「嫌なら見るな」について - suVeneのアレ

「嫌なら見るな」について

新年早々風邪をひいて、この世の果てを彷徨っていたので、数日前のエントリからの感想。

新年もマシンガン その1:「嫌なら見るな」を撲滅したい – HINAGIKU 『らめぇ』 はてなブックマーク数

中に書かれている「初音ミク」に対しては、何の思いれもないし、知識もないのだが、その中から「嫌なら見るな」について思うことを書きたいと思う。
(ちなみに危機的状況だったのは、直接的に風邪のせいでなく、食糧不足・栄養不足の為)

リンク先の内容を要約すると、「「嫌なら見るな」という言葉は、「嫌と言われたくないならば表現するな」と同じことだ」というような感じで、エントリの内容は同意できる話だった。エントリの前提として、表現者A が 批判者 B に対して放つ言葉のパタンだと解釈した。

で、エントリ自体にはとても同意できるし、私も自分のエントリに対する批判や反論に対してあまり「嫌なら見るな」とは、(たぶん)言った覚えはないのだが、これ以外のパタンで「嫌なら見るな」と言いたくなる事があるなと考えた。それはどういう時か。

それは言い換えるならば、「嫌なら見るな」というよりも、「嫌ならば見ない方法もありますよ」というニュアンスなのだが、それは些細な言い回しなので、あまり大差ないかもしれない。(いや、言い回しで大差ある場合がよくあるが)

例えば、とある誰かが普段生活している上で、何かの表現を見て不快感を得てしまうことはよくある事だと思うのだが、それ以降その人は、何かにつけその不快感を得た表現の元に自ら接近し、不平不満を述べているような状況を目にした場合、「嫌なら見なければいいじゃない?」と言ってしまいたくなる。少し分かりにくいか。

要するに、「嫌だ嫌だ」という不満をあげつつ、その嫌な原因を解消しようとしない状況というのはよくあって、実は嫌な思いをしない住み分け方法(リンク元の言葉を借りるとゾーニング)が確立していることを自分が知っている場合、ついその手段を提案してしまいたくなる。
まぁ、リンク元の人は、そもそもその「ゾーニング」自体が気に入らない訳で、異なる意見がぶつかって戦うという面倒を乗り越えた後のメリットを主張している訳だが、不平・不満・不快感を独り言のように呟やき、直接衝突する訳でもなく、非生産的と(自分が)判断しうる状況に出くわした場合だ。

まぁその提案にしたって、別にその不平・不満・不快感を述べる人の為なんかでなく、その陰気な意見を自分が聞きたくないからという、それこそ「嫌なら見るな」と言われかねない動機からな訳であり、言われる方にしてみれば、「大きなお世話」である可能性が高いのはいうまでもない。

とまぁ、こういうパタンもあるなぁとか、実際ゾーニング必要な状況もあるしなぁとか、「嫌なら見るな」に「嫌と言われたくなければ書くな」と返す水掛け合いも(傍から見てる分には)ありだよなぁ、というような取り止めのないことが思い浮かんだだけなので、これといったまとめがある訳ではない。
実際もうちょっと前提をつめなければ結論も出ないので、この辺で終了。

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