“「うわべだけ規則に従って、規則違反はコッソリやるべし」という規律は、「健全な社会」にとって極めて重要である。(炎上と、のメンツを立てること) - 草日記”を読んで - suVeneのアレ

“「うわべだけ規則に従って、規則違反はコッソリやるべし」という規律は、「健全な社会」にとって極めて重要である。(炎上と、<他者>のメンツを立てること) – 草日記”を読んで

視点としては面白いのだが、「私たち」という単語の元に、「大して悪くない(と、筆者が思う)こと」を目の前でやられると、「メンツが立たない」という一方向の視点としているところが、どうも納得できない。

<たいして悪くないけど悪いこと>がコッソリ行なわれているうちは、私たちはそれを黙認しうる。だが、それが大っぴらに行なわれれば、私たちはそれを見過ごすわけには行かない。メンツを潰されてはたまらない。

「うわべだけ規則に従って、規則違反はコッソリやるべし」という規律は、「健全な社会」にとって極めて重要である。(炎上と、<他者>のメンツを立てること) – 草日記 はてなブックマーク数

まず、「コッソリ行う」事についてだが、これは<大して悪くない悪いこと>か<とても悪いこと>かという判断以前に、目の前で行われなければ、その価値判断は行われない(行いようがない)ので、その裁断者(裁定者?審判者?)からすれば存在しないようなものである。(仮に、目に付く場所ではあるが申し訳なさそうな態度などを「コッソリ」と呼ぶのであるとしても、「黙認」するか「批判・糾弾」するかは、まさに多様なので『私たちはそれを黙認しうる』は微妙)
次に、目の前でルール違反が行われた場合、それが<大して悪くない悪いこと>と判断する A と、<とても悪いこと>と判断する B がいる事が無視されて、「私たち」は<大して悪くない悪いこと>を「メンツ」の為に当惑することになっている。

確かに、「メンツ」の為に、批判しなければならないことはあるだろう。
ただ、ネット上を含めた観測内における微罪を探し出しては群がって叩いている人達がいるとするならば、果たしてその人達のメンツというのは、一体何に対するメンツだろうかと考えたとき、全てを「メンツ」で考えるのは無理がある。これは、人の内面の話なので、想像でしかないのだが、ほかにも以下のような理由があるのではないか。

  • 批判者は、<大して悪くない悪いこと>とは思わず、<とても悪いこと>だという価値観の持ち主で、批判せずにいられない。(喫煙問題とか、エスカレーター追い越しとか)
  • 批判者は、立場上批判する役割をおっている。(警官の目の前で信号無視とか、教師の前で私語だとか)(これは「メンツ」に近いともいえるか。ただ、最適解と判断する「役割的」な行動ともいえる)
  • 批判者は、相手がルール違反をしていることを大義名分に、誰かを批判することを目的としている。(憂さ晴らしとか?)
  • 批判者は、炎上のような騒ぎに便乗して祭り騒ぎにのっている。

これで全ての例が挙がっているわけでは当然ない。要するに、様々な判断の元に批判しうる理由があるわけだが、そこを「私たちはコッソリ行われているうちは良いが、大っぴらに行なわれれば見過ごせない」と括られることに違和感があるわけだ。

ただまぁ、最後のくくりにおいて

インターネットの普及が、「うわべ」と「コッソリ」の間を、パブリックとプライベートの境目を、奇妙な形に捻じ曲げてしまった。炎上は、この捩れがもたらす混乱として在る。
…… 中略 ……
おそらく、公共空間というものについて、よく考える必要がある。

「うわべだけ規則に従って、規則違反はコッソリやるべし」という規律は、「健全な社会」にとって極めて重要である。(炎上と、<他者>のメンツを立てること) – 草日記 はてなブックマーク数

とあるので、メインはこちらなのだろう。確かに、情報伝達とその記憶・検索において加速度的に移り行く現代において、「公共空間」について考える必要があるというのは、同意できる。

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