日本人論にするつもりはないが、自分が見聞きする範囲内において、「対立をできる限り避ける」という事をかなり優先度の高い命題として扱う人が多いように思う。考えてみればその人達にとっては当然の話なのかもしれない。例え、自分の意見や内心は異なる主義・主張があったとしても、その主義主張が通った時のメリットと、押し通した結果うまれる対立によるコストやデメリットをバランスしてみれば、あえて主義・主張を押し通すことはないという結論が導きだされるのだろう。いわゆる、波風立てないうまいやり方というやつだ。以下のエントリにもそのような内容が記述されている。
概要は
- 医師は患者との「対話」において、それを否定して「対立」を発生させてはいけない。
- 理由は患者が「否定」を認めることは少なく、医師は「否定」し続けるしかないから。
- ゆえに、対案と譲歩を駆け引きしながら患者の「納得」を目指すべき。
- 対案を出して患者側が「否定」をすれば、その分医師の責任は軽くなる。
- 以上ができないならば、「負け」を認めて、少なくとも患者に「対案」を出させてはならない。
といった感じである。スタンダードな駆け引きであり、大抵の場合においてうまくいきそうな処世術だと思う。
対話とは何か
そもそも、「対話」とは何だろうか。(「対話」という辞書的な意味を定義したい訳ではなく概念的なズレを考えたいだけだが)
字面どおり捉えれば「向かい合って話すこと」というくらいの意味合いになるのだろうが、その「向かい合う」という境界が人によって大きくかけ離れているのかもしれない。例えば、引用元のエントリにはこう書いてある。
少なくとも個人的な意見は、引用元における「対話」とは大きくかけ離れているようだ。
病院内では、個々の対話においては「否定」を回避しつつ、最終的に、
医療者側の意図を患者さんに納得してもらう、交渉の目的となってくる。
否定しない外来対応 – レジデント初期研修用資料
しかしながら個人的にはこれは「対話」ではない。なぜなら、向かい合っていないと感じるからだ。引用の部分にもあるように、これは「交渉」である。「向かい合う」というのは、それが例え嫌なことでも、辛いことでも、正面から受け止めることをさすというのが、個人的な考え方だ。(例を挙げれば、「病気と向かい合う」など)
代替案・対案を出す責任は誰にあるか
引用元のエントリにはこうある。
やはり夜中に来た患者さんに対して、「今は○○がないので不十分なことしかできません」
という返しかたをすると、「じゃあ○○をこれから用意して下さい」なんて返される。対話においてはだから、常に代替案が用意されなくてはならない。
つまり、「否定」したい側が代替案・対案を出すべきだということだ。エントリの文脈的では、自分が不利にならない為だけであるが、一般的な議論などにおいても、新たに考える余地が発生しやすい。また、「否定する時は対案を」と、よく言われているのを耳にしたことがあるのではなかろうか。
個人的にも、その意見にはある程度賛成だ。ただ、「なるべく出すべき」という意味であって、少なくとも「交渉術として」出すべきだという考えではない。つまり、否定の為の否定をしていないかということが重要であり、異論・反論があるがどうしても対案を出せない、といった場合であれば、その旨を率直に申し出て、自分の意見を表明すべきだろう。それが個人的な「対話」である。
対立を避ける為のウソや態度について
引用元のエントリは、「自己の利益の為の処世術として」という意味合いがあまり隠されていないのでそれほど嫌な感じはしないのだが、中には対立を避けるためのウソや態度を「善」として考え、それを押し付けようとしたり、それだけでなく、「みんなの為に」などとうそぶく輩もいる。勿論同じような考えの人が集まってその中だけでのルールならよいのだが、それが「世間の常識」や「モラル・ルール」といったものを盾にして他人の対立にまで介入してくる人(頼まれてもいない仲介という意味で)もいるので困ったものである。
勿論、暴力的な対立や感情論のみの対立は個人的にも避けたいと思うが、意見の対立や価値観の相違などはどんどん表面化すべきだと考えている。上に挙げたような例の人々にも、対立の全てが不毛なものではないということを知ってもらいたい。
「対話」するつもりならば、相手に辛いことや自分に辛いことでも、「自分の考えや意見を率直に伝える」必要もあるのだ。
コメント
[…] 何だか不快に思う、少なくともいい気分ではないといった解釈をするということだ。こないだのエントリ のコメントにおいても、そのように(やや無理やり?)解釈できるモノがあった。 Coffe […]