次の記事は「「嫌い」であることと「ウザい」「苦手」「不快」と思うことの境界」について。つまり、「嫌い」という感情はなんなのかってのを考えてみようと思ったのだが、前回の記事で「相手に伝える」という事の状況やニュアンスについて、幾人かに誤解を受けているようなので、少し補足してみよう。(やはり言葉や文章で考えを伝えるのは難しいなぁと実感)
*「嫌い」を伝える状況
まず、状況についてなのだが、前回の記事で追記したように「自然と距離を置くことが可能」な場合については想定していないということを述べておく。そのように心理的にスルーしたり、適度な距離を保てているのならば前回の話はほとんど関係がない。わざわざ関係の薄いところに出張して伝えることで、揉め事を起したり軋轢を作れという話ではないのだ。
次に、いまいちそのような状況が思い浮かばないという意見を見かけた。その人達も、意識・無意識に関わらず普段の生活において「スルーできている」可能性が高いので、わざわざ考える必要性はないかもしれない。
しかし、本当にそのような状況を見たことがないだろうか。
例えば、学校やサークルなどで、みんなと「表面上は楽しく過ごしている」かのように見えて、その本人がいないところで陰口を叩くような人物を。
例えば、自分が好きだという同性・異性に対して、気のあるそぶり(自分もあなたの事を好ましいと思ってますよという態度)を見せるという人物を(それが自分の利益の為か、相手を傷付けるのが嫌だという理由かは別として)。
例えば、合コンや会社の飲み会で楽しくないのに、嫌いな人へも笑いを振り撒く人物を。
例えば、mixi に関する言及などで、「マイミクの○○が嫌いなのに、コメントをつけられたり、つけたりしてしまいはっきり言えない」というような話を。
状況のニュアンスが少し伝わっただろうか。見た事も聞いたこともないというのならば、これ以降の話は多分伝わらない。
俺はこれらの態度がほとんどの場合において「嫌い」である。特に、積極的に本音と建前を使い分け、そのコミュニティ間での立場を保持しようとする人物については、とてもウザイと感じる。
だからといってこのような態度を振舞う全ての人を糾弾したい訳ではない。寧ろ「周りの雰囲気が悪くなることに気を使いすぎる為、自分が我慢してしまう人」や、「嫌いを表明することのデメリットに耐えられない人」が、そのことでストレスを溜めたり、思わず誰かに愚痴った時に自己嫌悪する人がいることも理解している。つい、愛想笑いしてしまう人がいるのも分かる。
そして、そのような人にこそ伝えたいのだ。「「嫌い」を認識し距離を置くということは悪いことではないのだ」ということを。
何度も言うが、そのような(嫌いな相手がいるという)状況を心理的にスルーし、相手の機嫌をとったりおべんちゃらを言ったりすることもなく、適度な距離を保てる人は、それでよいと思う。
*「嫌い」であることの積極的伝達と消極的伝達 ~ 「嫌い」を伝える手段
「伝える」といっても、方法は様々である。そして「伝える」という語義から、「積極的に相手に伝えに行く」という意味で捉えられたのだろうと推測する。
積極的伝達と消極的伝達と分けてみたが、俺が勧めたいのは「消極的伝達」のほうだ。
積極的伝達とは何か。それは、わざわざ関係の薄い人の元へ足を運んで口にして相手に伝えるということである。これは先ほども述べたように、そんな事をする必要はない。(別にするのは勝手だが)
「言葉に出して表明する」という方法も、やや積極的である。これも、距離がある相手ならばわざわざ口にする必要性はないし、普段コミュニケーションしている人物に直接言うのも勇気が必要となる人もいるだろう。
では、消極的伝達とは何か。それは、その(嫌いな)相手に「嫌われないようにする」という態度をとらないということである。話し掛けたくないのに、「分け隔てなく話し掛け」てしまうような態度をなるべくとらないということである。要するに「距離を置きたい」という意思表示をしたり、「不必要なコミュニケーションを取るのを避ける」ということを実践するのだということだ。
* まとめ ~ 次回へ続く(可能性がある)
とまぁ、前回の記事に対する補足を主にしてみたが、他にも問題点や言いたい事は沢山ある。
例えば、親子・親類関係においては、「距離を置くのが難しい」という意味において少し異なる。何人かが指摘しているように、「嫌い」を伝えることによるデメリットやコストについての問題。「人そのもの」が嫌いなのではなく「ある態度」や「行動」や「属性」が嫌いなのだという話。常に本音を言えばよいのではないというバランスの話。「嫌い」である事を表明するだけで破綻してしまう(かのように見える)関係。
これらについては、簡単には答えが出るはずもないし、短く纏めれる問題でもないので、今回は取り上げない。
ただ、最後に言っておきたいことがある。それは、「何故この俺(わたし)が好きなの?」という疑問と同じように「何故この俺(わたし)が嫌いなの?」という状況や感情は普通に存在するということを。当然、俺自身も嫌われることがあるのと同様に、この記事を読むあなたも身近な誰かに嫌われている可能性がある。
それは驚くべき事ではないのだ。だから仮に誰かがあなたを「嫌い」であったとしても、驚く必要はないし、落ち込む必要もない(警戒する必要がある場合はあるが)。職場においても、身近な交友関係においても、そのような負の感情はいつだって存在するのである。あって当たり前なのだ。
最初に言ったことに戻るのだが
何も言葉や暴力で攻撃せよとか、徹底的にそのコミュニティから排他せよとか、相手の権利を奪ってしまえなどということでは決してない。距離を置く為に伝えるのだ
suVeneのあれ: 人を「嫌う」ということ(その1)
ということだ。「嫌い」を認めるということは、「伝えること」のみならず、「伝えられた(伝わってきた)」としても、その感情が異質のものだと思い込まないということであり、過剰に反応する必要はないということだ。
「嫌い」であることと、同じ職場で職務をこなすことや、コミュニティ・(1vs1でなく複数の)交友関係を継続することは可能なのだと言いたい(無理な人もいるのだろうけど)。
俺は自分が嫌いなのに表面上は仲良く振舞ったりする環境がいびつな関係に見えるということだ。(また、俺との交流関係においてそのように振舞われるのも迷惑だという意味もある)
当たり前ではあるが、俺の考えを強制したいというわけではない。「嫌いであることを隠して角が立たないように振舞うこと」にストレスを感じない、またはそのような生き方が好きだという考えもあるのだろうから。
コメント
[think]「嫌いであること」を表明する前に考えたい二つのこと
「嫌いという感情を表明すること」についてここ最近話題になった記事を読みながら、少しだけ僕も混ぜてもらおうと思いました。 「嫌いであること」を表明するということ ネガティブな感情を表に出す効用や副作用などを、大ざっぱに僕は下記のように考えています。 ネガティ
[日記]人間は、嫌いを伝えると死んでしまうんです。
ウサギは、一人でも生きていけるらしいですね。
あれは嘘だったのでしょうか。
でも、一人だと寂しくて死んでしまうほうが、ぼくはすきかなぁ。。
ref. http://d.zeromemory.info/2007/02/15/dislikeit1_5.html
こちらも。