タイトルにあるような言動をたまに見かけるが、個人的にはあまり好きではない。というか、きらいである。
きらいな理由はいくつかあって、まず
- その個人的な意見が「一般的」(マジョリティ的)であるという根拠が薄弱なことが多い。
- 「一般人」(マジョリティ的)の意見であることが真だとしても、それを理由にそうじゃない人を「一般人として」責める理由にはならない。
というのが思い浮かぶ。
今回見かけたのは、
Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex
という記事だが、概要は
「ことわざやルールがあるのは“それが足りてない、それが実現できてない”から、存在すると思う。で、「罪を憎んで人を憎まず」というのもそれに当てはまる。だから、意見が叩かれたりするときは行為だけ責めてると考えるのではなく、人格まで責めてると考えた方が正確さを増すと思う」
という感じだ。
まず、前提条件としての、「ルールの存在理由」についてはある程度同意できる部分がある。全ての人が画一的なルールに則って行動していれば、それを規制するようなルールを規定するという概念すら抱かないのがほとんどであろう。「罪を憎んで人を憎まず」の例にしても、確かに犯罪者を憎む人は多い気がする。だからといって、今回話題になっている話を「だから」で結合し「人格まで責めている」とするのは、論理が飛躍しすぎである。
(ちなみに、「今回話題になっている話」とは、簡単にいうと「ケアレスミスをしたという事実」を公開した意見について、「バカな行為をしたもんだ」みたいなこと。詳しくは各自で調べてください)
次に、「一般人」の意見として他者を責める部分であるが、最初は引用もとの記事も「個人的な意見として」のような記述が見受けられた。
だから、自分が叩かれたり、人が叩かれたりしてる時には、それは人格批判ではなく行為への批判なのだ、と考えるよりも、行為だけじゃなく人格まで責めてるんだ、と考えた方が予想としては正確さが増すんじゃないかと思うわけです。叩き手のことをよく知らないならば、なおのこと。
少なくとも僕はそう考えてるところがある。そして多くの他人もそう考えてるんじゃないかと思ってる。
Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex
ここまでは個人の意見であることが明言されていると解釈する。ただし、最後のほうで
それ自体はその人達が選んだ道だろうから是非は問わないけど、一般人(罪を憎んで人も憎んでしまう考え方がデフォ)の立場で考えたら、それに付き合わされるのはたまったもんじゃねえや、と思う。
Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex
と、個人の考えが、「一般人(一般的)」の代表としての批判に摩り替わっている。
また、「ことわざやルール」の存在理由についても、そのことわざやルールが存在することは、それが守られていないから存在するのだという前提は同意できても、「守っていないことが一般的である」という前提は受け入れられない。これは、「廊下は走らないように」というルールが存在することが、「廊下を走る生徒」がいることを前提として作られたルールであることは予測できても、「廊下を走る生徒が一般的」と言えないのと同じことである。
このように、自分の意見がマジョリティであることを理由にして(または根拠にして)、マイノリティを叩こうとする言動は、見ていてよい気がしないというのが、個人的意見である。
(という、意見に対する今回の批判的エントリも「人格批判」として受取られるのであろうか……)
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– Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ – outsider reflex
コメント
大変興味深いご指摘ですので、もし可能でしたらトラックバックを送信していただければ幸いです。
>個人の考えが、「一般人(一般的)」の代表としての批判に摩り替わっている。
こちらについては、このエントリを受けて先程追記しましたが、「現実の存在としての一般人」ではなく「このように仮定した存在であるところの一般人」について書いたつもりであったことを補足させていただきます。
>これは、「廊下は走らないように」というルールが存在することが、「廊下を走る生徒」がいることを前提として作られたルールであることは予測できても、「廊下を走る生徒が一般的」と言えないのと同じことである。
確かにその通りだと思います。
ただ、「廊下を走る」の例で言えば、数として「廊下を走る人間」が全体の10%未満であったとすると、これは「大部分=一般的」とは確かに言えないのですけれども、仮に1学級40人の4クラスが6学年あれば1000人近くの児童がおり、その10%でも100人近くになります。割合としては少ないですが、絶対的な数としては無視できない数であると言えるでしょう。
(余談ですが、近年話題になった漫画「鈴木先生」で、酢豚を嫌う児童がいるために給食から酢豚のメニューが消える、というエピソードでもこのような話がありました。自分のこの理屈はこのエピソードの影響を受けて出てきた物である可能性もあります。)
自分の書いた内容はむしろ、「一般人」というよりは、「一般人、と言う程には割合として圧倒的大多数ではないかも知れないけれども、無視できる程には少数でもない」というケースに該当する物なのかもしれません。
ところで、自分は過去にW3C信者として行動していた時期があり、行為を責めても人格を責めていると受け取られる、という場面を何度も目にしてきました。
その経験から、
・行為を責める目的は何か?
・→その人に何かを改めてもらい、世界をより良い方向に変える事である。
・→目的に対して、この行動はマイナスの作用をもたらしているのではないか?
・→自分の意図が悪意ではないとしても、相手に悪意として取られたらおしまいではないのか?
と考え、言葉遣いに関して慎重に考えるようになりました。
当該エントリは、このような背景があって出てきた物であることを補足させていただきます。
「マジョリティの代表としてマイノリティを叩く」というよりは、「マイノリティに属する人間が、マジョリティについて分析し、マイノリティに対して意見を表明している」というのが実情に近いのではないかと自分は思っております。
>「マイノリティに属する人間が、マジョリティについて分析し、マイノリティに対して意見を表明している」
補足です。
これは「(正しい事を正しいと言うのが良い事であると考える)マイノリティに属する人間が、(正しい事を言われても言葉遣い次第では素直に受け入れられない)マジョリティ(自分個人もそのクラスタに属する)について分析し、(前者のクラスタには属するが後者のクラスタには属しない)マイノリティに対して意見を表明している」ということです。
また、ここでの「マジョリティ」はその前の部分で述べた「無視できる程少数ではない」のエイリアスです。正確な言葉の意味であるところの「大多数、半数以上」には合致しないと自分でも思っておりますが、適切な言葉を思いつかなかったためこの言葉で代用しております。
度々失礼します。
>(という、意見に対する今回の批判的エントリも「人格批判」として受取られるのであろうか……)
率直に言えば、最後の段落(引用箇所)がなければ人格批判として受け取っていたと思います。
「このような穴のある理論を振りかざす人間は、人格的にも問題があるに違いない」と言われているのだと。
自分が当該エントリを通じて述べたかったのは、「伝えたい事*だけ*書いていても、伝えたくない事(誤解も含めて)まで伝わってしまうことがある。伝えたい事を本当に伝えるには、伝えたくない事が伝わらないようにする工夫が必要なのではないか。伝えたい事を伝えることを何よりも望んでいるのならば。」ということです。
本エントリの最後の段落は、このような工夫の一つであると自分は受け取りました。
誤解上等、伝わらなければそれは受け手の読解力が無いだけであって自分は悪くない、と割り切る限りはこのような工夫は不要だと思います。そして自分の目には、otsune氏はそのようなスタンスを取っているように見えています。
@Piro さん: #1 と #2 について
>大変興味深いご指摘ですので、もし可能でしたらトラックバックを送信していただければ幸いです。
トラックバックしました。このエントリは、Piro氏のエントリを引き合いにしつつ、実はそのような構造がよくみられるなぁと思うところを書きたく直接的言及というよりは、キッカケとしたかっただけなので、トラックバックしなかったのですが、結果的に Piro氏への直接的言及で終わってしまっている感じなので、トラックバックしたほうがよかったですね。
> 「このように仮定した存在であるところの一般人」について書いたつもりであったこと
なるほど。了解しました。
> 「一般人、と言う程には割合として圧倒的大多数ではないかも知れないけれども、無視できる程には少数でもない」というケースに該当する物なのかもしれません。
そうですね。これは自分もそんなに異論はないです。というか、このエントリでは「一般人と決定することはできない」という主旨になってますが、個人的感覚では、実はこの件だけに限れば、多数の人間が意見への反論を人格攻撃と受取る可能性が高いのではないのか?と思ってなくもないです。
> 「マジョリティの代表としてマイノリティを叩く」というよりは、「マイノリティに属する人間が、マジョリティについて分析し、マイノリティに対して意見を表明している」というのが実情に近いのではないか
理解できます。「相手(想像したマジョリティ)の心情を想像し、自分(というかマイノリティ側)に対してそのように思っているのではないか」という意味ですね。よって、#2 の補足は大筋で理解できていると思いますので、「エイリアス」的な件も了解です。
@Piro さん: #3 について
>>(という、意見に対する今回の批判的エントリも「人格批判」として受取られるのであろうか……)
>率直に言えば、最後の段落(引用箇所)がなければ人格批判として受け取っていたと思います。
なるほど、ちょっと興味深いですね。
およそ、「意見への批判は人格への批判ではない」(つまり、#1 の Piro氏 の論理)で考える人間は、自分に対する批判も同じロジックで解釈するのかと思ったのですが、自分が相手に対する論理と、相手から自分に対する解釈は異なるのかもしれませんね。(これは私も含めて)
> 「このような穴のある理論を振りかざす人間は、人格的にも問題があるに違いない」と言われているのだと。
ご理解いただけてるかと思いますが、そのようなつもりは全くございません。
補足しますと、当然のことながら、引用エントリの otsune さんのコメントにある様に、ケアレスミスは誰でもするわけですし、人によって異なる前提・異なる論理があるのは当然のことなので、その論理に矛盾があったところで、人格に影響するとは思いません(全く無関係とも思いませんが)。というか、指摘した側(今回の私のエントリ)の論理が間違えている可能性だって、充分にあることも承知していますので。
> 自分が当該エントリを通じて述べたかったのは、「伝えたい事*だけ*書いていても、伝えたくない事(誤解も含めて)まで伝わってしまうことがある。伝えたい事を本当に伝えるには、伝えたくない事が伝わらないようにする工夫が必要なのではないか。伝えたい事を伝えることを何よりも望んでいるのならば。」
理解できます。これは、意見表明時の各々のスタンスに依存してくる問題かとは思いますが特に異論ありません。
そういう意味では、Piro 氏のエントリ内容で伝えたかったことと、otsune さんがコメント欄で説明しようとしていることは、フェーズ的な意味でずれているのかもしれませんね。(想定する「一般人」のズレとも言えるかも。「技術者」か「それ以外も含めて」かみたいな)
@suVene
>およそ、「意見への批判は人格への批判ではない」(つまり、#1 の Piro氏の論理)で考える人間は、自分に対する批判も同じロジックで解釈するのかと思ったのですが、自分が相手に対する論理と、相手から自分に対する解釈は異なるのかもしれませんね。(これは私も含めて)
「意見への批判を意図して書いた文章は、人格への批判を意図して書いた文章ではない」
「意見への批判を意図して書かれた文章は、人格への批判を意図して書かれた文章ではない」
とは思っていますが、
「自分が意見への批判を意図して書いた文章は、人格への批判を意図して書いた文章とは読まれない」
「意見への批判を意図して書かれた文章は、人格への批判を意図して書かれた文章には見えない」
とまでは断定できない、というのが自分の考えです。
アプリケーションを作る時に守るべき原則として「データの入力には寛容に(仕様に反している物も含めて可能な限り多くの可能性を考慮に入れる)、データの出力は厳密に(仕様通りに)」というものがありますが、これに似ている気がします。多くの場合の人間関係ではむしろ、字面通りの事しか読み取らなかったら「気が利かない」とか「頭が固い」とかそういう言われ方をするものですし(それが良い事かどうかはさておいて)。
@Piro
> とまでは断定できない、というのが自分の考えです。
多少話がずれてきた感がありますが、尤もだと思います。「他者」の解釈の仕方は断定できるものではないので。
不思議だったのは、
(出力) > 自分は過去にW3C信者として行動していた時期があり、行為を責めても人格を責めていると受け取られる
(入力) >率直に言えば、最後の段落(引用箇所)がなければ人格批判として受け取っていたと思います。
の部分において、「自己」と言う基準において、入力と出力の論理が異なる点かなと。
(「読まれない」「見えない」が「自己」にかかる言葉だとすると、このコメントの冒頭で述べた解釈自体が間違えてることになりますが)
俺の感覚だと、今回の件は吉岡さん(とpiroさん)がはてなのsvn repoを引き合いに出していなければ主張自体は納得できる。
ただ、はてなというソースコードで商売していて非凡とは言えない技術者に対してRAID1だけしてて飛ばした事に「バカな事したな」と言ったところで「伝えたくない事(誤解も含めて)まで伝わってしまうことがある」なんてことはありえない。それはPiroさんが突然と一般論を持ち出した詭弁すぎると思う。
吉岡さんのダイアリーにもコメントしたけど、FUDや罵倒と「まともな技術者に対してsvn repoを飛ばしたことに「バカな事をしたな」と言う事」は区別されるべきだと思うよ。
もちろんPiroさんが「いや、はてなの技術者にだって、例の件でそう言ったら伝えたくない事(誤解も含めて)まで伝わってしまうことがある」と思ってそう主張する自由はあるんだけどさ。
それは俺には客観性が見当たらなくて納得できない。
「blogにtypoがありましたよ」「オレをバカにするな! 国語の知性を毀損してる!」みたいなぶっ飛んだひとも居るかもしれない。みたいな極端な思考実験にしか見えないなぁ。
コメントした http://tinyurl.com/az68yn
@otsune
> 俺の感覚だと、今回の件は吉岡さん(とpiroさん)がはてなのsvn repoを引き合いに出していなければ主張自体は納得できる。
後出しと見られそうですが、リンク先エントリを書く前の時点で、自分も「吉岡さんがはてなの今回の件を事例としてあの話をしたのは不適切」という指摘には同意しています。その上で、はてなの事例とは別に、過去の自分の体験等に基づく話として書いたつもりです(という事を前の別コメントにも書きました)。
「Piroまで今回のはてなのミスを擁護している」と言われるのは、主観的にはまさに「言ってもいない事が伝わっている」感があります。
もちろん、あのタイミングであのような書き方をすればそのように受け取られる可能性はそれなりに高いと自分も思いますので、今後はその点にも留意したいと思っています。
[…] original article […]
吉岡さんという話は知らないけれど、Piroさんに関しては、あの記事を引用しつつ
という書き出しで始めてしまっては、まさにあの記事の内容に対する言及と受取られるのもしょうがないかなと思います。
なので、
というのは、このエントリの引用元から読み取るのは難しかったです。
今は、上段の Piro さんのコメントの内容を理解できたので、意味はわかりましたが。