「釣り」についての個人的な態度など
ウェブ上の文章などを読んでいて、あまり一般的ではない、どちらかといえば過激な言葉使いの文章があったりすると、その反応でよくみうけられるのが、「はいはい、釣り釣り」というような反応がある。
というか、俺自身も「これは釣りだろう」という反応をすることがあるわけだ。
じゃぁ、俺はどんな時に「釣り」というのかと考えてみたところ
- 明らかに間違った(と俺が判断・解釈する)前提のもとで大袈裟な極論を展開している時
などが多いようだ。
実際本気でその著者がその論を主張している場合に対する、揶揄的な意味合いを持つタグ付けな場合もある。
本来俺が期待する「釣り」というのは、過剰反応を期待したツッコミどころ満載の文章の中にも、実はロジック的な解答が忍ばせてあったり、叙述トリックであったりというミステリ小説的な何かや、どこかに笑いやユーモアなどがあったりして欲しいと思うのだが、それは著者の意図によるのだろうから、あくまで期待でしかない。
それはともかく、「釣り」という行為と、「その内容」というのは分けて考えるべきだとも思う。(俺内ルール)
というのも、著者の意図が「釣り」かどうかに関わらず、読み手(つまり、俺)が何故「釣り」と解釈したかには何らかの根拠があるはずで、それは明確に意識しなければならない。(これも俺内ルール)
従って、気になる文章がある場合「ネタ」か「マジ」かはともかく、先に「その内容」について考える訳だ。
これは特に俺にとって順序が大切で、「内容」を吟味してからの→「釣り」判断という手順を踏みたいものである。
間違っても、最初から「釣り」扱いして、内容をまじめに読まない聞かないなどの態度はとりたくない。
その他の「釣り」という反応に対する疑問など
あまりに過激な文章などで騒ぎが大きくなりすぎると、はなから「ネタとして」というよりも「嘲笑の対象として」騒ぎにのっかってくる人もでてくるようになる。
これはまぁ、炎上した場合などに、単純に意見の割れかたが「大勢vs少数」になった場合の、“そう見えてしまう”的要素もあるので、本当にそうなのかどうかは注意しなければならない。
もう一つ気になる反応として「ネタなのか?マジなのか?」を最初に気するパターンだ。先ほども述べたように、俺にとっては「内容→判断」という順序が大切で、その順序と逆だからという意味で気になっていた。
幾つか理由は考えられるのだが、最初はコストの問題かと思っていた。つまり、「本気で思ってない内容に対して、一々まともに取り合う労力の無駄を省く」という意味で。しかし、そうではない理由も存在するようだ。
それはつまり、ネタにマジレスかっこ悪いというような、ネタをネタと見抜けず空回りしてしまうのを避ける為だということらしい。
この観点は俺には希釈希薄だったので、なるほどと思った。(大抵ネタにマジレスしちゃってカコワルイ奴だから)
そろそろまとめ
まぁ、「釣りだ釣りだ」という反応に対することを少し考えてみたのだが、他にも色々な考えがあったりするのだろう。
それでも俺は、ウェブ上においては、「ネタにマジレス」を繰り返していくのだろうと思う。
何故ならそれは俺にとって大切な順序であり、その手順をないがしろにするくらいならば、その手順を踏んでネタをネタと見抜けなかった場合に笑われたほうがまだマシだからだ。(実は、相手の内面を測ったり、本気度を担保したりする労力がメンドウだという理由もあったりするのだが)
補足というか追記
でも、注目を集めたり注意をひく為に、意図して過激な言葉を選択しているのでなければ、なるべく過激な言葉や極論は避けたほうが無難なことが多いだろう。でないと、よほど中身に説得力がなければ、はなから「釣リ」扱いされて相手にされない危険性もあるわけだから。
コメント
あなたの読解がわたしの真意、神のネタには全力マジレス
muse-A-muse 2ndさんが「善悪の彼岸 (飽き味?)」で「人に感謝しない者は、神にも感謝しない」についてこう書いてくれています。
まず最初にishさんのエントリを誤解してるように受け…