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2009 年 2 月 22 日 のアーカイブ

個人的な意見を「一般人」として他者を責める行為について

2009 年 2 月 22 日


タイトルにあるような言動をたまに見かけるが、個人的にはあまり好きではない。というか、きらいである。

きらいな理由はいくつかあって、まず

  • その個人的な意見が「一般的」(マジョリティ的)であるという根拠が薄弱なことが多い。
  • 「一般人」(マジョリティ的)の意見であることが真だとしても、それを理由にそうじゃない人を「一般人として」責める理由にはならない。
というのが思い浮かぶ。
今回見かけたのは、

Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex はてなブックマーク数

という記事だが、概要は

「ことわざやルールがあるのは“それが足りてない、それが実現できてない”から、存在すると思う。で、「罪を憎んで人を憎まず」というのもそれに当てはまる。だから、意見が叩かれたりするときは行為だけ責めてると考えるのではなく、人格まで責めてると考えた方が正確さを増すと思う」

という感じだ。

まず、前提条件としての、「ルールの存在理由」についてはある程度同意できる部分がある。全ての人が画一的なルールに則って行動していれば、それを規制するようなルールを規定するという概念すら抱かないのがほとんどであろう。「罪を憎んで人を憎まず」の例にしても、確かに犯罪者を憎む人は多い気がする。だからといって、今回話題になっている話を「だから」で結合し「人格まで責めている」とするのは、論理が飛躍しすぎである。
(ちなみに、「今回話題になっている話」とは、簡単にいうと「ケアレスミスをしたという事実」を公開した意見について、「バカな行為をしたもんだ」みたいなこと。詳しくは各自で調べてください)

次に、「一般人」の意見として他者を責める部分であるが、最初は引用もとの記事も「個人的な意見として」のような記述が見受けられた。

だから、自分が叩かれたり、人が叩かれたりしてる時には、それは人格批判ではなく行為への批判なのだ、と考えるよりも、行為だけじゃなく人格まで責めてるんだ、と考えた方が予想としては正確さが増すんじゃないかと思うわけです。叩き手のことをよく知らないならば、なおのこと。

少なくとも僕はそう考えてるところがある。そして多くの他人もそう考えてるんじゃないかと思ってる。

Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex

ここまでは個人の意見であることが明言されていると解釈する。ただし、最後のほうで

それ自体はその人達が選んだ道だろうから是非は問わないけど、一般人(罪を憎んで人も憎んでしまう考え方がデフォ)の立場で考えたら、それに付き合わされるのはたまったもんじゃねえや、と思う。
Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex

と、個人の考えが、「一般人(一般的)」の代表としての批判に摩り替わっている

また、「ことわざやルール」の存在理由についても、そのことわざやルールが存在することは、それが守られていないから存在するのだという前提は同意できても、「守っていないことが一般的である」という前提は受け入れられない。これは、「廊下は走らないように」というルールが存在することが、「廊下を走る生徒」がいることを前提として作られたルールであることは予測できても、「廊下を走る生徒が一般的」と言えないのと同じことである。

このように、自分の意見がマジョリティであることを理由にして(または根拠にして)、マイノリティを叩こうとする言動は、見ていてよい気がしないというのが、個人的意見である。

(という、意見に対する今回の批判的エントリも「人格批判」として受取られるのであろうか……)

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- Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex はてなブックマーク数

思想・心理・議論・対話

コピペに対するマジレスとか

2009 年 2 月 15 日


俗にコピペと呼ばれる文章の中にも、ある程度物語的な構成になっているものがある。そして、それをコピペと知らずにまじめに反応する人が幾人かいて、また、そのような人達に対して「コピペにマジレスかっこわるい」的な意見を表明する人もいる。単に、「これはコピペですよ」と指摘しているだけなのかもしれないが、それでも内容に対する反応とコピペであることは、そんなに関連があるとは思えなかったので、あまり意味のない指摘だなぁと考えていた。これは、「釣りか否か」「ネタか否か」をやたらと気にしたり、釣りやネタであることをロジックや文脈・背景を考慮した結果、釣りやネタで看破した人が、そうでない人に対してとる態度と構造上似ている。と、いうより、よく眼にするコピペなどは、釣りの要素が多分に含まれていることが多いので、構造が似ているのは当然といえば当然かもしれない。

で、前述したように、内容に関する反応とコピペであることに、それほど関係があるとは思ってなかったのだが、考えてみると「釣り」「ネタ」「コピペ」というものは、虚構であることが前提であるものが多く、その虚構に対して、さもリアルな状況に対する反応と同じようにするのは、映画やドラマを見て登場人物の振る舞いに対して、あたかもリアルに存在する人であるかのように激怒したりするのと同じようなものなのかもしれない。と、考えると、「これはコピペですよ」という指摘は、それほど的外れでもないのかもしれないなぁと考え直した。

演技・役割などを含む「虚構」と、事実であるという意味の「現実」との関係は、空気読め的な問題と根本的なところで繋がっていると考える。まぁ、それはまた別の機会にするとして、「虚構」に対する反応として、「もしそのような現実があるとすれば」という仮定を前提として導入し、物語の登場人物や現象に直接的に結びつく感情を一旦切り離した上で話題にすることは可能であると考える。先ほどの映画やドラマというたとえ話の延長として説明するならば、「あのときの主人公の態度はひどいと思う」などと、知り合いとの会話の中で話題にすることが、至って日常的な情景であることからも妥当であると思う。さらに言うならば、仮定を導入とした時点で、元の物語が「虚構」であるか「現実」であるかすら切り離された状態となるのである。

つまり、「コピペにマジレスかっこ悪い」的な意見が、個人的に何故今まで的外れに見えてきたかといえば、指摘する側と指摘される側において、コピペに対する反応をしている人が、先ほどの仮定を導入した結果としての反応なのかそうでないのかを指摘する側が確認せず、お互いの前提条件が明確でないまま各々の意見が表明されることによりズレを感じていたからだと思われる。これは、自分の価値観において、「一旦物語の(事実かどうかという意味での)真偽」と内容それ自体を切り離して考えることが暗黙の前提となっていた為、他者の反応においてもそのように考えてしまっていたのだということなのだろう。

それほど、「自分もそうだから他人もそうなのだろう」という予測は根深いものなのだなぁという、何の変哲もない感想を向かえて、この文章を終わる。

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