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2006 年 12 月 28 日 のアーカイブ

事実を事実として受け止めるという事(id:b_say_soさんへ仮の返信)

2006 年 12 月 28 日



 落ち着いて考えて entry をあげている余裕が無いのだが、あまりに時間が経ってから言及するのもなんなので、とりあえず個人的に考えている事を b_say_so さんへの仮の返信としてみようと思う。構成を考えてないから、多分長文になる。前の b_say_so さんの entry を読み返した訳でもなく、直接的なコンプレックスへの対応の対案でもないのだが、全ては繋がっていると思うので、俺が個人的に考える 自意識・コンプレックス・差別・抑圧・不条理・個と集団などに対する基本的なスタンスを語る。

Say::So? – 昨日の補足とsuVeneさんへごめんなさい

 まず、前提として言って置かなければならないことがいくつかある。

 一つは、俺は自分が持つ根本的な弱い部分はほとんど表に出さないという事。表というのはウェブ上では当然のことながら、現実における社会的な場所どころか、普段身近に触れる人々も含まれる。誰にも言わない。そしてこれは、「言わない」のか「言えない」のか自分でもわからないのだが、外面的・内面的な理由や諦めなどと複雑に絡み合い「言えない」事を、自分の中で「言わない」に摩り替えてるともいえる。「言わない」事によるメリットがあるからともいえるのかもしれない。まぁ、その中身や理由についてはあまり関係の無い事なので、これ以上は置いておく。

 次に、俺は思想・身分という意味で人は常に平等でありたいと考えているし、個人的には平等だと思っている(物理的・心理的・金銭的な関係による強弱があることとは別)。近代になって作られた「平等」という概念に知らぬうちに囚われているだけかもしれないが、そう信じたいと思っている。これは、他人を見下さない見上げないという意味だけなく、自分が見下されたくない見上げられたくない、というのも入っている。

 「平等」と「自由」という概念を具体的レベルまで規定しようとすると、とても 1entry では足りないので、この記事上で使う意味を簡単に説明しておく。この記事で使う「平等」とは機会平等や結果平等などの話ではなく、「人の思想は誰にも束縛されないし、暴力・権力によってされるべきでもない」という基本的な話であり、「思想単位の上下はない」ということである。「自由」のほうは、簡単に言ってしまうと誤解を招きそうだけれども、あえて表現すると「何を考えるのも自由であり、法を犯さない限り(誹謗・中傷・デマなど)、何を表現するのも自由」であるという事。思想というのを価値観と置き換えてもらっても、大まかな筋は変わらない。

 これらの考えはあくまで俺の理想であり、思想であるということは理解している。現実において差別はあるし、身分により思想の上下を決める人もいるし、人の自由を束縛しようとする人もいることは認識しているし、俺自身が自分の信念を犯してしまっている可能性もある。

 長くなったが、ここまでが前提。で、コンプレックス・差別・抑圧・不条理・個と集団というような問題とどのように関係するのか。それは、俺は自分自身の思想と現実との乖離を認識していて、その理想と現実との乖離にある「事実を事実として受け止めること、認識すること」が重要だと考えるというスタンスだということだ。何故なら、ギャップを認識しなければ乖離を埋めることはできないからだ。もう一つの理由は、自分のコンプレックスや感情がどういう状態にあるのかできるだけ客観的に認識しておきたいからだ。

 もう少しわかりやすい例で例えてみよう。例えば「馴れ合い」といわれるコミュニケーションでは、「事実を事実として受け止める」ことよりも、その対人関係において円滑なコミュニケーションができればその方がいいし、そのようなコミュニケーションは仲のよいもの同士ではあって当然だろうと思う。しかし、現実のパブリックな世界、ウェブ上のブログなどの公開された場所においては、「事実よりも角の立たなさ」が、事実を覆い隠すことになる。他の人の言葉を引用すると

気を使って思っている事を言われない、「あぁ、いいって、いいって、皆までいうな、分かっているから」とか、「よくわからないけどいいや」などと言われる空虚感はネット外で十分です
奥様、鼻毛が出ておりますことよ – 書き忘れた。

本当に仲のいい人物がいたとして、かなり理解してくれている者同士ならまだしも、社会的な付き合いにおいて、わかってないのにわかってる振りをしたりして事実を隠してしまうことが俺は嫌なわけだ。他にも「かわいそうだから指摘してあげるな」とか、労働においてとても無駄だと考えられる行為をしているのに「昔から決まってる事だから言わないほうがいい」とかだ。

 「甘え」という言葉がキッカケになっていたので、その言葉についても言及するならば

基本的にはあまり言わないほうがよいとは思います。というのは「甘い」というのが単なる感想であったとしても、受け取る側からすると悪意に見えるから、という風に前に書いています。あくまでも受け取る側から見て悪意に見えるだけであって、発する側に悪意という意識があるかどうかについてはふれていません。むしろ悪意ではないと思っています。
Say::So? – suVeneさんへの返答

これは、俺にとっては無理な相談だ。「甘え」は「甘え」であり、「自分の為に相手がコストをかけてほしい」という意味において「甘え」だという単なる事実だ。

私は、発する側と受け取る側の感じ方がかなり違う言葉は、感情が前面に出やすくなるので基本的には用いるべきではないと思います。特に負の感情を伴いかねない言葉というのは極力避けたほうがよいかなぁ、と思っています。使うのであれば「どこがどう甘いのか」と言うとか、あるいは相手をわざと怒らせるために使うとかかなぁと。
Say::So? – suVeneさんへの返答

発する側と、受取る側の感じ方の違いというのは、「発してみないと」または「確認してみないと」わからない。価値観が共有できているという前提でなければ、何も発する事はできない。そして、俺の価値観は今まで出会ってきた多くの人と食い違っている。

 これは、「甘え」だけに限った事ではない。感情やコンプレックスを刺激する言葉は千差万別だ。極論すれば、愛していた女性を失った人にとって「彼女がいない」ということであり、体が弱くて体育の授業や遠足に行けない小学生に向かって「運動不足」ということであり、父親が不倫して出て行った子どもに向かって「片親」ということであり、信頼していた人に裏切られた人にとって「他人を信用しない」ということであり、馴れ合いが苦手な人に向かって「和に入らない」ということであり、一人で生きていくしかなく学校に通えない人に向かって「学歴が低い」ということであり、愛想笑いができない人に向かって「無愛想」ということだ。全ては「事実」である。

 そして仮に、俺がこの条件に全て当てはまって、他人に「悪意なく指摘」されたとしても、俺はその事実によって弱者に扱われたり、気を使われたりするくらいなら、事実を事実として認めるだろう。いや、怒るかもしれないし、反論するかもしれないのは認めよう。それでも、特別扱いされたりされるくらいならば、対等に(あくまで俺個人の意見として)指摘されるほうがいい。

 そして、指摘されるのが嫌ならば全て言わないだろう。何故なら、俺は俺であり、他人は他人であり、俺の痛みは他人の痛みではなく、同時に他人の痛みは俺の痛みではないからだ。

 自己否定的だからこそ、事実を事実として認めにくいのは理解できる。しかし、過去の事実は目を伏せても変わらない。コンプレックスを指摘してくれるなと周りにいっても、コンプレックスはなくならない。ただただ、その事実があるだけだ。まずはそれを自分自身が認めなければならない。感情を捨てろという話ではなく、それとは別に事実は事実として、である。

私が議論したいのはその「けど…」のあとのところです。「わかって欲しいというのは甘え」「いろいろ対策をとるのは逆効果の面もあるんじゃないか」「ましかもしれないけど」っていうのが現時点。で、その後「こうしたほうがいいんじゃないか」「その方法にはこういう改善すべき点があるのではないか」と続くのが議論です。
… 中略 …
それをいうなら代替案を出して欲しい。
… 中略 …
私が求めているのは、「『甘い』ならどうすればよいと思うかsuVeneさん(あるいは昨日の記事を読んだ人に)に考えて欲しい、できれば語って欲しい」
Say::So? – 昨日の補足とsuVeneさんへごめんなさい

これは俺の考えであり、無理強いするつもりは無い事を最初に断っておくが「甘い」なら「甘い」でよいのではないだろうか。社会において「甘い」のは色んな意味で生きづらいことが多い。だからと言って、「甘い」のはなくならないし、まずは事実として「甘え」を受け止め、治したいと思うのならば何らかの方法を探るしかないし、少々甘えてもいいかなと思うのならばそのままでいいんではないだろうか。勿論、「私は甘えてない」と思うのならば反論すればいいし、「甘え」と言われて傷付いたのならば言えばいい。

 言い訳になるが、俺は「自分の為に」主観による解釈や指摘はするが、「やめて欲しい」と言われた場合、やめる事を考える(都合によりやめない事もある)。ただし、これからも前もって「言わない」と言うのはありえない。b_say_so さんが「甘い」と言われるのが嫌だということは分かったが、俺は逆に客観的な指摘はして欲しいからだ。その発言に明らかな揶揄や、治せと強制する意志が無い限り。

上記までの話は、平等、対等であると思う人との他者とのスタンスである。一般論として、社会的弱者であると言う話ならばまた別だが、その問題は簡単には語れないのでここでは取り上げない。
以上、勢いで書いたので、支離滅裂かもしれないし、自分自身を保護している可能性も大いにある。これを受け入れる必要は当然ない。周りの気遣いや感情で誤魔化して、配慮してくれる人の元で社会生活が送れて満足ならば、それもいいだろう。

他人は変えれない。自分が変わるしかない。

俺にとっては、その為にはまず「事実を事実として受け止める」「受け止めたい」と言う事だ。



思想・心理・議論・対話

id:b_say_soさんとのやり取りにおける、主観的なまとめ

2006 年 12 月 26 日



完全なる主観により、俺の意見と解釈をまとめる。

  • id:b_say_soさん
    1. コンプレックスがある人に、周りは「甘い」と言うべきではなく謙虚になるべき
    2. 「甘え」と言うのは「悪意」にうつる
    3. 「甘え」と言われて「傷ついた」
  • id:suVene
    1. 「自分が想像する悪意」を相手に重ね合わせ、「私は傷ついた」という話が、「わかっていない人は謙虚になるべき」という話に転化するのはおかしい。
    2. 「甘え」という言葉に善悪の判断は無く、主観による判断、又は事実の指摘。(甘えが必要な場合もある。甘えが悪ならば人は生きていけない。ただし見ず知らずの人に自分の欲求を満たすために動いてもらおうと思うのは難しいと思うだけ。「甘え=悪い」と言うのは俺の判断ではない。)
    3. 「傷ついた」のは理解した。無理にコメントをつけたいわけではないのでスルーしてもかまわない。
  • id:b_say_soさん
    1. 返答なし
    2. 悪意が無くても、コンプレックスがある人には同じ事 ⇒ 継続中
    3. 「コメントしてもらってもかまわない」(本意かどうかはわからない。文面による)
  • 今回の件で記憶に残った周りのコメントと俺の意見の対比
    1. 何故ネットの愚痴に、いちいち噛み付くのか
      • 最初に entry をあげて名指しで言及されている俺のほう。それに応答しただけ。id:b_say_soさんとid:suVene の間に強弱は無い。「噛み付いて」いるのは、そのやり取りに絡んで id:b_say_soさんを愚痴を言う弱者扱いしている人(だと、個人的に解釈)。
    2. やり込めたいだけに見える
      • id:suVene「コメントしないことを考える」と言っている。何をやり込めるのかわからない。
    3. 悪意に見えるからしょうがない
      • しょうがないならしょうがない
    4. 「傷ついた」と言って意味があるのか、又は言わないほうがいい
      • 俺は気持ちの表明をすることに意味があると思う。なので、言いたいことは言えばいい。それに対して思うことがあれば俺もまた何か言う。

現在の点でまとめると

  • 「私が傷付くのでコメントつけないで欲しい」と言うのであれば「コメントはつけないようにする」と考えていること。
  • それとは別に、個別事象である「傷ついた」と言う話を、コンプレックスを引き合いにして「わからない人は知らないうちに抑圧している」という一般論に摩り替えている部分を批判。(というか、「わからない人の抑圧」問題は同意できるのだが、id:b_say_so さんは常に抑圧されている側であるというスタンスがおかしいと考える。「抑圧されている合戦」をしたい訳ではない。)

完全な俺の主観なので、おかしいと思う部分や異論がある場合、具体的に指摘してもらうほうが助かる。「なんとなくかわいそう」や「正論を振りかざしているだけ」というのは不毛なので。
当たり前の話だが、「俺が絶対に正しく相手が絶対間違っている」などとは考えていない。

suVeneのあれ: ウェブ上での会話について(id:b_say_soさんの言及に対して綴る)
Say::So? – 昨日の補足とsuVeneさんへごめんなさい



思想・心理・議論・対話

ウェブ上での会話について(id:b_say_soさんの言及に対して綴る)

2006 年 12 月 26 日



俺は、ウェブの上では現実ではありえないほどフェアな状態に近いと思っている。欧米圏や、実名化が制度化されている国とは違って、匿名に近い HN で活動する事の多い日本では、現実でのしがらみや抑圧からかなりの低コストで解放されるキッカケを与えられていると考えている。体力差や年齢差、男女差などの障壁が著しく薄くなる(という HN のメリットが好きだ)。

ただ、この均衡は感情が入ったり、現実との接点を持ってきたりする事により途端に崩れることがある。

Say::So? – わからないならわからないってことにもっと謙虚になったほうがいいと思うよ、たぶん。

このブログで俺のコメントが言及された訳だ。俺が書いたコメントは

2006年12月25日 suVene suVene 自意識 『どうにもできないのが自意識の厄介なところなわけで』『どうにもできないことを一番よくわかってるのも自分』これはとても同意。ただ、それを周りに『何も言わないでくれればいいのに』というのは甘え。
2006年12月25日 suVene suVene 自意識 どうだろうか。「対策」を練る事自体、殻を厚くしている行為に思えなくも無いが。本来なら相手にしない事が得策。ただ、それがわかっていてもできないのだから、「対策」する方がましなのかもしれない。

というように、文章から読み取ったことの中から、同意できた部分と「甘え」だと感じた部分を書き出しただけである。id:b_say_so さんに対する悪意の微塵もなく、意味も無く全否定しているわけでもない。ましてや、「甘えてんじゃねーよ」という事でもなく、もしかしたら俺自身にも当てはまるかもしれない単なる「甘え」という概念の指摘だ。

それに対する言及記事の内容は
「私はコンプレックスを背負っているので、あなたはコンプレックスが分からないからもう少し謙虚になったほうがいい」
という事である。

それはどういう理由からだろうか。もう少し相手の記事を俺なりに要約すると
・ 私は幼少の頃から、あるコンプレックスを背負っていて、他人の顔色に敏感である。
・ 他人はあまり気にしていないのに、意識してしまうのは「自意識過剰」であることは分かっているのに、どうしようもできない。
・ それが分からない人は、そうとは気付かずに他人を抑圧している。
・ そのような態度は、相手に悪意が無くても悪意として写る。
・ だからあなたは謙虚になるべき。
ということである。では、どうしたいのか。「私は弱者なので、いたわって欲しい」と言いたいのだろうか。それとも「あなたは自分で知らないうちに他人を抑圧している」と主張したいのだろうか。

まず、前者ならば(ウェブ上での会話の上で)卑怯であると考える。
「自分は弱いから」という演出をする事により、周りの「感情」に訴え味方をつける行為に他ならないからだ。コンプレックスを盾にとり相手を批判するやり方である。「強気をくじき、弱気を助ける」というような慣用句があるが、何故「強い」というだけで悪になり、「弱い」というだけで善になるのかわからないが、「傷ついた方が弱いから守らなければならない」と簡単に誘導される者を味方につける訳である(俺が特別強い訳でなく、相対的に)。
まるで兄弟げんかで、有無を言わさず長男が怒られるように。

俺は、id:b_say_so さんはこのような意図はないと判断している。ただ素直に俺の言葉により「傷ついた」という意思をせめてウェブ上ででも表明したかったと受取っている。ただ、それでもチラホラと「感情」に流されて判断する人が見受けられる。

ふーん 『↑こうやってネットの愚痴にいちいち噛みつくのって楽しいのかなぁ』

2006年12月25日 # keijis keijis communication, コメント欄 これが対話だとしたら、私には一生わかりたくない感性だと感じた。

この人達は、自分が優しいとでも思っているのだろうか。id:b_say_so さんを弱者の目で見て対等に対話するつもりが無いのはこの人達ではないのか?

そして後者の場合なら、少なからず認めざるを得ない部分はある。俺は大抵の場合、相手が傷つく可能性があると判断しても、事実だと思ったり、自分が考えた事は口にしたり文章にしたりする。何故なら発話することによる「相手が傷つく可能性」なんて消えるはずがないからだ。そして、それが原因で「コンプレックスを刺激され」たり「傷つく」人はいるだろう。

それはまるで、明日の遠足を楽しみにしている小学生に向かって「明日は降水確率90%だ」というように。

id:b_say_so さんの記事の内容が「私はコンプレックスの記事は書くけども、事実を指摘されると悪意と受取るので止めてください」というのならば、むこうのコメントに書いたように、別に悲しませたい訳ではないので考えなくも無い。しかし、それをさも一般論のように

というか甘えとかなんとかいわないほうがいいですよ。いや、ほんとに。そういうのがあるから強固な壁を作ってしまうんだし。わからない人は、わからないってことにもっと謙虚になるべきだと思う

という理由が分からない。自己申告で「コンプレックスを背負っている」といえば「甘え」という事実を指摘するのはやめるべきというのはどういうことだろうか。俺が「実は俺も幼少の頃から対人コンプレックスがありまして、言及しないで欲しい。ていうか、言及を止めるべき」といえばそれは通るのだろうか。
id:b_say_so さんは

わかってないひとはそうとは気づかずに他人を抑圧していてそれに気づかないうえに、そういう態度に疑問を呈すると居丈高にこちらが悪いと言い募る傾向がある

というが、自分がコンプレックスがあるからといって他人のコンプレックスも理解できていると考えているかのようであり、まるで「悪いと言い募る傾向」からは外れているかのような言い回しである。

要するに「私は傷ついた」という話が、「わかっていない人は謙虚になるべき」という話に転化しているということだ。

とまぁ、感情に訴えた非難の記事と受取ったのでさんざんな事を言っているが、俺は id:b_say_so さんのブログはおもしろいと思っている。だからこそ沢山ブクマしているんだろう。その人が俺の言葉で「傷ついた」と直接名指しで言うのだから、それは受け止めるしかない。周りから「傷ついた」と表明する事について色々言われたとしても、そういう主張はどんどんしていけばよいのではないだろうか。

それでも俺は、あなたを特別扱いするつもりは無い。
(いや、どうしても嫌で耐えられないというのならば繰り返しになるが、絶対俺はコメントをつけると言いたい訳ではないので、個人的にはコメントつけずにスルーするのはかまわない。しかし、そのときは ブログ ではなく mixi などでプライベートに公開などを考えないと同じ繰り返しになるだろうとも思う)

id:laddertothemoonさんの記事にもあるように、「傷つきました」「そうですか、でも変わりません」「どうぞお好きにコメントしてください」と、まるでコントのようであり、話が進展しているとは到底言えず、言いたい事を言い合っているだけなのお笑い種なのかもしれない。

まぁそれでもいいんじゃねーかなとも思う。

Say::So? – わからないならわからないってことにもっと謙虚になったほうがいいと思うよ、たぶん。
Ladder to the Moon – ブクマコメントで傷ついたときにどうするか
瀬戸風味@はてな – suVeneさんのコメントに突っ込む



思想・心理・議論・対話

クリスマスの特別バトン

2006 年 12 月 25 日



セックスより完全なもの – 恥を捨てろ、考えるなバトン
Ladder to the Moon – 恥を捨てろ、考えるなバトン

雪。白い雪。全てが同じように見える雪。舞い降りてただただ一面の銀世界と同化する雪。その一つ一つがかたちの違う結晶。君と織り成す日常や、君と交わす幾つもの言葉のように、似ているようで一つ一つ違う結晶。全てを記憶できなくても、今ある君とのこの世界は、銀世界よりも美しい。
儚げな光。闇という闇の中にある、とても儚げな光。君には太陽のように全てを育む力強さは無いけれど、僕の闇を照らすには十分な、とても十分過ぎる光だ。
いつもの散歩道でよく見かける花がある。僕は花には興味なんか無いのだけれど、君はその花が大好きだ。僕はどうでもいいのだけれど、君に花言葉を教わった。相変わらず散歩道で見かける花。今でも興味は無いのだけれど、君のおかげでほんの少しその花を見るようになったし、花の名前も覚えたよ。
束縛された君は、鳥が自由だといい、僕を自由だという。自由であるはずの僕は、鳥の孤独を想像し、自由でなければならない不自由さを想像する。自由である為には羽ばたき続けなければならない。群れからはぐれた鳥である僕は、飛び続けなければならない。だけど僕はそれを言わない。君の元で羽を休めたいが為に。
凍てついた風に吹かれても、逆風に吹かれても、横風に倒されそうになっても、君という追い風が僕を支えてくれる。
君がいない世界があるならば、僕にとっては全てが無に等しい。
君を照らしつづける光で居たかったのに、いつしか君が僕を照らす光だった事に気付いた。
澄んだ水である君。泥水である僕。君に触れるのはとても畏れ多くて、穢れてしまいそうなのに、躊躇無く交わってくる君。ほんの刹那でも、穢れた心を洗い流してくれる。
クールに、熱くならず、適度に、誤魔化して生きている僕の中の、恨みと、妬みと、憎しみに燃える炎。黒く燃える炎。見えない炎。その炎に僕自身が焼き尽かされてしまいそうな夜、君がそっと全てを抱きしめた。焼き爛れながら、痛みに耐えながら、全てを失いながら、そっと抱きしめてくれた。残ったものは、赤い肉と、黒い空気と、青い涙と、君と僕。だから僕は生きていこう。君と共に。
二人の時を刻もう。早すぎるまわりの時間は気にせずに、二人の時を刻もう。馬鹿にされても、笑われても、相手にされなくても、二人の時を刻もう。死が二人を分かつまで、二人の時を刻もう。



日記・散文・その他

今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします

2006 年 12 月 10 日



 とまぁ、少し早い挨拶だが、都合により今年はもう纏まった記事書くことは無いだろうから。(ブクマはするけども)

 RSSリーダーで読んでる人は、更新されてようがされてなかろうが関係なかろうが、もし直接アクセスしてくれる人がいたら、更新されて無いのに手間かけさせるのもなんだろうから、通知しとく。

 都合といっても、私生活が忙しいだけなんで、時間が取れるようになったらまたなんか書くだろうと思うので、そのときはよろしく。

 今年一年、コメントを頂いた方、トラックバックを頂いた方、その他記事を紹介してくれたり、何らかのかたちにおいて反応を頂いた方、ありがとうございました。

ハッピーメリークリスマスと、ハッピーニューイヤーってことで。

皆さんよい御年を。

んじゃまた。



日記・散文・その他