りんごの実とムラ - suVeneのアレ

りんごの実とムラ

 このムラには大きなりんごの木が幾つもある。このムラのりんごの実はとても栄養が豊富で、一生食べても飽きない味だと思われていて、そのりんごの実と水さえあれば生きていける。
 このムラには大きなみかんの木も幾つかある。このムラのみかんの実はそこそこ栄養があるのだが、味がそんなにおいしくないと思われているので、このムラではみかんは食べない。食べてはいけない事はないのだが、みんな食べない。

 このムラでは、りんごを食べるのが当たり前であり、このムラのムラビトはみんなりんごが好きだと思っていて、りんごが嫌いだなんてとんでもない話だと思われる。それでも極々たまにりんごが嫌いな人もいる。しかし、このムラではりんごを食べるのが当たり前であり、りんごを食べなくては生きていけないので、頑張ってりんごを少しだけ食べて、後はみかんを隠れるように食べる。

ある時りんごが大好きなムラビトは、そんなみかんを食べているムラビトを見つけてこう言う。
 「りんごを食べればいいのに」
りんごが嫌いなムラビトはこう言う。
 「そうだね。りんごを食べればよいね」

 何故なら、りんごが嫌いというのは常識はずれであり、みんながりんごを食べているのでそれに抗おうとはしない。そして、りんごが嫌いなムラビトは((りんごが嫌いな自分が悪いんだ))と思い込み、頑張って嫌いなりんごを食べては隠れるようにみかんを食べる。
 りんごが嫌いなムラビトはいつも周りに気を使っている。何故なら、親からは「りんごを食べなくてはいけません」と躾けられ、周りの人からは「何故りんごを食べないのだろう。この子はどこかおかしいのではないか」という目で見られ、友達と食べに出かけた時も「何でおまえはりんご食べないの?皆で食事に来ているのだから食べなよ」と言われてきたからだ。

 そんなムラにも流石にりんごが嫌いなムラビトは他にも数人いて、その人たちは周りの「りんご食え」攻撃に嫌気が差し、反発するようになり、みかんが好きなものどうし、堂々とみかんを食べて暮らしている人たちがいる。そしていつも「りんごが好きだなんて馬鹿だ」「りんごなんて人間の食うものではない」と口にする。多くのムラビトは、その集団を奇異の目で見ていて、お互い対立している。そんなみかん好きなムラビトの一人が、隠れてみかんを食べてるムラビトを見つけてはこう言う。
 「りんごなんて食べなくていい。みかんを食べても生きていけるんだ。そして共にりんご好きと戦おう」

 ある日、旅人が訪れた。その旅人は歓迎され、食事に招かれた。勿論りんごのフルコース。旅人はこれはとてもおいしいりんごだと喜んで食べていたが、ふと気づくと何だかとても苦労してりんごを食べている人を見つけた。そして旅人はこう言った。
 「君はりんごが嫌いなのだろう。このムラにはみかんもあるし、みかんを食べればいいのに」
りんごが嫌いなムラビトはそれを聞いて怒り出す。
 「りんごが嫌いだなんて言わないでください!りんごが嫌いだなんてとんでもない!」
周りのムラビトもこう言う。
 「そうなんです。この子ちょっと変わってるんですよ。でも、本当はりんご好きのいい子なんです」

 次の日旅人は、みかん好きの集団にも歓迎され、食事に招かれた。勿論みかんのフルコース。旅人はこれはとてもおいしいみかんだと喜んで食べていて、ふと昨日のことを思い出してこう言った。
 「このムラは、りんごもおいしいけれど、みかんもおいしいねぇ」
それを聞いた、みかん好きの人は怒り出す。
 「りんごなんておいしくも何ともない!なのに、このムラではりんごが好きじゃないというだけで変人扱いだ!」
旅人は思った。
 「別にりんごが嫌いでもかまわないし、みかんが嫌いでもかまわないのに。りんごが好きな人はりんごを食べればいいし、みかんが好きな人はみかんを食べればいいのになぁ」

 このムラではりんごが好きでないといけない。りんごが嫌いなものはそれを隠して生きていくか、りんごが好きなものと戦いながらみかんを食べてい生きていくかするのだ。それがどんなに外部から見て馬鹿らしくても。

 そして何より、このムラでは旅人は生きていけない。りんご好きにはムラの皆がいて、みかん好きには小数ながらみかん好きの仲間がいるが、旅人には誰もいない。誰にも相手をされない旅人は、旅に出るか死ぬしかないのだから。

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コメント

  1. sulfurous より:

    私はりんご好きの前では「りんご好きだよ」と言い
    みかん好きの前では「みかんの方が好きだよ」と言い

    最終的に旅人にならざるを得ないタイプ。

  2. りんご至上主義(体制とその中での抑圧)。それに反発した少数派のみかん至上主義(抑圧の可視化)。お互い相容れない主義同士の対立(抑圧への対抗)。どちらの主義にも属さず自由な価値観を持つがその代わり孤独な旅人。
    自分はこの物語をこう解釈しましたが、この時点ですでに誤読でしょうか?

    その中で自分はどの村(価値観)に住むのか、住まないのか。旅人になるのか。それは自分で選択できることなのでは?と思いました。

    「このムラではりんごが好きでないといけない。りんごが嫌いなものはそれを隠して生きていくか、りんごが好きなものと戦いながらみかんを食べてい生きていくかするのだ。」

    自分にとっての「ムラ」とは選択可能なコミュニティ(価値観を同じにする共同体)のイメージでした。
    りんごもみかんもバナナもパイナップルも好きだって大声で言える、自分にとって居心地のいい村を探せばいいのに。と。
    ただそれをするには捨てるものもあるかもしれない。その覚悟の上で取捨選択、という言葉を使いました。

    ああ、もしかして「ムラ」のとらえ方からして違うのかもしれませんね。
    suVeneさんはこの話における「ムラ」をどうお考えなのですか?

  3. ああそうか。自分が言ってることは「旅人」になるのかもしれないですね。
    体制と抑圧からの自己解放。その代わりに保護はなくなり失うものも大きい=生きていけない。

    自分はそれでも生きていけるんじゃないかなぁ。旅人同士で集まれば。って思いました。

  4. suVene より:

    この物語は自分にとってもデリケートな話なので、一気に説明しにくいのですが laddertothemoon さんへの質問も交えて答えてみようと思います。

    > りんご至上主義(体制とその中での抑圧)。それに反発した少数派のみかん至上主義(抑圧の可視化)。お互い相容れない主義同士の対立(抑圧への対抗)。どちらの主義にも属さず自由な価値観を持つがその代わり孤独な旅人。自分はこの物語をこう解釈しましたが、この時点ですでに誤読でしょうか?

    誤読ではありません。表面上は全くそういう一面もある物語です(「至上主義」とまで断定すると少し誇張になってしまいますが。「りんごが好き」というのは、どちらかと言えば、その文化の中で培われた価値観や常識といった意味合いが強いです)。ただそれは例えば、様々な社会様式と愛情とその葛藤をテーマとする(旧家の長男と許婚と家柄などない娘などが出てきそうな)物語に対して、「好きな人と結婚すればよいのに」という意味で全くもってその通りだという意味です。完璧な個人主義において合理的選択をするならば、「住む村は自分で決めればいいのに」というのは全く的を射た感想でしょう。要するに「ビックリした」のは、伝えたかった内在するテーマが微塵も伝わらなかったことです。

    テーマを説明する前に、二つほど質問があるのですが
    ・ 「住む村は自分で決めればよい」「旅人になるという選択もまた然り」というのは、この物語の誰に向けてのメッセージですか。(想定していなかった可能性もありますが、少し考えて頂ければ幸いです)
    ・ 「それは自分で選択できることなのでは?」「自分にとって居心地のいい村を探せばいいのに」とありますが、個人の選択は常に自分自身からも自由であると考えますか。

    質問は以上です。
     最後に「この物語におけるムラ」に対する質問に返信しますと、ムラとは個人が育つ土壌となる文化であり、その過程で出会う数少ない人々の集合体であり、他者に対するじぶん・じぶんに対する他者である、というような意味合いです。「ムラ社会」といわれる意味の「ムラ」とは、少々異なります。laddertothemoon さんは「コミュニティ」という言葉で説明しようとしていますが、その「コミュニティ」が存在する母体の文化や価値観と考えたほうがしっくり来るかもしれません。ただ、当然育った環境以外の「ムラ」も幾つも存在しますし、育ったムラを捨てて他のムラへ移動することも可能ではあります。

  5. まずは返答を。

    ・誰に向けてのメッセージか。

    意識していませんでしたが、考えてみれば
    「りんごが好きではないのに我慢して好きなふりをしている村人」「りんごは嫌いだけど戦いたいとも思ってないかもしれない村人」「行き場のない孤独な旅人」
    「不本意・つらい・イヤだ」と思いながら生きている人、に向けたんだと思います。

    ・個人の選択は常に自分自身からも自由であると考えるか。

    「自分自身からも自由」の言葉の意図するところがよくわかりませんので答えになるか不明ですが。
    自分は、個人の意思に反する外部諸事情の中においても、それでもなお、個人の選択は個人の意思に基づいたものであると考えます。
    ただ、その状況においてどういう選択肢が存在するのか、その知識が少ない~または全く無い状態(「選択できる」という発想すらない状態)はその限りではありません。

    自分はこれは前の記事「抑圧と弱者について考える」の続きというか関連なんだな、と思いました。
    そして自分がこの物語を読んで感じたのはまるで世界はこのムラしかないかのような閉塞感。唯一自由になれる旅人は孤独に旅に出るか死ぬしかない。
    この視野の狭さはなんだ。どこに救いがあるんだ、と。

    ただsuVeneさんの返答から推測するに、これは前の記事での
    「問題なのは、その共同体が抑圧されている者にとって唯一無二であったり、その共同体から他の共同体へ移る為のコストが非常に高い場合である。」
    の場合のお話なのかな、と気がつきました。

    と、ひとまずここまででsuVeneさんの返答を待ちます。

  6. suVene より:

    すいません。返信もかねて記事にしてしまいました。
    http://zeromemory.sblo.jp/article/3253019.html

    よろしければお付き合いください。面倒なら当然スルー頂いてかまいません。

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