普段あなたは、「生きる」ことの意味についてどのように考えているだろうか。または、何も考えていないだろうか。「生きる」ことに絶対的な意味などない。もちろん、目的もない。そんなことはアタリマエのことなのだ。
例えばキリスト教などであれば、「神」や「愛」や「最後の審判」のために生きているのだろう。仏教であれば、意味を求めることが既に誤っている。意味や目的というのは、特定の価値観が決定することなので、あくまでも相対的なものだ。
「生きる」というのは、まるで「プロジェクト」のようだ。プロジェクトには、開始(生)と終了(死)がある。制約や前提条件がある。計画され、遂行される。そして何より独自性がある。ただ、「目的」のみが失われている。
普段あなたは、「生きる」ことの、意味や目的についてどのように考えているだろうか。または、何も考えていないだろうか。
「そんなものはなくてよい。今が楽しければ良い」と「アキラメ」がついているあなたは素晴らしい。至極現実的かつ合理的だと思う。考えてもないものはないのだ。そんなものに囚われているくらいならば、いっそ忘れてしまうか諦めてしまうほうが、よほどよい。
「わたしの生きる目的は○○だ」と、自分なりの価値観から「定義付け」ができているあなたは幸せだ。人間という生き物は、ゴールがあって初めてそれまでにやらなければならないことを模索する。自分なりの目的をぜひ達成して欲しいと願う。
では、いずれにもあてはまらないものは?
死ぬまで生きるしかない。それが嫌なら、生きるのをやめるしかない。
ただただ、穴を掘り続けよ。穴を掘ってまた埋めよ。考えるヒマを与えるな。ひたすら行動に明けくれよ。
それが嫌なら……
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