブコメントを書いている
    1. 読んだ人がみな叩きたいがために群がってきたネットイナゴである
    2. 読んだ人のうち、イナゴではない人もいるかもしれないが、ブックマークを付けた人はネットイナゴばかりだった
  3. 読んだ人のうち最初の数名がネガティブコメントを書いたため、叩く空気ができ、同調圧力で皆が叩いている
    1. (著者略)

どれもかなりトンデモな主張じゃなかろうか。

一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ はてなブックマーク数

と、結論が「トンデモ」なので仮定が間違っていると導き出している訳だが、個人的な観点でみると「トンデモな主張じゃないか」という推定に少し飛躍を感じる。

「(著者略)」とある部分は、私の目から見ても無理筋な気がしたので同意できるのだが、2-1. 2-2. に関して、そのような状況は「炎上」と呼ばれる場所でよく見かけると感じるが、読者の方はどうだろうか。

理由としては、まず「祭り」や「炎上」というのは、叩きたいが為、或いはその場の状況を楽しみたい為に、人が人を呼んで特定のブログなどに対して集まってくるという状況が「祭り」を加速させる。その意味で、2-1. は、全体のページビューに対して、かなりの割合で叩きたいが為に集まってきた人物であるともいえる。

「面白半分で見に来ただけの人もいるのではないか?」という考え方もあるが、そうだとしても、わざわざ「叩きたいが為に集まってきてコメントしている人々」がいるなかで、明らかに少数派意見であり、そのような人たちと関わりあうことを前提にして、あまりよく知らない炎上元著者の為に擁護や反論のコメントを書く人がどれほどいるだろうか。その意味で、2-2. もやはり、「トンデモ」だとは考えにくい。

話がだいぶずれてきたが、引用元のエントリはあくまで「はてなブックマーク」に限った話をしているのかもしれないし、そのへんはよくわからない。しかし、このような論理をもって、冒頭でも述べたように、『引用部分を一般化して考えることの危険性を感じる』というのが、個人的に書き記しておきたい事柄である。

思想・心理・議論・対話 ,

「人生の意味」を考える無意味性と理屈と感覚と反応

2009 年 6 月 13 日

生きている意味が圧倒的にわからない はてなブックマーク数

と、その反応の

はてなブックマーク – 生きている意味が圧倒的にわからない はてなブックマーク数

を読んで感じたこと等。

1つ目の記事は、よく見かける生きることにおける「虚無感について」というか「無意味さ」について、《理屈》で疑問点などを揚げている文章。それほど長くないので目を通してもらった方が早いかも。

2つ目の記事は、それに対するひとこと反応。

ざっくりみた感じでは(件数を数えた訳ではないが)、

  • 「意味」自体考えることに意味あるの?
  • 「意味」なんてないのだから、今を楽しめばいいじゃない。
  • 「これはひどい」「ネタ」「中二病」などの、あまりまともな意見と取り合わないもの。

というような反応が見受けられる。(あくまで反対意見だけのパターン)

で、なんというか、このような記事に対して、このような反応は、これまたよくあるパターンなのだけれど、それをみていつも思うのは、あくまでズレているのだなぁ、という感覚。

どの辺にズレがあるのかといえば、ひとつは、《感覚》として「意味がなくても今を楽しむ」ことができない(又は問題にしていない)という文章に対して、「今を実感せよ」という、「実感できないことを実感せよ」と迫るナンセンスさや、「意味を定義することの無意味性」は既に《理屈》として理解しているのに、再度それを違う角度から《理屈》として説明したり、「《感覚》として生きよ」という指摘は、それこそ意味をなさないものではないかなぁ、などなど。

簡単に言ってしまえば、「究極的な意味を考えること自体が無意味なので、生きている今を楽もう」という《理屈》と《感覚》が伴っていれば(或いはそういう「価値観」なら)、そもそも1つ目の記事はできない訳で。

んで、ズレだけならまだしも、最後のパターンであげた、「まともに取り合わない」ってのは、読んでて一番残念な気持ちになるというか。(もちろん、異なる価値観を「ひどい」というのも、「ネタ」扱いするのも、原則自由だという前提で)

何故なら、弱っている・苦しんでいる?(ように見える)価値観の内容に対して、その表現をまともに取り合わないというのは、その表現した本人に対して、さらに苦痛を与えるのではないだろうか?と考えてしまうからである。

少なくとも個人的には、異なる価値観や理屈で悩んでる人を見かけたとき、例えその解決方法が自分にとっては当たり前の《理屈》であり《感覚》である内容であったとして、その意見に対してなにかリアクションを取る必要がある場合には、「はなから取り合わない」という言動をとらないように気をつけたいと思う。仮にどうしても「取り合う価値がない」と判断したが、相手が真剣に主張しているのならば、その相手から頼まれない限り「取り合わないことをわざわざ伝える」ことを避けたいところである。

勿論、決定的な矛盾や根拠がない限り、断片的な文章や情報だけでは、「ネタ」か「真剣」かはわからないので、その判断以前の行動として。

日記・散文・その他 ,

個人的な意見を「一般人」として他者を責める行為について

2009 年 2 月 22 日

タイトルにあるような言動をたまに見かけるが、個人的にはあまり好きではない。というか、きらいである。

きらいな理由はいくつかあって、まず

  • その個人的な意見が「一般的」(マジョリティ的)であるという根拠が薄弱なことが多い。
  • 「一般人」(マジョリティ的)の意見であることが真だとしても、それを理由にそうじゃない人を「一般人として」責める理由にはならない。

というのが思い浮かぶ。
今回見かけたのは、

Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex はてなブックマーク数

という記事だが、概要は

「ことわざやルールがあるのは“それが足りてない、それが実現できてない”から、存在すると思う。で、「罪を憎んで人を憎まず」というのもそれに当てはまる。だから、意見が叩かれたりするときは行為だけ責めてると考えるのではなく、人格まで責めてると考えた方が正確さを増すと思う」

という感じだ。

まず、前提条件としての、「ルールの存在理由」についてはある程度同意できる部分がある。全ての人が画一的なルールに則って行動していれば、それを規制するようなルールを規定するという概念すら抱かないのがほとんどであろう。「罪を憎んで人を憎まず」の例にしても、確かに犯罪者を憎む人は多い気がする。だからといって、今回話題になっている話を「だから」で結合し「人格まで責めている」とするのは、論理が飛躍しすぎである。
(ちなみに、「今回話題になっている話」とは、簡単にいうと「ケアレスミスをしたという事実」を公開した意見について、「バカな行為をしたもんだ」みたいなこと。詳しくは各自で調べてください)

次に、「一般人」の意見として他者を責める部分であるが、最初は引用もとの記事も「個人的な意見として」のような記述が見受けられた。

だから、自分が叩かれたり、人が叩かれたりしてる時には、それは人格批判ではなく行為への批判なのだ、と考えるよりも、行為だけじゃなく人格まで責めてるんだ、と考えた方が予想としては正確さが増すんじゃないかと思うわけです。叩き手のことをよく知らないならば、なおのこと。

少なくとも僕はそう考えてるところがある。そして多くの他人もそう考えてるんじゃないかと思ってる。

Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex

ここまでは個人の意見であることが明言されていると解釈する。ただし、最後のほうで

それ自体はその人達が選んだ道だろうから是非は問わないけど、一般人(罪を憎んで人も憎んでしまう考え方がデフォ)の立場で考えたら、それに付き合わされるのはたまったもんじゃねえや、と思う。
Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex

と、個人の考えが、「一般人(一般的)」の代表としての批判に摩り替わっている

また、「ことわざやルール」の存在理由についても、そのことわざやルールが存在することは、それが守られていないから存在するのだという前提は同意できても、「守っていないことが一般的である」という前提は受け入れられない。これは、「廊下は走らないように」というルールが存在することが、「廊下を走る生徒」がいることを前提として作られたルールであることは予測できても、「廊下を走る生徒が一般的」と言えないのと同じことである。

このように、自分の意見がマジョリティであることを理由にして(または根拠にして)、マイノリティを叩こうとする言動は、見ていてよい気がしないというのが、個人的意見である。

(という、意見に対する今回の批判的エントリも「人格批判」として受取られるのであろうか……)

Links

- Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex はてなブックマーク数

思想・心理・議論・対話

「弱者」について考える時に陥る罠

2008 年 2 月 28 日

弱者について – HINAGIKU 『らめぇ』
を読んで思ったことをつらつらと。ちなみに、引用もとのエントリの文脈に添った形ではなく、連想したことを抜き出して書く。

「弱者」或いは、「少数派」を切り捨てずに、対話などを含む何らかの方法でお互いが歩み寄れたらよいなぁとは、常日頃考える。

このような逸脱者が出たとき、「普通の人」は「そういうやつが異常なだけだ」として切り捨てようとする。ぼくは違和感を覚える。異常なひとは救われなくてもいいのだろうか? 救い得ないのだろうか?
…… (略) ……
しかしながら、属人的な要因――精神異常、精神疾患などを抱えた弱者には、一様に冷淡である。
弱者について – HINAGIKU 『らめぇ』 はてなブックマーク数

私も「違和感」とは呼ばないかもしれないが、似たようなポイントで考えることが多い。精神異常や精神疾患などは勿論のこと、その場におけるマジョリティとは違った意見を持つマイノリティに対する、マジョリティ側の(対応というより)反応というのは、一様に冷淡(であるように)見えることが多い。勿論、全てのマイノリティに対して、個々に対応していくなどということは、あらゆる意味でのコスト的に不可能であることは承知しているが、それでも目あまると感じることもある。

特に、マジョリティ側から「認識されているマイノリティ」ではなく、ほとんどの人から「認識されないマイノリティ」における、「味方のいない状態で主張を繰り返すことの虚しさ」については、自分のことにしろ、他人のことにしろ、その不条理さと、どうしようもなさに、打ちのめされそうなほどである。

まぁ、その話は、また別の機会にするとして、引用元のエントリを読んで、ふと自戒の意味も含めて考えたことは、別のことである。というのも、「弱者」の問題は、主張したり耳を傾けるなどをして、双方にとって少しでもよい方向に解決すればよいなぁと考えるのは冒頭に述べたとおりだが、それと同時に、その問題を扱う時(自分にとって)陥りやすい罠もあるという話だ。

それは、相手、或いは「多数派」を普遍的な「強者」だと規定して批判することで、自分の正当性に対し安易な納得を得て満足してしまいがちではないだろうかということである。要するに、自己満足の極みである。(全ての行動が自己満足なんだというのは置いといて)

自分が「弱者側」の立場から物事を主張する時、その主張とは別のところでは、他者から自分を「強者」と規定されている可能性を忘れてはならない。自分にとって相手が「強者」であるのは、ある特定の価値観において、ある特定の場において、ある特定の社会において、ある特定の時系列においてであり、決して「普遍的強者」ではない。そして、同時に自分の立場も「普遍的弱者」ではないということを意識しておかなければならない。

これは、「弱者側」からの主張をするなということではない。「ある特定」を明確に意識し、その範囲内において思うことは存分に主張すべきで、「ある特定」を逸脱するところまで普遍化してはいけないということである。

(改めて述べておくが、引用もとのエントリが普遍化していると言っている訳ではなく、「弱者」の問題を考えるときの自戒の意味を含めて書き起こした文章である)

関連エントリ

- suVeneのあれ: 抑圧と弱者について考える はてなブックマーク数
- suVeneのあれ: 強者と定義する者への逆差別 はてなブックマーク数
- suVeneのあれ: りんごの実とムラ はてなブックマーク数
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参考エントリ

弱者について – HINAGIKU 『らめぇ』 はてなブックマーク数



思想・心理・議論・対話