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‘心理’ タグのついている投稿

例えば、ひっそりと、死を願うささやきに出会ったとしたら

2009 年 9 月 13 日


例えば。「死にたい」とひっそりとつぶやく、ちかくてとおい友人に、いったいなんと声をかけるべきだろう。「死ぬのがいいよ」か。それとも「死ぬな」か。
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ふとこのようなことを考えていた。

「誰に対して」という部分に非常に左右されるとは思うが、尤も多そうな回答としては、「死ぬな」だと思う。この「死ぬな」は、当然相手のことを考えてということもあるだろうが、<私があなたに死んで欲しくないから>という利己的な理由も多聞に含まれているだろう。

すると今度は、相手がその回等のエゴの部分を受け入れるだけの余裕があるか、又は、かまって欲しい・必要とされたい・承認して欲しいなどの一環としてひっそりと(目に付く場所で)ささやいているかどうか、などが問題となってくる。逆に言えば、そのような応答を最初から求めている、ある意味 “お約束” 的なささやきであるならば、「死ぬな」という答えは適切かもしれない。それがクセになると厄介だが。

しかしそうではなく、それが思いつめた結果のささやきであるならば、さらに難しい。声をかける側が、「生きる」ということを、大前提として考えているならば、先ほどと同じ答えにはなるかもしれないが、そうでないならば「死ぬのがいい」という回答もありえるのではないか。これは「見捨てる」意味での「死ぬがいい」ではなく、その本人の意思を最大限尊重した上での「死ぬのがいい」だ。但しこれは、ささやいた本人の理性や精神状態が適切に判断可能な状態であるかどうかが重要となってくる(死を願う時点で「適切でない」とする考えもあるが)。また、回答の結果だけ見れば「見捨てられる」時の応答と似た部分もあるため注意が必要だろう。

このように、「生死」に関する問題は、ある意味究極的な問題ともいえるので、かるく考えただけでも、色んなパターンが考えられる。個人的には、「気楽に行こう」「大丈夫」という言葉は、あまり安易にかけそうにないが、ささやいた本人にしてみれば、そのように軽くしてくれる言葉の方が助かるということも大いにあるのだろう。

やはり、もしそのような場面に出会ったら、相当悩まざるを得ない。皆さんなら、自分がそのような状況に出会ったとき。又は、ささやく側になった時、どんな言葉をかけ、どんな言葉をかけたもらいたいのだろうか。

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「何故」と問うことが無意味になる場合

2009 年 4 月 24 日

私は基本的に相手との会話の中でわからないことや、疑問があることについて、「何故?」と相手に問うほうだが、それが無意味になる可能性が高い状況もあるということは認識している。例えばそれは、本能的な反応、感情的な反応などであり、少なくとも問う相手が理性的とはいえず、冷静さをかくように見受けられる場合などだ。

具体的にいえば、「不安」「恐れ」「怒り」「悲しみ」等々、根源的な感情の揺るぎから発生した行動や言動などである。とはいっても、極度の不安・恐れ・焦燥感、意味のない苛立ち・怒り、日々の生活における得たいの知れない悲しみ、などに打ちのめされている人がいるならば、しかるべき対応のできる機関で診断を受けるべきであり、専門家による「現状を認識する為の「何故」」まで無意味だといっている訳ではない。

では、そのような状況に遭遇し、個人的な観点からみて不条理な対応を受けたり、又は非合理的な行動を相手がしている場合にとるべきこちらの言動はなんだろうか。

それは、激しく怒っている相手には、「怒っても意味がないよ」「落ち着いて話そう」と、指摘するようにではなく、なだめるように優しく声をかけ、恐れている相手にはあなたの味方であること、敵意がないこと、争うつもりがないことをゆっくりと理解してもらい、不安がる相手には、そばにいるから大丈夫だと言い聞かせ、悲しむ相手とは、ともに悲しみを分かち合うつもりがある、悲しみが癒えるまで焦らない、というようなことである。

つまり、「相手の行動の原因・根拠」を問いただすのではなく、まずは「相手の行動の結果」として、こちらがどのように対応するのかを示すことが有効なのではないかと思う。

しかし、私にとって「感情的な反応」と判断する材料というのは、実際に相手を観察して、発汗具合・血色・目の見開き方・声の大きさ・トーン・スピードなどを総合的に肌で感じて判断するものであり、尚且つ自分が大切にしたいと思う相手にのみ大らかな対応ができるのであって、ネットで見かけた文章などに対しては、どれだけ「感情的に見える」文章であっても、ただひたすら淡々と「何故?」と問うてゆくのである。

関連URL

- 文章から人格を読む人・読まない人 – suVeneのアレ はてなブックマーク数

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ネガティブ思考の例とか

2009 年 1 月 31 日

ネガティブ思考の例とか。(単純に冷静な現状把握の可能性もあるが)

  • 私は認められていない。
  • 私は必要とされていない。
  • 私はいてもいなくても同じ。
  • 私に生きる意味はない。
  • 私に生きる価値はない。
  • 私は相手にとっていくらでも代替がきく人間である。
  • きっとうまくいかない。
  • (危機が迫ってもきっと)誰も助けてくれない。
  • つまらない。
  • 自分が悪い。(原因がある)

などなど。

日記・散文・その他

非合理的だと感じる理由によって従わされる不快感について

2008 年 8 月 17 日

社会生活・集団生活の中では、常に自分の意見が通ることはないというのは、誰しもが納得することだろう。

ただ、その通らない理由が、(主観的な判断で)非合理的な理由、または納得できない理由である場合、人は不快感や屈辱感を味わうことが多いのではなかろうか。というか、そういうものだとして話を進める。

不快感や屈辱感が残るパターンの相手

否定されると怒りだす人

自分の意見が否定・指摘されると、すぐさま怒り出す人というのがいる。大きな声で怒らないとしても、明らかに不快感を表情に出す人などもそれにあたる。自分より気の強い相手や、体力的に強い相手だと、脅迫的な意味で従わざるを得ない部分があるので、どうしても屈辱感が残ることだろう。

話を聞かない人

話を聞かない人の中にも幾つかパターンがあるが、一つは、今まで違う方法でやってきたからという理由で、新しい方法を説明しても取り合わないという、「永遠の昨日」の人。一つは、自分の方法が必ず正しいと思い込んでいて、頭ごなしに相手の主張は間違えていると考えて話を聞かない人。

どちらのパターンにしても、「こちらの方が効率的では?」という提案すら聞いてくれないだけでなく、自分が納得できないまま非合理な方法に従わざるを得なくなったときは、モチベーションも下がるだろう。

これらは、社会的な役割的に同等かそれ以下である場合ならば、抗いようもあるが、自分より上の立場の人間にこれをされると、どうしようもない。

共通するのは

他にも色々なパターンがあるかもしれないが、共通するのは、従わせる相手に対して、理屈ではなく権威や暴力性や政治力などにより、一方的に自分の意見を通そうとするということだ。「この人に任せておけば大丈夫」などといった、ある種のカリスマ性があるならともかく、相手を納得させぬまま何とかその場で自分の意見を通したところで、何らかの遺恨が残ってしまうだろう。

うまくスルーセヨ!

では、これらのような人達と出会った時にどのようにすればよいか。
「スルーセヨ!」というのが、一つの回答なのではあるが、スルーするにも幾つかの方法がある。

精神的なスルー

とは言っても、精神的な耐性というのは、明らかな個人差がある。先天的な性格か環境による性格か考え方かはわからないが、「おおらかな人」というのは、元々精神的なスルーをしている可能性がある。(色々な意味の「おおらかさ」があるが、とりあえず大雑把に括っておく)

逆に、「神経質な人」又は「完ぺき主義な人」「理屈っぽい人」というのは、精神的なスルー力が多分弱い。単純にわかりやすい反応だと、自分が気が強い場合は、相手に納得するまで食って掛かったり、逆に気が弱い場合は、嫌々従わざるを得ないが、最後まで納得できずに抑圧となって、胃に穴が開いたりするだろう。

そのような人に「精神的におおらかになれ」といっても、すぐさま成れる訳でもないし、そもそも、指摘や質問が悪い訳ではないので、「おおらかに」成ることを強制するのも筋違いである。

では、どのようにスルーすればよいのか。

それは、「相手は理屈が通じない(と自分が考える)相手なんだ」という事実を認識して、「相手を理屈で説得しよう」とすることの困難性やコストの高さを踏まえて説得することと、「論じている争点」とは別の観点・方法を考えることと、自分にとってどちらが合理的・効率的かという、ある意味理屈で考えるということだ。

道を歩いていて、大きな岩にぶち当たった時、その岩を動かす為に、ブルドーザを用意したり、人手を集めたりするか、それとも、押してずらそうなどとは考えず、回り道にはなるが、別の道を探して回避するか、という選択肢を考えた場合、コストを考えればどちらが効率的かということを考える訳だ。

まぁ、この方法は結局相手の思うようにさせるという点で癪に障ったり、論じている争点が回避できないほど重要なポイントだったりする時に使えないなどのデメリットはあるが、少し観点を変えてみるというのは、そう悪くない案だと思われる。

物理的なスルー

これはそのままだが、なるべく距離を置けるなら距離を置く方がよいということだ。直属の上司であったり、同じチームの同僚であったり、近所の人であったり、なんだかんだと物理的距離がとりにくい可能性は大いにあるが、なるべく真っ向から相手するのを避けるように気をつけるというのも、精神的自衛の手段の一つだろう。

この方法も、「なんだか逃げている」というような思いに駆られる可能性もあるのだが、リスクを回避したり、遠ざけることは、直接「逃げる」事にはならないし、そもそも「逃げる」事は、考えてるほど悪いことでもないと思う。

最後に

このように、非合理的な理由や納得できない理由を押し付けてくる相手と面と向かうのは、とても疲れるしストレスの溜まることである。ただ、「相手が必ず非合理、或いは納得できない理由を押し付けている!」という思い込みにより、相手の意見を聞かないようなスタンスを取ってしまえば、結局その相手と自分は同じ穴の狢である。

いつだって自分が第三者からみて、「非合理的で納得できない理由を押し付け」ている可能性を無視して、相手を非難していないか気をつける必要はあるのではないか、と思う次第である。



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「共感」とは何か

2008 年 7 月 7 日

普段から俺は、書き手の価値観とは異なる意見を述べても、ネガティブコメントだとは思わないし、否定的意見や批判的意見に関しても同様だ。逆の立場(俺が書き手)だとしても、色んな意見があるんだなぁくらいに思うことが多いはずだ。たぶん。

まぁ、それは置いておくとして、だからといって「共感」がまったく無意味だとか不必要だなどとは考えていない。寧ろ「味方」を増やすためには有効な手段なんだろうと考えているし、「否定」は「敵」を生みやすいというふうにも考えている。そこまで打算的な損得として掘り下げなくとも、普段の交友関係などにおける「共感」はコミュニケーションを円滑にする上でも欠かせないものだろう。

んな訳で、今回は否定的意見や批判的意見や異論・反論の話ではなく、「共感」について考えてみる。まぁ、異論・反論などの二項対立として「共感」を持ってくるところが、水掛け論におけるスパイラル的な部分を補強する結果になるということではあるわけだけれども。

「共感」の定義

文字通りの意味で考えれば
『感情を相手と共にする。相手の状況を理解し同じように感じること』
あたりだろうか。「広辞苑」などによると、
『他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを自分も全く同じように感じたり理解すること。同感。』
ということになるらしい。その他、「同情」や「感情移入」なども大切なキーワードである。

しかし、当たり前のことではあるが、「他人の心と全く同じ」であることを“知る”というのは原理的に不可能であるということは誰しも理解していることだろう。生理的な反応などは“直感”的に相手も同じ感覚・感情だと判断することはあっても、複雑な感情の推移になってくると、「全く同じように共有」することの不可能性は身にしみて“実感”しているのではなかろうか。

だからこそ「共感」の重要性

これは、id:hejihou さんの言葉であるが

id:hejihogu > 分かり合えないと思ってるからこそ、少しでも同じ方向見てたり、部分的でも一致してそうと感じられたら嬉しいんじゃないの

という意見を見て、「なるほど」と思ったことがある。「相手の気持ちがわかる」ことではなく、「相手の気持ちと似たような方向性を持っていること」を感じることが「共感」だということだ。やはり人間というのは原則的に社交的動物なので、何らかの関わり・繋がりを実感すると快感を伴うのかもしれない。

「共感」を「相手への配慮」に摩り替える危険性

このように、「共感」というのは、例え勘違い、又は想像上の産物であると知りつつも尚、相手の状況を理解し、気持ちを想像し、その上で似たような感覚を持つようにするということが必要条件となるわけであるが、あくまでもそれは似たような文化・似たような感受性を持つ場合にのみ有効な訳で、「相手への配慮」がある場合に必ず「共感」する訳ではない、という事を肝に銘じておかなければならない。
その前提を取り違えると、「共感しない人間は相手への配慮が足りない」ということになりやすく、「共感」という実感を伴わない両者によるすれ違いは、互いに互いのことを「相手への配慮がない人間」だと考えてしまうことになるのである。

んな訳で

「共感」というのが大事なのは確かなのだが、それに縛られるあまり自分の意見を言えなくなったり、「共感」することを前提として他者とコミュニケーションを図るというのも本末転倒な話だと思う訳である。安易な「君の気持ちはわかる」という思い込みをするのも危険であり、逆に親身に考えた結果そのように言ってくれる人に対して、「俺の(私の)気持ちなんかわかってたまるか」というのも、「そりゃそうだ」という話なのである。

重要なのは、異論・反論・否定・批判があったとしても、いかに「共感」してくれなかったと(感じた)しても、お互いが何を言おうとしているのか、何を考えたのかという事を、理解しあおうという合意の元で図られるコミュニケーションということなのではなかろうか。
(んなもん「何が重要かは人による!」と言われたら、これまた「そりゃそうだ」って話なんだけれど)



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