事実を事実として受け止めるという事(id:b_say_soさんへ仮の返信) - suVeneのアレ

事実を事実として受け止めるという事(id:b_say_soさんへ仮の返信)

 落ち着いて考えて entry をあげている余裕が無いのだが、あまりに時間が経ってから言及するのもなんなので、とりあえず個人的に考えている事を b_say_so さんへの仮の返信としてみようと思う。構成を考えてないから、多分長文になる。前の b_say_so さんの entry を読み返した訳でもなく、直接的なコンプレックスへの対応の対案でもないのだが、全ては繋がっていると思うので、俺が個人的に考える 自意識・コンプレックス・差別・抑圧・不条理・個と集団などに対する基本的なスタンスを語る。

Say::So? – 昨日の補足とsuVeneさんへごめんなさい

 まず、前提として言って置かなければならないことがいくつかある。

 一つは、俺は自分が持つ根本的な弱い部分はほとんど表に出さないという事。表というのはウェブ上では当然のことながら、現実における社会的な場所どころか、普段身近に触れる人々も含まれる。誰にも言わない。そしてこれは、「言わない」のか「言えない」のか自分でもわからないのだが、外面的・内面的な理由や諦めなどと複雑に絡み合い「言えない」事を、自分の中で「言わない」に摩り替えてるともいえる。「言わない」事によるメリットがあるからともいえるのかもしれない。まぁ、その中身や理由についてはあまり関係の無い事なので、これ以上は置いておく。

 次に、俺は思想・身分という意味で人は常に平等でありたいと考えているし、個人的には平等だと思っている(物理的・心理的・金銭的な関係による強弱があることとは別)。近代になって作られた「平等」という概念に知らぬうちに囚われているだけかもしれないが、そう信じたいと思っている。これは、他人を見下さない見上げないという意味だけなく、自分が見下されたくない見上げられたくない、というのも入っている。

 「平等」と「自由」という概念を具体的レベルまで規定しようとすると、とても 1entry では足りないので、この記事上で使う意味を簡単に説明しておく。この記事で使う「平等」とは機会平等や結果平等などの話ではなく、「人の思想は誰にも束縛されないし、暴力・権力によってされるべきでもない」という基本的な話であり、「思想単位の上下はない」ということである。「自由」のほうは、簡単に言ってしまうと誤解を招きそうだけれども、あえて表現すると「何を考えるのも自由であり、法を犯さない限り(誹謗・中傷・デマなど)、何を表現するのも自由」であるという事。思想というのを価値観と置き換えてもらっても、大まかな筋は変わらない。

 これらの考えはあくまで俺の理想であり、思想であるということは理解している。現実において差別はあるし、身分により思想の上下を決める人もいるし、人の自由を束縛しようとする人もいることは認識しているし、俺自身が自分の信念を犯してしまっている可能性もある。

 長くなったが、ここまでが前提。で、コンプレックス・差別・抑圧・不条理・個と集団というような問題とどのように関係するのか。それは、俺は自分自身の思想と現実との乖離を認識していて、その理想と現実との乖離にある「事実を事実として受け止めること、認識すること」が重要だと考えるというスタンスだということだ。何故なら、ギャップを認識しなければ乖離を埋めることはできないからだ。もう一つの理由は、自分のコンプレックスや感情がどういう状態にあるのかできるだけ客観的に認識しておきたいからだ。

 もう少しわかりやすい例で例えてみよう。例えば「馴れ合い」といわれるコミュニケーションでは、「事実を事実として受け止める」ことよりも、その対人関係において円滑なコミュニケーションができればその方がいいし、そのようなコミュニケーションは仲のよいもの同士ではあって当然だろうと思う。しかし、現実のパブリックな世界、ウェブ上のブログなどの公開された場所においては、「事実よりも角の立たなさ」が、事実を覆い隠すことになる。他の人の言葉を引用すると

気を使って思っている事を言われない、「あぁ、いいって、いいって、皆までいうな、分かっているから」とか、「よくわからないけどいいや」などと言われる空虚感はネット外で十分です
奥様、鼻毛が出ておりますことよ – 書き忘れた。

本当に仲のいい人物がいたとして、かなり理解してくれている者同士ならまだしも、社会的な付き合いにおいて、わかってないのにわかってる振りをしたりして事実を隠してしまうことが俺は嫌なわけだ。他にも「かわいそうだから指摘してあげるな」とか、労働においてとても無駄だと考えられる行為をしているのに「昔から決まってる事だから言わないほうがいい」とかだ。

 「甘え」という言葉がキッカケになっていたので、その言葉についても言及するならば

基本的にはあまり言わないほうがよいとは思います。というのは「甘い」というのが単なる感想であったとしても、受け取る側からすると悪意に見えるから、という風に前に書いています。あくまでも受け取る側から見て悪意に見えるだけであって、発する側に悪意という意識があるかどうかについてはふれていません。むしろ悪意ではないと思っています。
Say::So? – suVeneさんへの返答

これは、俺にとっては無理な相談だ。「甘え」は「甘え」であり、「自分の為に相手がコストをかけてほしい」という意味において「甘え」だという単なる事実だ。

私は、発する側と受け取る側の感じ方がかなり違う言葉は、感情が前面に出やすくなるので基本的には用いるべきではないと思います。特に負の感情を伴いかねない言葉というのは極力避けたほうがよいかなぁ、と思っています。使うのであれば「どこがどう甘いのか」と言うとか、あるいは相手をわざと怒らせるために使うとかかなぁと。
Say::So? – suVeneさんへの返答

発する側と、受取る側の感じ方の違いというのは、「発してみないと」または「確認してみないと」わからない。価値観が共有できているという前提でなければ、何も発する事はできない。そして、俺の価値観は今まで出会ってきた多くの人と食い違っている。

 これは、「甘え」だけに限った事ではない。感情やコンプレックスを刺激する言葉は千差万別だ。極論すれば、愛していた女性を失った人にとって「彼女がいない」ということであり、体が弱くて体育の授業や遠足に行けない小学生に向かって「運動不足」ということであり、父親が不倫して出て行った子どもに向かって「片親」ということであり、信頼していた人に裏切られた人にとって「他人を信用しない」ということであり、馴れ合いが苦手な人に向かって「和に入らない」ということであり、一人で生きていくしかなく学校に通えない人に向かって「学歴が低い」ということであり、愛想笑いができない人に向かって「無愛想」ということだ。全ては「事実」である。

 そして仮に、俺がこの条件に全て当てはまって、他人に「悪意なく指摘」されたとしても、俺はその事実によって弱者に扱われたり、気を使われたりするくらいなら、事実を事実として認めるだろう。いや、怒るかもしれないし、反論するかもしれないのは認めよう。それでも、特別扱いされたりされるくらいならば、対等に(あくまで俺個人の意見として)指摘されるほうがいい。

 そして、指摘されるのが嫌ならば全て言わないだろう。何故なら、俺は俺であり、他人は他人であり、俺の痛みは他人の痛みではなく、同時に他人の痛みは俺の痛みではないからだ。

 自己否定的だからこそ、事実を事実として認めにくいのは理解できる。しかし、過去の事実は目を伏せても変わらない。コンプレックスを指摘してくれるなと周りにいっても、コンプレックスはなくならない。ただただ、その事実があるだけだ。まずはそれを自分自身が認めなければならない。感情を捨てろという話ではなく、それとは別に事実は事実として、である。

私が議論したいのはその「けど…」のあとのところです。「わかって欲しいというのは甘え」「いろいろ対策をとるのは逆効果の面もあるんじゃないか」「ましかもしれないけど」っていうのが現時点。で、その後「こうしたほうがいいんじゃないか」「その方法にはこういう改善すべき点があるのではないか」と続くのが議論です。
… 中略 …
それをいうなら代替案を出して欲しい。
… 中略 …
私が求めているのは、「『甘い』ならどうすればよいと思うかsuVeneさん(あるいは昨日の記事を読んだ人に)に考えて欲しい、できれば語って欲しい」
Say::So? – 昨日の補足とsuVeneさんへごめんなさい

これは俺の考えであり、無理強いするつもりは無い事を最初に断っておくが「甘い」なら「甘い」でよいのではないだろうか。社会において「甘い」のは色んな意味で生きづらいことが多い。だからと言って、「甘い」のはなくならないし、まずは事実として「甘え」を受け止め、治したいと思うのならば何らかの方法を探るしかないし、少々甘えてもいいかなと思うのならばそのままでいいんではないだろうか。勿論、「私は甘えてない」と思うのならば反論すればいいし、「甘え」と言われて傷付いたのならば言えばいい。

 言い訳になるが、俺は「自分の為に」主観による解釈や指摘はするが、「やめて欲しい」と言われた場合、やめる事を考える(都合によりやめない事もある)。ただし、これからも前もって「言わない」と言うのはありえない。b_say_so さんが「甘い」と言われるのが嫌だということは分かったが、俺は逆に客観的な指摘はして欲しいからだ。その発言に明らかな揶揄や、治せと強制する意志が無い限り。

上記までの話は、平等、対等であると思う人との他者とのスタンスである。一般論として、社会的弱者であると言う話ならばまた別だが、その問題は簡単には語れないのでここでは取り上げない。
以上、勢いで書いたので、支離滅裂かもしれないし、自分自身を保護している可能性も大いにある。これを受け入れる必要は当然ない。周りの気遣いや感情で誤魔化して、配慮してくれる人の元で社会生活が送れて満足ならば、それもいいだろう。

他人は変えれない。自分が変わるしかない。

俺にとっては、その為にはまず「事実を事実として受け止める」「受け止めたい」と言う事だ。

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コメント

  1. keitaro227 より:

    "その理想と現実との乖離にある「事実を事実として受け止めること、認識すること」" 事実を事実として受け止めるという事(id:b_say_soさんへ仮の返信) – suVeneのアレ http://bit.ly/aKumIn

  2. 事実を事実として受け止めるという事(id:b_say_soさんへ仮の返信) – suVeneのアレ 落ち着いて考えて entry をあげている余裕が無いのだが、あまりに時間が経ってから… http://goo.gl/fb/UfgUW

  3. 事実を事実として受け止めるという事(id:b_say_soさんへ仮の返信) – suVeneのアレ 落ち着いて考えて entry をあげている余裕が無いのだが、あまりに時間が経ってから… http://goo.gl/fb/PdAnx

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  6. WadaiNow_bot より:

    事実を事実として受け止めるという事(id:b_say_soさんへ仮の返信) – suVeneのアレ 落ち着いて考えて entry をあげている余裕が無いのだが、あまりに時間が経ってから… http://goo.gl/fb/Eh6az

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