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Re: 「Latest topics > 事実のみを指摘する、事実のみを話題にするとはどういう事かを、自分に考えつく範囲で考えてみた – outsider reflex」 ~ モヒカン的対応とは

2009 年 4 月 28 日



Latest topics > 事実のみを指摘する、事実のみを話題にするとはどういう事かを、自分に考えつく範囲で考えてみた – outsider reflex はてなブックマーク数
への返信と感想。

発端は、 前回の記事 はてなブックマーク数を書いたときに、思わぬ TB が飛んだみたいで、引用もとの管理者 Piro氏から、以下のような質問があった。

2009 年 4 月 25 日 13:17 #1
トラックバック元も先も重複しているトラックバックがありましたが、もしかして、こちらのエントリから当方の別エントリに対してのトラックバックを意図して行われたものだったのでしょうか?

「何故」と問うことが無意味になる場合 – suVeneのアレ はてなブックマーク数

これに対して、全くこちら側が意図せぬ TB だったので、以下のように返信した。

2009 年 4 月 26 日 15:16 #2

@Piro
あれ、TB 飛ばしたつもりはないです。誤爆です、申し訳ない。削除いただけますか。

「何故」と問うことが無意味になる場合 – suVeneのアレ はてなブックマーク数

すると、数日後に誤爆した先の URL と削除した旨の返事があったので、お手数をお掛けしましたと述べて、以後気をつけようと思っていたところで、冒頭のエントリーを目にした。

4月27日23時17分現在、このエントリからはこのサイトへのリンクは行われておらず、また、名指しされている箇所もないため、このエントリが自分のエントリを参照して書かれたものであるという確証はどこにもない。しかし僕は、その前後にちょうど僕が別のエントリで醜態を晒していた事と、新しく書かれたエントリの内容を勝手に結び付けて、前述の重複したトラックバックはこの新しいエントリから僕がコメント欄で醜態を晒しているエントリへのトラックバックを意図して送られた物だったのではないか、と、証拠もなく妄想した

Latest topics > 事実のみを指摘する、事実のみを話題にするとはどういう事かを、自分に考えつく範囲で考えてみた – outsider reflex はてなブックマーク数

ええええええ!

相当びっくりした。「勝手に」や「証拠もなく妄想」という、本人による強調がなされてるものの、26日の15時の時点で、「誤爆」であることと、「謝罪」をしていて、尚且つ 4 月 26 日 23:39 の時点で返信も頂いているのに、そこに書いてあることは全く無視して、以下のような妄想をなされたようである。

相手が僕か、あるいは、僕のエントリをウォッチしていた人達に何かを伝えたいと思っているにも関わらず、単純なミスでそれが伝わらなかったのならもったいないと勝手に気を利かせて

Latest topics > 事実のみを指摘する、事実のみを話題にするとはどういう事かを、自分に考えつく範囲で考えてみた – outsider reflex はてなブックマーク数

いやいや、「誤爆」であると明言しているわけだが。とはいっても、ここに書いてある対応をとられた時点では、こちらの意図などわからないのだから、ありえなくもないのだが。そして、次のように続く。

でもその行動の根拠になっているのは、あくまで、僕の勝手な妄想であり、推測による思い込みであり、客観的な根拠は全く無い。偏見だけれども、こういう行為をこそモヒカンの人は慎むのではないだろうかと僕は思っている。そして、これまた偏見だけれども、4あるいは4-1の選択を取るのが正しいモヒカンという物なのではないかとも思っている。モヒカンの人の言う所の、表出した物だけから確実に機械的に客観的に読み取れる情報だけから考えるとは、そういう事なのではないかと思っている。

Latest topics > 事実のみを指摘する、事実のみを話題にするとはどういう事かを、自分に考えつく範囲で考えてみた – outsider reflex はてなブックマーク数

で、引用元にある 4. 又は 4-1. の対応とは何かというと、

4.同じトラックバック元・トラックバック先のトラックバックが重複して送られたという事実だけに注目して、それが一体何のための物だったのかを先方に淡々と問う。「トラックバックが重複していましたが、これは一体どういう意図での事でしょうか? 同じエントリに同じエントリから期間を置いて2度トラックバックする事で、あなたは何を伝えようとしていたのでしょうか?」

4-1.ついでに自分の感想も付け加える。「技術的には全く無意味なので僕にはアホな行為としか思えません。が、そこに特別な意図を込めたいと思う人もいるでしょうから、まぁ、こだわりません。」

事実のみを指摘する、事実のみを話題にするとはどういう事かを、自分に考えつく範囲で考えてみた – outsider reflex はてなブックマーク数

モヒカンがどうあるべきかという定義にまで踏み込まないとしても、「事実」と「意図」を混同している気がする。まず、事実として、

「2度TBを送ってしまった」

というのは、否定しえない事実であり、また私自身も認めている。故に、その事実を持って

同じエントリに同じエントリから期間を置いて2度トラックバックする事で、あなたは何を伝えようとしていたのでしょうか?

と問うのは、全くもって理解できる。事実のみを指摘し、事実のみを話題にするという主旨にも賛同できる。しかしながら、次に続く

技術的には全く無意味なので僕にはアホな行為としか思えません。が、そこに特別な意図を込めたいと思う人もいるでしょうから

というのは、相手が「特別な意図」を持っているという前提に立つ感想は、これも勝手な憶測であり、

一体何のための物だったのかを先方に淡々と問う

姿勢とは、程遠いと個人的には考える。従って、

モヒカンの人の言う所の、表出した物だけから確実に機械的に客観的に読み取れる情報だけから考えるとは、そういう事なのではないか

という態度とは、全然違うと思うのだが、どうだろうか。それとも、引用した部分は実際には、

(あなたがもし特別な意図をもって TB を2度送ったのだとすれば、)技術的には全く無意味なので僕にはアホな行為としか思えません。が、そこに特別な意図を込めたいと思う人もいるでしょうから(あなたにそのような意図があったかどうかわかりませんが)、まぁ、こだわりません。」

と、カッコ内の補完を持って読み解くことはできなくもないが、そうだとすると「こだわらない」わりに、相手の意図が不明確にもかかわらず、わざわざ自分の感想を伝えようとする意味がよくわからなくなる。

いずれにせよ、「事実のみを指摘する、事実のみを話題にするとはどういう事か」というタイトルにしては、事実と意図とを明確に切り分けてるようには見えないエントリーであったとともに、伝えたこと・書いてあることを大いにスルーした上で、尚且つ書いてない意図を大いに裏読みされたのが久々で、とても驚いたという話。

思想・心理・議論・対話

「何故」と問うことが無意味になる場合

2009 年 4 月 24 日



私は基本的に相手との会話の中でわからないことや、疑問があることについて、「何故?」と相手に問うほうだが、それが無意味になる可能性が高い状況もあるということは認識している。例えばそれは、本能的な反応、感情的な反応などであり、少なくとも問う相手が理性的とはいえず、冷静さをかくように見受けられる場合などだ。

具体的にいえば、「不安」「恐れ」「怒り」「悲しみ」等々、根源的な感情の揺るぎから発生した行動や言動などである。とはいっても、極度の不安・恐れ・焦燥感、意味のない苛立ち・怒り、日々の生活における得たいの知れない悲しみ、などに打ちのめされている人がいるならば、しかるべき対応のできる機関で診断を受けるべきであり、専門家による「現状を認識する為の「何故」」まで無意味だといっている訳ではない。

では、そのような状況に遭遇し、個人的な観点からみて不条理な対応を受けたり、又は非合理的な行動を相手がしている場合にとるべきこちらの言動はなんだろうか。

それは、激しく怒っている相手には、「怒っても意味がないよ」「落ち着いて話そう」と、指摘するようにではなく、なだめるように優しく声をかけ、恐れている相手にはあなたの味方であること、敵意がないこと、争うつもりがないことをゆっくりと理解してもらい、不安がる相手には、そばにいるから大丈夫だと言い聞かせ、悲しむ相手とは、ともに悲しみを分かち合うつもりがある、悲しみが癒えるまで焦らない、というようなことである。

つまり、「相手の行動の原因・根拠」を問いただすのではなく、まずは「相手の行動の結果」として、こちらがどのように対応するのかを示すことが有効なのではないかと思う。

しかし、私にとって「感情的な反応」と判断する材料というのは、実際に相手を観察して、発汗具合・血色・目の見開き方・声の大きさ・トーン・スピードなどを総合的に肌で感じて判断するものであり、尚且つ自分が大切にしたいと思う相手にのみ大らかな対応ができるのであって、ネットで見かけた文章などに対しては、どれだけ「感情的に見える」文章であっても、ただひたすら淡々と「何故?」と問うてゆくのである。

関連URL

- 文章から人格を読む人・読まない人 – suVeneのアレ はてなブックマーク数

思想・心理・議論・対話 ,

個人的な意見を「一般人」として他者を責める行為について

2009 年 2 月 22 日



タイトルにあるような言動をたまに見かけるが、個人的にはあまり好きではない。というか、きらいである。

きらいな理由はいくつかあって、まず

  • その個人的な意見が「一般的」(マジョリティ的)であるという根拠が薄弱なことが多い。
  • 「一般人」(マジョリティ的)の意見であることが真だとしても、それを理由にそうじゃない人を「一般人として」責める理由にはならない。

というのが思い浮かぶ。
今回見かけたのは、

Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex はてなブックマーク数

という記事だが、概要は

「ことわざやルールがあるのは“それが足りてない、それが実現できてない”から、存在すると思う。で、「罪を憎んで人を憎まず」というのもそれに当てはまる。だから、意見が叩かれたりするときは行為だけ責めてると考えるのではなく、人格まで責めてると考えた方が正確さを増すと思う」

という感じだ。

まず、前提条件としての、「ルールの存在理由」についてはある程度同意できる部分がある。全ての人が画一的なルールに則って行動していれば、それを規制するようなルールを規定するという概念すら抱かないのがほとんどであろう。「罪を憎んで人を憎まず」の例にしても、確かに犯罪者を憎む人は多い気がする。だからといって、今回話題になっている話を「だから」で結合し「人格まで責めている」とするのは、論理が飛躍しすぎである。
(ちなみに、「今回話題になっている話」とは、簡単にいうと「ケアレスミスをしたという事実」を公開した意見について、「バカな行為をしたもんだ」みたいなこと。詳しくは各自で調べてください)

次に、「一般人」の意見として他者を責める部分であるが、最初は引用もとの記事も「個人的な意見として」のような記述が見受けられた。

だから、自分が叩かれたり、人が叩かれたりしてる時には、それは人格批判ではなく行為への批判なのだ、と考えるよりも、行為だけじゃなく人格まで責めてるんだ、と考えた方が予想としては正確さが増すんじゃないかと思うわけです。叩き手のことをよく知らないならば、なおのこと。

少なくとも僕はそう考えてるところがある。そして多くの他人もそう考えてるんじゃないかと思ってる。

Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex

ここまでは個人の意見であることが明言されていると解釈する。ただし、最後のほうで

それ自体はその人達が選んだ道だろうから是非は問わないけど、一般人(罪を憎んで人も憎んでしまう考え方がデフォ)の立場で考えたら、それに付き合わされるのはたまったもんじゃねえや、と思う。
Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex

と、個人の考えが、「一般人(一般的)」の代表としての批判に摩り替わっている

また、「ことわざやルール」の存在理由についても、そのことわざやルールが存在することは、それが守られていないから存在するのだという前提は同意できても、「守っていないことが一般的である」という前提は受け入れられない。これは、「廊下は走らないように」というルールが存在することが、「廊下を走る生徒」がいることを前提として作られたルールであることは予測できても、「廊下を走る生徒が一般的」と言えないのと同じことである。

このように、自分の意見がマジョリティであることを理由にして(または根拠にして)、マイノリティを叩こうとする言動は、見ていてよい気がしないというのが、個人的意見である。

(という、意見に対する今回の批判的エントリも「人格批判」として受取られるのであろうか……)

Links

- Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex はてなブックマーク数

思想・心理・議論・対話

「私はそうは思いません」は「否定」か否か

2009 年 1 月 20 日



「私はそうは思いません」

という一文を、文脈を無視して切り出した時、あなたはこれを「否定」と捉えるだろうか。

勿論、文法的には Don’t であり否定であることはわかりきった問題なのだが、個人的にはこの一文のみを切り出した場合、「否定」の意味よりも、何か「異論」があるのだと解釈する。異論といってしまうと堅苦しいが、「私は別の意見だなぁ」くらいの感じだろうか。しかしながら、

「そうは思わない」=「同意できない」=「否定」=「対立」

という概念を直結して解釈する人というのは意外に多い。会話の内容が同一価値判断上における排中律な関係にある場合は、もっともな考え方だが、日常的会話においても同意を得られないだけで、何だか不快に思う、少なくともいい気分ではないといった解釈をするということだ。こないだのエントリ のコメントにおいても、そのように(やや無理やり?)解釈できるモノがあった。

CoffeeSugarCoffeeSugar 何のためにそれをするのか考えて、対立を避けた方が双方にメリットがあるのであれば何も対立を選ばなくても良い気がする。「率直であること」は別に至上命題ではないと思う。2009/01/16
はてなブックマーク – 対立を避けることが至上命題の人々 – suVeneのアレ はてなブックマーク数

「率直であること」が至上命題でないことには、個人的には同意する。注目すべき点は「対立を避ける」と「率直である」を対比させた形でコメントされているところだろう。(こないだのエントリ で引用したエントリや内容については、「相手の意見に No をいう」という意味合いが強い部分もあるので、今回の話に当てはまらない箇所もあるが)

id:CoffeeSugar さんの意見がおかしいというわけではなく、この考え方が日常的・一般的会話にもよくみられるのではないか、ということだ。

何故同意が得られないと嫌な気分になるのか

「否定」或いは「同意しない」ことの表明における嫌悪感や不快感などのエントリは、今までに何度か書いてきているので、今回は「何故嫌な気分」になるのか、を書こう。

と、思ったのだが、それも過去のエントリを読み返してみると同じようなこと書いているので補足というか追記してみよう。

単純に言えば、「相手に自分の意見が尊重されていない」と感じるのではないかということだ。つまり、自分の意見を否定するという言動の中に、人の意見をさえぎり「俺(私)の場合は」と、我が我が精神をむき出しにして、他人の意見には一つも耳を貸さない人物像をイメージするのではないかということだ。(当たり前だが全員そう思ってるはずなどとは考えてない)

そのように、常に自分本位の人間に対して不快感を抱くという理由ならば理解できるので、「そうは思わない」という意見に対して不快感を持つ人の気持ちもロジック的に理解できる。

どのように伝えればよいか

では、そのようなイメージを持つ人々に対して、「私はそうは思わない」を伝えたい場合、どのようにすればよいか。まぁ、無理して伝えなくてもよいのだけれど、なんやらかんやらでそのような状況がきた場合、どのようにするのか、だ。それは、、、

どうすればいい?

関連エントリ



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「教える立場」と「教わる立場」における勘違い

2009 年 1 月 16 日



先生と生徒、先輩と後輩、親と子、などなど。人間関係には「教える立場」と「教わる立場」という状態がしばしば発生する。

その関係には「与えるもの」と「与えられるもの」という前提があるので、前者に力関係が寄りがちになる。故に、「教わる側」の人間がそれ相応の報酬を支払わなければ、「教える側」の人間は、より一層威圧的な態度をとることがある。これが、対等な友人関係等の「教える側」「教わる側」という一時的な関係ならば、持ちつ持たれつの場合が多いので、さほど威圧的な態度を取るものは少ないだろうが、もう少し疎な関係になると(ネット上における交流なども一部含む)、そのような例を顕著に見られることが多い。

「教えてあげる」から「教えてあげてる」への転化

例を挙げると、最初に「困っている」という人がいて「(解決方法などを)教えてあげる」と名乗りをあげたものがいるとする。前者を Q、後者を A とするならば、A は自分の知識を与える見返りとして、何らかを要求するだろう。これは、最初は対等な立場故に、交換によってその状態を保とうとするある意味わかりやすい思考だと思う。

そしてその見返りとは、相手からの「尊敬」や「名声」或いは「金品」といった直接的な見返りの場合もあれば、「自己満足」や「相手と知識が共有することで自分にも利益がある」場合などの間接的な見返りなどがあるだろう。

間接的な見返りの(割合が高い)場合は、相手の態度に関係なく、自分自身でが納得して終了することが多い。しかし、A が直接的な見返りを求めて「教える側」にたった時、Q が A の望むような見返りをしなければ、その時点で A からの視点で Q との関係は対等ではなくなり、Q に対して「与えているのに、受取っていない」というある意味勘違い的な不公平感がつのってくる。そしてその感覚は、「教えてあげる」から「教えてあげてる」に転化し、最終的には押し付けがましく威圧的になるのである。

見返りのギャップ

上の例で、Q が初めに「教えて欲しい」と頼み A に教えを請い、その結果としての態度が「教えてもらって当然」のようなものならば、Q の態度もある程度仕方がないと見るものも少なくないだろう。しかし、Q は「「困っている」事実は伝えたが、「教えてくれ」とは頼んでいない」という認識にある場合、A の態度は「押し付けがましいただの教えたがり」に見えるだろう。そして、A が Q に教えたことで自己満足して終了ならまだしも、直接的な見返りを要求してくるならば、Q にとって A は押し売り以外の何者でもない。(寒いなぁといってたらコートを着せられ金品を要求されるようなものだ)

常識を盾にとる

この押し売りのタチが悪いところは、「教わった側が迷惑を感じている」という事実が一般的に伝わりにくいところだろうか。

  • 教えてもらってるのになんだその態度は。
  • 教えてくれる人がいるだけ幸せ。
  • 君のためを思って指摘しているのに。

などといった、「迷惑を感じている」こととはかけ離れた主張を持って周囲を取り入れやすく、また、そのように悪気もなく考えるものも多い(あくまで個人的な感覚としてというのはいうまでもないが)。

同じような状況として

  • チェックする側とチェックされる側
  • 監視する側と監視される側

などもある。

これらの状況は元からの力関係に起因する役割分担の場合も多いが、平等な立場からの役割分担でも同じように「役割分担からの勘違い」がうまれやすい。有名な話では、「囚人と看守の実験」のような部類の話である。

気をつけて何とかなるような話かどうかはわからないが、気には止めておきたい事柄だ。

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