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うそかまことかオナニーか

2012 年 1 月 25 日

ゲーセンで出会った不思議な子の話:哲学ニュースnwk はてなブックマーク数

というのを読んだ。
半径1クリック(古い)でわりと話題になっていた。
言及記事もたくさんあるようだが、ほとんど読んでないし、読む気もないのだが、個人的にちょっとだけ感じたことを書き留めておく。(と偉そうに書くほどでもない)

とりあえず、この物語において個人的には真偽はどちらでもよかった。(結論が同じだから)
物語を要約すると、ゲーセンで出会った女の子と仲良くなったけど、病気で死んじゃった、って話だ。人は、こういう話を読むと悲しくなる。純粋な思いに心を動かされたりもする場合もある。そういう動物だから。

ただ、それが「いい話」かどうかは注意深く考えなければならない。この話が真実で、本当に死んでいたら不謹慎だから、ではない。「人が不条理に死ぬ」こと自体は避けがたい現実だからだ。この話が本当だろうが嘘だろうが、「人が不条理に死ぬ」ことに対して「いい話」だとは言いたくない。(夢見がちだとしても)

一方、誰かが誰かを純粋に思う気持ちは「いい話」に見える。しかし、これも注意深く考えなければならない。この話の中で本当に「誰かが誰かを純粋に思って」いたのかは、明らかにフィクションとしてそのように演出されているわけではないので判断が難しいからだ。つまりこの話を読んで、「誰かが誰かを純粋に思う」ことを「いい話」だと想起するのはよいとしても、この話がそうであるかどうかは分からない。単なるかわいそうな自分をアピールしたいだけのオナニーが目的かもしれない。もしくは苦しみを誰かに吐露して楽になりたかっただけかもしれない。

純粋なきもちを思い出させてくれた、などを理由に「いい話」である、としたい人もいるかも知れないが、その引き合いに出されているのは、とある少女の死であることは、忘れてはいけない。

人間の死は、スイカやぜんざいに付け足される塩ではないのだ。



思想・心理・議論・対話

[書評]20代から折れない自分をつくる 100の言葉

2012 年 1 月 8 日


20代から折れない自分をつくる100の言葉

川北義則 朝日新聞出版 2011-12-20
売り上げランキング : 14261
by ヨメレバ

率直に言って、買う価値がなかった。名言というのは、それなりの背景やフィットする現実があってこその名言だというのが、改めて認識できる。つまり、名言だけを寄せ集めた所で、琴線に触れることはない。

特にこの本を面白くなくしているのは、おっさんの戯言である。とりあえず思い込みが激しく、新しいものを非難し、古きものはよいことだ、という主張があり、その割に自分は「今の若いものは」「今の社会は」のオンパレードのように感じる。

あと、妙に上から目線だ。たぶん、ご本人は高齢なので、それなりの経験があるのだろうが、読んでいる側からすればそんなことは知ったこっちゃない。

という訳で、最初に書いたように、この本を買うくらいなら、他の本を買いたかった!

このままじゃ後腐れ悪いので、少し気に入った名言を引用して終わろう。

  • 神が人間に一つの舌と二つの耳を授けしは、しゃべるより、人から二倍余計に聞くためなり(エピクテトス) – P42
  • 財貨を失ったのは、いくらかを失ったことだ。名誉を失ったのは、多くを失ったことだ。勇気を失ったのは、すべてを失ったことだ。(ゲーテ) – P46
  • 成功者のすべては、小さな思いつきを馬鹿にしなかった人たちである。(藤原銀次郎) – P68
  • 毎日の中でいちばん無駄に過ごされた日は、笑わなかった日である。(シャンフォール) – P120
  • 君がもし、考えることをせぬ人間であるとすれば、いったい、君は何のための人間であるのか (コールリッジ) – P168
    20代から折れない自分をつくる100の言葉

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20代から折れない自分をつくる100の言葉

川北義則 朝日新聞出版 2011-12-20
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思想・心理・議論・対話

「人それぞれ」とはコミュケーションの断絶である – 加筆修正

2009 年 9 月 21 日


前置き

これは特定個人の心理を断定したり、なぞったりするエントリではありません。「うそとネチネチと KY と 」で引用したエントリに対する、状況・関係を推測している部分もありますが、あくまで個人的な推測であり、断定しているわけでもありません。
そういう前提の元に、普段から感じることを文章に纏めた内容になっているので、それを踏まえてお読みください。

本文

何をいまさらなテーマだが、たまたま私生活において、「うそ」や「議論」に関する本(「だまされない〈議論力〉」など)を読み返していたのと、先日書いた記事(「うそとネチネチと KY と 」)と、その他普段目にするものが重なって、やはり「議論する・対話する」というのは、とてもコストがかかるものであり、また、いたるところで避けられているのだなぁ、と改めて考えたと。

ここでいう議論・対話とは、少なくとも「お互いに主観による主張と、その根拠を自分以外の相手に述べること」くらいは前提として使っているが、その前提をクリアする為の条件には、

  • お互いに「向き合う」姿勢があること
  • 相手の意見を聞いて、自分の主観に影響を受けることや、考えを変更することがあることを認めること
  • 一つのテーマについて、お互い共通認識がとれたと“思える”まで繰り返し付き合うこと

といったものが必要になってくる。

その意味で、「うそとネチネチと KY と 」で引用させていただいた男女については、はなから「向き合う」という前提が共有されていないにも関わらず、男性は「相手が真摯に答えて当然」という誤解をしたようにも思う。要するに、あの文章だけ読めば、男性は、女性に「相手にされてなかっただけ」であり、対話するだけの関係を気づくことができなかっただけなのではなかろうか。

「だまされない〈議論力〉」の内容については、今回は深くは踏み込まないが、概要だけいうと、議論に対する考え方・前提などの解釈の仕方・注意点などについて書かれている。その中で一点、今回のエントリに関連する内容に関連する部分を挙げるならば、前置きや相対主義などの説明の部分で、『「人それぞれ」はなにも問題を解決しない』と述べており、さらに『「人それぞれ」は他を尊重するようでいて、実はコミュニケーション拒否』とあるところだ。これは全くその通りだと思う。

「拒否」とあるので、拒否するのは悪いこと、のような意味に読み取れるかもしれないし、実際この本の中では「議論」という意味においてそのように解釈できるが、少なくとも個人的にはそのような意味では考えていない。コミュニケーションを「拒否」するのは、それなりの理由があるからなんだろうなぁ、と考える方が多いと思う。(当然、拒否されて憤慨するシチュエーションもあるだろうけど)

その理由とは、

  • 理由を説明するほど考えがまとまっていない。
  • コストをかけてまで(又はコストがなくとも)、主観を相手に伝えることに意味や価値を感じない。
  • 根拠を説明するだけの語録がない。
  • 議論に慣れていないので、価値観の違いから「対立」することを避けたい。
  • 相手の考えを、聞きたいと思わない。
  • 感じたものを「自分だけのもの」にしておきたい。

などだろうか。
どんな理由にせよ、やはり「人それぞれだから」といって、その話はそれでおしまいにするということは、相手がその会話を望むという要望に対する「拒否」であることには変わらない。

「私はこう思う。あなたがなんと言おうと、なんと解釈しようと、こう思う」

というのは、ひとつの信念であり、誰もそれを否定する事はできないのと同時に、信念であることから、他者の解釈・信念を排他するということである。また、逆に信念でなく、「どうでもよいこと」などについても、いちいちコストをかけることもないだろう。ただ、問題は、その「どうでもよいこと」が共通認識だという思い込みが、いたるところに見受けられると感じることである。

関連リンク

- うそとネチネチと KY と – suVeneのアレ はてなブックマーク数
- だまされない〈議論力〉



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例えば、ひっそりと、死を願うささやきに出会ったとしたら

2009 年 9 月 13 日


例えば。「死にたい」とひっそりとつぶやく、ちかくてとおい友人に、いったいなんと声をかけるべきだろう。「死ぬのがいいよ」か。それとも「死ぬな」か。
Twitter / suVene: 例えば。「死にたい」とひっそりとつぶやく、ちかくてと … はてなブックマーク数

ふとこのようなことを考えていた。

「誰に対して」という部分に非常に左右されるとは思うが、尤も多そうな回答としては、「死ぬな」だと思う。この「死ぬな」は、当然相手のことを考えてということもあるだろうが、<私があなたに死んで欲しくないから>という利己的な理由も多聞に含まれているだろう。

すると今度は、相手がその回等のエゴの部分を受け入れるだけの余裕があるか、又は、かまって欲しい・必要とされたい・承認して欲しいなどの一環としてひっそりと(目に付く場所で)ささやいているかどうか、などが問題となってくる。逆に言えば、そのような応答を最初から求めている、ある意味 “お約束” 的なささやきであるならば、「死ぬな」という答えは適切かもしれない。それがクセになると厄介だが。

しかしそうではなく、それが思いつめた結果のささやきであるならば、さらに難しい。声をかける側が、「生きる」ということを、大前提として考えているならば、先ほどと同じ答えにはなるかもしれないが、そうでないならば「死ぬのがいい」という回答もありえるのではないか。これは「見捨てる」意味での「死ぬがいい」ではなく、その本人の意思を最大限尊重した上での「死ぬのがいい」だ。但しこれは、ささやいた本人の理性や精神状態が適切に判断可能な状態であるかどうかが重要となってくる(死を願う時点で「適切でない」とする考えもあるが)。また、回答の結果だけ見れば「見捨てられる」時の応答と似た部分もあるため注意が必要だろう。

このように、「生死」に関する問題は、ある意味究極的な問題ともいえるので、かるく考えただけでも、色んなパターンが考えられる。個人的には、「気楽に行こう」「大丈夫」という言葉は、あまり安易にかけそうにないが、ささやいた本人にしてみれば、そのように軽くしてくれる言葉の方が助かるということも大いにあるのだろう。

やはり、もしそのような場面に出会ったら、相当悩まざるを得ない。皆さんなら、自分がそのような状況に出会ったとき。又は、ささやく側になった時、どんな言葉をかけ、どんな言葉をかけたもらいたいのだろうか。

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「多数に非難を受ければ一方的に非難を受けた側が悪い」は真か

2009 年 6 月 20 日

一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそはてなブックマーク数 を読んで。

一番引っかかったのが以下の部分。

「一方的な非難を受けた」のであれば、それはおおよそ「一方的にそのエントリが誤っている」のだと思う。

一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ はてなブックマーク数

この考え方はとても怖いものだと感じる。

最初に読んでくれる方に断っておくが、引用元エントリーがどのようなパターンを想定して、引用した部分を述べたかは定かではないので、引用元エントリーへの直接的な批判ではない。あくまで、引用部分を一般化して考えることの危険性を感じる、という話である。(現にそういう人はよくいるので)

まず、「正しさ」「誤り」「客観的」の定義自体をどのように置くかにもよるが、「大多数であること」が「正当性」を担保する、というのは客観的事実として真偽を判断する為の十分条件ではない。

有名な話で言えばガリレオの天動説などもそうだが、戦時中に戦争反対して非国民扱いされた人や、在日や部落との結婚を周囲の「大多数」から批判されたが結婚した人や、ある宗教が8割以上を占める国の中で、異教徒扱いされた人などなど。それぞれ、客観的に正しいとされてる意見が否定されたり、歴史的に振り返って正しかったとされた人が否定されたり、法的に正しいことをしている人が否定されたり、思想・信仰の自由的に非難されたりという状況である。

最初以外の例は、もはや客観的正否などない訳だが、とりあえず「多数派」だから「正しい」という思い込みは、「少数派」を押し殺しかねない危険な思想だと考える。特にイデオロギーの衝突などの場合にこの論理を振りかざすと、泥沼の抗争になることは免れない。

引用元エントリーに対する直接的な批判ではないといいつつ、またもや引用元のブログから抜粋させていただくが、結論を導き出す為のプロセスを見てみよう。

正しい主張をしたのに「これはひどい」と言われるのはどのような原因が考えられるんだろう?

  1. 読んだ人がみな馬鹿で主張を理解できず「これはひどい」と言った
    • (著者略)
  2. 読んだ人がみな結託してネガティブコメントを書いている
    1. 読んだ人がみな叩きたいがために群がってきたネットイナゴである
    2. 読んだ人のうち、イナゴではない人もいるかもしれないが、ブックマークを付けた人はネットイナゴばかりだった
  3. 読んだ人のうち最初の数名がネガティブコメントを書いたため、叩く空気ができ、同調圧力で皆が叩いている
    1. (著者略)

どれもかなりトンデモな主張じゃなかろうか。

一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ はてなブックマーク数

と、結論が「トンデモ」なので仮定が間違っていると導き出している訳だが、個人的な観点でみると「トンデモな主張じゃないか」という推定に少し飛躍を感じる。

「(著者略)」とある部分は、私の目から見ても無理筋な気がしたので同意できるのだが、2-1. 2-2. に関して、そのような状況は「炎上」と呼ばれる場所でよく見かけると感じるが、読者の方はどうだろうか。

理由としては、まず「祭り」や「炎上」というのは、叩きたいが為、或いはその場の状況を楽しみたい為に、人が人を呼んで特定のブログなどに対して集まってくるという状況が「祭り」を加速させる。その意味で、2-1. は、全体のページビューに対して、かなりの割合で叩きたいが為に集まってきた人物であるともいえる。

「面白半分で見に来ただけの人もいるのではないか?」という考え方もあるが、そうだとしても、わざわざ「叩きたいが為に集まってきてコメントしている人々」がいるなかで、明らかに少数派意見であり、そのような人たちと関わりあうことを前提にして、あまりよく知らない炎上元著者の為に擁護や反論のコメントを書く人がどれほどいるだろうか。その意味で、2-2. もやはり、「トンデモ」だとは考えにくい。

話がだいぶずれてきたが、引用元のエントリはあくまで「はてなブックマーク」に限った話をしているのかもしれないし、そのへんはよくわからない。しかし、このような論理をもって、冒頭でも述べたように、『引用部分を一般化して考えることの危険性を感じる』というのが、個人的に書き記しておきたい事柄である。

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