「妬み」や「不快」などの感情を表明する行為について - suVeneのアレ

「妬み」や「不快」などの感情を表明する行為について

ところてん – 日記/2009年01月11日/AmachangのAdWordsについて はてなブックマーク数

とういう記事に関連する話。

とはいっても、「金儲け云々に対する正当性」に関する価値観について論じるつもりは一切無く、「その価値観を表明するときの言動」について考えたいと思う。

引用元記事の概要とその反応

引用元の記事の概要は
  • 個人(id:amachang)が広告を利用して自サイトの宣伝をした。
  • 引用元の著者なんだか不快とコメントした。
  • 不快の理由を知りたいと広告を出した個人からコメント。
  • その回答。
という感じである。そしてその回答の内容は
  • 無料ゲームで例えると、プロゲーマーと趣味のゲーマーみたいな感じ(理屈では正等な行為だと認識しているが、感情的に「チート」」のようなイメージ。
  • 引用元の著者は「ブログをクリーンなイメージ」で、考えている。(金儲けは不浄なイメージ)
  • 不公平的(に感じる)。
後の詳細は、引用元のブログを見てもらうとして、大雑把に言うとこんな感じだ。そして、このエントリに対する反応はかなり反発や理解できないといった類のものが多く感じる。

個人的な解釈

多くの反発はあるものの、個人的にはこの著者が言いたいロジックはわからなくもない(但し、心情的な同意はできない)。人は誰しも、どのように表出するか(またはしないか)の差はあるものの、「嫉妬」「妬み」の感情を持つものだと思っている。多くの反応のなかで「理解できない」という意見があるが、それは「金儲けに対する判断基準」に対して理解できないという意味であって、「嫉妬」「妬み」の感情自体を否定する人は少ないのではないだろうか。(いや、実際は知らんけど)
そして「嫉妬」「妬み」、そしてそこから感じる「不快」さを感じた場合、多くの人はそのまま黙っている気がする。それが「大人」の態度なのかもしれない。確かにあちらこちらで「嫉妬」「妬み」「不快」さを喚きまくられては、立ち行かない場面も多くあるだろうから、それも仕方の無いことだろう。

不快の表明について

ただ、個人的にはそのように押し黙られるよりは、「不快」な感情を直接的に訴えられるか、もしくは率直に表明されるほうが好ましいと考える。勿論、今回の記事のように反発は多くあるだろうが、それでも「その人がどのように考えているか」を知る手がかりになるし、より多くの価値観や考え方に触れる機会が増える事も好ましい。そのためには、自分にとって理解不能な価値観による意見でも、馬鹿にしたり、幼稚な意見だとして扱わないように心がけたいと考える。(多くの反発の意見が著者を馬鹿にしているだとか幼稚な意見として取り扱っているとは考えていない)
従って、
satomisatromi ↓全く持ってその通り、ただの妬み僻みだね。嫌儲とか言う前に、こんなこと書いたら自分がどれだけ悪く見られるか考えなかったのかな? 2009/01/11

はてなブックマーク – satromiのブックマーク – 2009年1月11日 はてなブックマーク数

という意見などは、個人的な反応からは尤も程遠い意見である。“自分がどれだけ悪くみられるかを考えたほうがよい” 要するに、“世間の空気”や“常識的な判断”を読んで、悪くみられそうならば黙っているほうがマシという意見は、弱小な意見を押し殺しかねないと考える。(もしかすると「黙ってる方がマシ」ではなく純粋に「悪く見られるか考えなかったか?」という疑問の可能性もあるが、文脈的にそうではないと判断した)
ただの妬み僻みで十分なのである(あくまで個人的に)。但し、「不快を表明するほうがマシ」とはいっても、以下のような条件付である。
  • 「不快」な感情や「嫉妬・妬み」を「絶対的に正当な意見」として耳を貸さない態度ではないこと。
この一点に尽きる。(単に思い浮かばなかっただけだが)

不毛な争いを避ける

これは、「不快の表明」に限った話ではないのだが、話し合うつもりの無い主張と争うというのは、避けたいところである。特にネガティブな感情を正当性に置き換えた言動と争うのは、その主張自体が否定されてしまうと主張している人自体が持つネガティブな感情も受け入れなければならないことになるので、どのような理由であれこちらの言い分を聞かないことが多いだろう。そうなれば、そこからは単なるパワーゲームとなり、「勝者と敗者」が生まれるのみである。(別にそれはそれでよいのだが、個人的に避けたいという話)

まとめ

という訳で、繰返しにはなるが、今回引用したエントリの内容について、エントリの著者の態度は(このエントリに限って)好ましいと判断したという話であり、まったくもって理解不能な価値観に遭遇した時でも、相手に話し合う余地がある限りは、なるべく話を聞いてみたいと思った次第である。
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コメント

  1. 客観性 より:

    知っているつもりにならないように、日々邁進いたします・・。

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