俗にコピペと呼ばれる文章の中にも、ある程度物語的な構成になっているものがある。そして、それをコピペと知らずにまじめに反応する人が幾人かいて、また、そのような人達に対して「コピペにマジレスかっこわるい」的な意見を表明する人もいる。単に、「これはコピペですよ」と指摘しているだけなのかもしれないが、それでも内容に対する反応とコピペであることは、そんなに関連があるとは思えなかったので、あまり意味のない指摘だなぁと考えていた。これは、「釣りか否か」「ネタか否か」をやたらと気にしたり、釣りやネタであることをロジックや文脈・背景を考慮した結果、釣りやネタで看破した人が、そうでない人に対してとる態度と構造上似ている。と、いうより、よく眼にするコピペなどは、釣りの要素が多分に含まれていることが多いので、構造が似ているのは当然といえば当然かもしれない。
で、前述したように、内容に関する反応とコピペであることに、それほど関係があるとは思ってなかったのだが、考えてみると「釣り」「ネタ」「コピペ」というものは、虚構であることが前提であるものが多く、その虚構に対して、さもリアルな状況に対する反応と同じようにするのは、映画やドラマを見て登場人物の振る舞いに対して、あたかもリアルに存在する人であるかのように激怒したりするのと同じようなものなのかもしれない。と、考えると、「これはコピペですよ」という指摘は、それほど的外れでもないのかもしれないなぁと考え直した。
演技・役割などを含む「虚構」と、事実であるという意味の「現実」との関係は、空気読め的な問題と根本的なところで繋がっていると考える。まぁ、それはまた別の機会にするとして、「虚構」に対する反応として、「もしそのような現実があるとすれば」という仮定を前提として導入し、物語の登場人物や現象に直接的に結びつく感情を一旦切り離した上で話題にすることは可能であると考える。先ほどの映画やドラマというたとえ話の延長として説明するならば、「あのときの主人公の態度はひどいと思う」などと、知り合いとの会話の中で話題にすることが、至って日常的な情景であることからも妥当であると思う。さらに言うならば、仮定を導入とした時点で、元の物語が「虚構」であるか「現実」であるかすら切り離された状態となるのである。
つまり、「コピペにマジレスかっこ悪い」的な意見が、個人的に何故今まで的外れに見えてきたかといえば、指摘する側と指摘される側において、コピペに対する反応をしている人が、先ほどの仮定を導入した結果としての反応なのかそうでないのかを指摘する側が確認せず、お互いの前提条件が明確でないまま各々の意見が表明されることによりズレを感じていたからだと思われる。これは、自分の価値観において、「一旦物語の(事実かどうかという意味での)真偽」と内容それ自体を切り離して考えることが暗黙の前提となっていた為、他者の反応においてもそのように考えてしまっていたのだということなのだろう。
それほど、「自分もそうだから他人もそうなのだろう」という予測は根深いものなのだなぁという、何の変哲もない感想を向かえて、この文章を終わる。