この様な価値観を持つ人は結構多い気がする。
例えば過去に教師や親からの躾として、とても違和感を覚えている言葉がある。
「他人の嫌がる事をしてはいけない」※ 追記1
これはとても不思議だったし、今でも不思議である。
もちろん、生物学的に、あるいは本能的に嫌がる事をするのはしてはいけないと思う。(脅迫であるとか、傷害であるとか)
ただ、この言葉はとても拡大解釈されて「これが正義」と言わんばかりの勢いで、印籠のように振りかざす人間がいるわけだ。
* 他人の嫌がる事が分かるのか?
はっきり言えば、分かるはずがない。
相手が「嫌だ」と言葉にしたり、態度に示していたりすれば別だが、人間には原則としてテレパシーはない。
親しい仲であれば、好き嫌いを察する事が出来るかもしれないが、他人の好き嫌いなど事前に分かるはずもないし、ましてやネット上の交流などが発生してきている現在においては、ことさら困難である。
* この言葉が出る背景
上記までのことは、大体の人が理解できるだろう。
それを踏まえて「他者が嫌だとアピールしているのに、それをする人間に対して言う言葉だ」と言うかもしれない。
だが、この言葉を言う人に多く(と感じる)、問題だと感じるところは
「自分と被害者(嫌な事をされていると主張する側)の「嫌な事」に対する価値観が同じで、それが一般常識(あるいはマナー)」
だと考えるところにある。
そして、大抵の場合この時の「害を加えているとされる側」の「嫌な事」は無視される傾向にある。
たまたま「被害者と主張する側」の「嫌な事」だと感じる事と、自分が「嫌な事」と感じるという事が一致したというだけなのに、「自分が嫌な事は他人も嫌なはず⇒一般常識」へと転化し絶対視する。
価値観が異なるのは当然のことで、だからこそ言葉による対話が必要なのだと思うのだが、前回の記事でも書いたように、絶対視された価値観以外は「悪」だという事になるので、「人格攻撃」になりやすい。
これが、生徒間の価値観の対立による争いの仲介に教師が入った場合や、兄弟喧嘩の仲介に親が入った時にこれをされると、自分より上の立場から「お前は人の嫌がる事をする最低の人間だ」という烙印を押され、加害を加えたとされたほうは、とても不条理な思いをする。
諍いが起こるという事は、双方言い分があるはずなのに、教師や親 一方的に頭ごなしに押さえつけられ裁かれるというわけだ。
そこに疑問を感じずに育った人間が、同じように他者を裁くようになるのだろうか?
* 自分の価値観を絶対視しないという事
これは自分自身も気をつけようと思っていることなのだが、自分の価値観を一般化して常識やマナーとして絶対視しないという事だ。
自己と他者(又は世間)とを同一視し、自分が考える事は常識的であると判断してしまうと、異論に対しての柔軟性がなくなってしまう。
まぁ、この記事に書いてある事が何のことだか分からない人に、そのような傾向があるから難しいのだけれど。
追記: 2006/10/19 18:00
あまり記事の本質ではないが、ブクマコメントでも指摘されているように、「自分の嫌な事を他人に~」のほうが多いのかもしれない。
(本文中では、そのように言っているが)
その前提として、「自分がされて嫌な事は他人も嫌だろう(可能性が高い)」という推論があると思う。
自戒として行動しているうちは良いが、「自分が嫌な事⇒世間(常識・マナー)として嫌な事」に転化・同化するのが問題だという話。
「自分は嫌だが、他人はどうだろうか?」の問いが欠落するという事。
次の例は飛躍しすぎな面もあるが、例えば他者から嫌だなと思う事をされた時に
「私(自己)は自分がされて嫌な事を我慢しているのに、何故あなたは私にそんな事するんだ!」(他者の「嫌だと思う事」を分けて考えない)
という事であり、仲介者が片方の嫌がる事の価値観を一般化し常識として裁いてしまうという問題点を述べている。
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言い回しは沢山あるので参考程度にしかならないが、どちらにしろ記事が言わんとしている事にあまり関連ない。
コメント
もっとわかりやすくh
>えしあ
オレオレルールを相手に「これが一般常識です!」と求めるなということだ。
少なくとも私は,
自分がされて嫌なことを他人にするな
と教えられたことしかありません
> papaopaoさん、通りすがりさん
ご指摘有難うございます。
追記しましたので是非。
通りすがりさんの表現でいうと。
自分は「議論を嫌気がさしたからといって結論出さずに途中で放り出されること」が嫌だから、他人にそういうことをしちゃいけないんだなぁ。
だとすると「放棄したいです」という空気読んでやめちゃったら、その躾に反しちゃうのか。
「自分の望むことを他人にせよ=自分の望まないことは他人にするな」は「自分にして欲しいこと=必ず良いこと」なのか?という問題。
http://zeromemory.sblo.jp/article/1486309.html 自分のエントリに付けられた、はてブのコメントを見ていて、suVeneさんが、利他的行動(利益の分かち合い)という方向性が納得できない、とかかれているのを発見。 正直、「じゃあ納得するように説明しましょう」と言えるほ
オンラインゲームやってみてくださいよ。条件は、外国人が日本人と同数くらいいるサーバで、盗みやpkのあるっていうゲーム。このエントリの意見が変わらないことを期待してます。
自己と他者を同化する価値観(追記1)
何故自己と他者を同化するのかと言えば、恐らくシンプルだからです。
他人の気持ちなんて本当は判らない → その通り
正しいことはきちんと考えて検証しないと判らない → その通り
オンラインゲームやってましたよ。
PKしまくって周りから反感買いまくってましたがw
「PKは他人の迷惑になるので、やめてください!最低限のマナーです!」
って言う人は沢山いましたが、とりあえずPKしときました。
そういうゲームなので。
「外国人が日本人と同数くらいいるサーバ」ってのは、WoWとかになるのかな?UO?
『このエントリの意見が変わらないことを期待してます』
ってのは、同数くらいいたらどのようになるとお考えなのか、参考までに聞かせていただきたいです。
Trick or Treat! 20
くー@ あはーん(*^-^* 915 流石に綺麗やね>Vista とりあえず、しなくてはならないことがたくさんあるのですけども(*^-^* 思っていたより軽くて安心しました、見違えたね、OS(^-^…
私的には、大いに賛同する意見です。
自分の常識を一般常識果ては不変常識とまで拡大認識し、マナーをルール(自分が守るのだから相手も守らなくてはいけない)と混同している御仁は端から見る分には愉快なのですが、付き合うには疲れますね。
また、自と他の考えが同じであると考えると、「言わずもがなで理解してくれる」と勝手な期待を持つ人もいて困りものです。
自分の考えは大切ですが、相手の考えを尊重した上で違いを知り、損害を受けないよう折り合いをつけるのが大切ですね。
自分がされていやなことは概ね他人もいやだろうと考えて行動すると他人にいやな思いをさせるリスクをマネジメントし易いという事かと。絶対を求めても詮無いことです。
自分に厳しく相手に甘くという標語を意識しながら、いろんな経験を通していろんな価値観の例を自分の中にストックしていく、というのが、処世術とかテクニックとしては有効でしょうね。
裁判官的に人を裁く判断が必要になる場合もありますけど、その場合も経験知(値?)から判断するしか無いように思います。場合わけの少ない、単純で普遍的な法則に添加するのは難しい問題なのではないでしょうか。
なさけはたにんのためならず
最初にこの言葉が言われたのはやはり、「自分が嫌な事は他人も嫌な可能性が高い」というハイコンテクストな状態だったのだと思います。この言葉を完全に否定している訳でもないので。
ただ、絶対視するのはよくないなぁという自戒です。
まあ、毎回自問してるわけにはいかんので、
「自分がされていやなことは概ね他人もいやだろうと考えて行動すると
他人にいやな思いをさせるリスクをマネジメントし易いという事かと。
絶対を求めても詮無いことです。」
これが現実的な落とし所ってとこじゃないですかね。
で、「ハイコンテクスト」って何。
「ハイコンテクスト」ってのは、共有する背景・文脈が多いってか、相手と情報のやり取りの中で言語だけじゃなく、見えない背後の情報の共有率が高いって感じ。
まぁ、現実的なリスクマネジメントの軽減としての手段ってのはわかるんだけどね。
それによってはじき出される側の不満ってとこか。
「他人からされて嫌なことは、ほかのだれにもしないようにしなさい」は、golden ruleと呼ばれていまして、多くの宗教に類似した言葉が見られます。
たとえば、以下の英語サイトは、世界の21の宗教について、golden ruleを比較検討したものです。
http://www.religioustolerance.org/reciproc.htm
宗教の教えが絶対ではありませんが、多くの宗教で類似の発想が出て来ており、それが長らく引き継がれているという背景があるのです。
「他人が嫌がることをしない」と「他人からされて嫌なことは、ほかのだれにもしない」では意味が異なります。
他人が嫌なことは分かりません。しかし、自分が嫌なことは分かります。そして自分の経験からしか、他者への想像力も働きません。ですから自分が嫌な目にあったら、人には同じようなことをしないでおこう。
そういう本来の意味でとらえれば、言葉自体に問題はないと思います。
問題があるとすれば、それが使われる文脈でしょう。
golden rule というのは興味深い言葉です。知りませんでした。
現在に比べて情報の交流の範囲が著しく狭かったり、物理的な行動の制約が大きい場合、共有する価値観の幅が大きく、相手の権利を侵害しないためには合理的な判断なのかもしれませんね。逆に、宗教の律法として記すことで、その価値観の競合が起こるリスクを下げるという効果もあるのかもしれません。
他者が何を嫌がるかというのは、自分が嫌なことから推測・想像するというのは当然の事でそれは理解しています。私が批判するのは、その推測・想像していることが外れているとは一切思わず相手に押し付けてしまうような事がある場合ですね。
まさにいしださんが仰るように、文脈によります。自省の為の「自分が嫌な目にあったら、人には同じようなことをしないでおこう」というのはまだしも、「私が嫌だから、あなたも嫌なはずだ」(なのに何故私に嫌な事をするのか?) に転化してしまうのはどうかなと思う次第です。