事実は事実として認識していくしかないという話 - suVeneのアレ

事実は事実として認識していくしかないという話

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http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2008/0303001019.php

を読んで。
書いてある内容は、私個人が感じる事実にかなり近いという意味で正しいと思った。

引用元の話は、「他人の好意や愛情を信じ、助けを請う人、またそれが許されている人というのは、自分も他人に対する手助けを惜しまない人」の、具体的例などについてと、そうでないタイプ(他人にリソースを裂くことを何らかの理由でしない(できない)人)の対比や「感情の共有」についてなどである。主に後者について説明を割いている感じだ。

前者については、とりあえず置いておくとして、後者についての分析を少し長いが引用してみよう。

これが、ポジティブな感情は全然表現しないのに、ネガティブな気持ちだけ表に出すような人だったらどうなるかというと。「いつも不機嫌そうな人」、「常に怒りと憎悪のオーラをまき散らしている人」ということになる。
本人的には機嫌の良いときも、誰かに大好きと言いたいときももちろんあるわけだが、その気持ちを全然表に出さないので、結局のところ他人には伝わっていない。たいていいつも仏頂面である。あるいは、そう見える。
こういう人の周りには当然、人は集まってこない。いつも不満そうな顔をしているだけで、楽しい気持ちにさせてくれることが皆無な人間なんて、誰だって近づきたくないに決まっているからだ。
かくしてこういう人は、感情を受け止めて甘えさせてくれる友人にも恵まれず、さらに世の中への怒りや恨みを増幅させるネガティブスパイラルにハマっていくわけである。
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ポジティブな感情を表現しない(できない)人は、ネガティブな気持ちも表現しない(できない)タイプが多いのではないか?とも思ったが、それはともかく、引用元にあるような態度では、おのずと人が離れていくというのは容易に理解できる。「共感」などを与えたり、与えられたりするようなこともなく、下手すれば不平・不満な雰囲気が伝播してきそうな人に近づいていくというのは、一般的に考えて少ないのは当然のことである。
「触らぬ神に祟りなし」といったところか。

続いて、そのような人が起こす反応の一例として、以下のような例を挙げている。

さらに不可解なことに、こういう人は、人の悩みを聞いて優しい言葉をかける人たちのことを、「偽善者だ」と糾弾する。
「共感するふりなんか誰にでもできる。俺は(私は)正直で純粋だから、そんな狡猾なやりかたで他人の気を惹きたくないだけだ」と叫ぶ。見せかけの優しさに騙されて恋愛したり友情を育んだりする奴らはバカだ、とさえ見下すのだ。
要するに、人に優しくできない俺は自分に正直で不器用なだけだから、それを理解しろ、理解して、「純粋な俺様」を好きになれ、というわけである。
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本当に、「不可解」だと思っているのかどうかは、全体的な分析を読んでいて、ある程度予測しているのではないかと感じるのだが、そこは大した問題じゃないか。それと、特に言及はされていないが、このような主張は、実は後者だけではなく、前者の中にも自分自身を含めて「偽善かどうか」を問う態度としてあるとは思うが、それも別の話だな。

個人的には、この引用の中の主張は、「優しい言葉をかける中に潜む「自己愛」や「正義の普遍化」」に対する無自覚さへの批判という意味において、それほど否定的でもないのだが、その後の、「それとは打って変わって、私は不器用で正直だから……」という主張をする者がいるとすれば、そこには批判的な意見を持たざるを得ない。(同じ論理に陥ってしまっているから)

ところがそう主張する本人は、といえば。「今まで辛かったんだね」と、涙目で優しいことを言ってくれるような異性や友人を、人一倍求めているのだ。
かれらの論理でいけば、「甘えるな。私はあんたのママじゃない」と突き放す人こそ、その場しのぎの優しい言葉でごまかしたりしない、「真に正直な人」ということになるはずなのだが、なぜかそういう人間はお気に召さないようなのである。
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実はそうでないタイプのほうが思い浮かぶので、この部分はいささか疑問ではあるのだが、引用元の文章は、それ以外のタイプについて言及していないので、しょうがないか。

長々と引用と感想を書いてきたが、このような状況において、私自身がどのように考えるかという意味において、以下の部分が全くその通りであると考えた。

そんな性格になってしまった経緯については、各々の事情があるのは当然であり、わたし自身も、ここまでひねくれるにあたっては幼少期からの体験の蓄積があるわけだが、どんな個人的事情があろうが赤の他人様にはまったくの「無関係」なので、「事情を考慮して優しくして欲しい」と期待するのも、当然ながらお門違いの甘えである。
「関係がある」状態にしたいのなら、自分で濃密な人間関係を構築するしか方法がないのだ。
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まさに、この部分に尽きる。
これ以上補足することはないし、削る部分もない。

引用ばかりで、付け加える主張もほとんどない、面白みのないエントリになってしまったが、もう少し感じた部分を書き出してみよう。

この引用元のような、「他者の自己愛や偽善について批判しながら、自らの自己愛や承認欲求について省みない人」や、「自らのコミュ能力のなさを正当化する為に他者を攻撃する人」に当てはまる人、あるいはそのような主張に対する批判的視点は、とても同意できるのは今まで述べたとおりだが、それよりも問題だと思うことがある。(「それよりも」というのは、個人的な問題意識として)

それは、「他者に優しく出来ないのも、善意ある行動が出来ないのも、コミュ能力が低いのも、自分が悪からなんだ」と原因を自分に求めてしまう、自己否定的なスパイラルに陥るタイプのことである。いや、ルサンチマン的な行動として、今までの引用のような言動をとる人も含まれる可能性があるが、そうではなく、もっと不可視な人に対する問題である。
だからといって、そういう人たちを「救いたい」というのは語弊があり、そもそも「救うこと」など他者には出来ないのではあるが、その手助け程度でもできればなぁ、と「自分の都合で」そう思う。

最後に、勘違いしないで頂きたいのだが(しないか)、引用もとのエントリでは、「生まれ持った資質としての、コミュニケーションや「感情の共感」を善しとする感覚のなさ」を批判しているわけではない。どちらかといえば、「そういう自分の資質を自覚していくしかない」というスタンスであると解釈している。

コメント欄まで含めて、よいエントリだと思ったので、少しでも興味のある人は、是非コメント欄まで含めて読んでいただきたい文章だった。

参考エントリ

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