ブログに対する思いは人それぞれである。
その人が何を目的とし、何の為の手段としてブログというツールを使用しているのかは、多種多様であるという事だ。
ブログの目的というのは何かという考察を半年ほど前に書いた事があるが、今回はその中でも「自己表現至上主義」と「馴れ合い至上主義」を取り上げて書いてみようと思う。
*「自己表現至上主義」と「馴れ合い至上主義」の定義
説明するまでもないが、念のため簡単な定義をしておこう。
- 自己表現至上主義とは
- ブログが自己表現の為のツールであると同時に、「ブログで自己表現する事自体」に価値を見出す事
- 自己表現の為以外にブログを使用する事を認めないほど、自己表現至上主義傾向
- 馴れ合い至上主義とは
- 書く内容や自己表現より、他人と繋がる事に価値を見出す事
- 繋がりを重視するあまり、会話の流れを分断するような指摘などを認めないほど馴れ合い至上主義傾向
完全にどちらかの至上主義な人はなかなか居ないし、他の目的を兼ねて持つ人がほとんどなので、傾向としての定義とする。
* すれ違う文化
この二つの文化がすれ違いを生んでいると感じるのは、Yahoo! での記事転載機能においてだ。
まず、転載機能の主な批判として「転載機能の危険性(主に善意の転写)」「文責のなさ」「チェーン化」「二次転写・三次転写を禁止する矛盾」などがある。
そして、それと同時に「転載は自己表現とは言えないのでその価値を認めない」という主張する人が、自己表現至上型の傾向があると言える。
勿論、相手の価値観を認めないのは自由だし、個人の意思を表明するのも自由だが、そこで「すれ違い」だなぁと感じる。
何故ならば、転載を繰り返す人の中の傾向として「馴れ合い至上主義型」の人が多く含まれていると感じるからだ。
(感覚になるが、コメント欄などで「転載します」「これはひどいですね」「これはいい記事ですね」という一言のコメントが目立ち、中身よりもメッセージを残し互いに評価する事(評価される事)によって、繋がりを持とうとしているように見える)
この推測が正しいとすると、「自分の言葉で表現する事に意味がある」というメッセージの表明は、共感できる人には伝わりやすいが、「馴れ合い」を目的とする人々にはほとんど通じない。面白い記事や動画などを共有して繋がれるのに、「自分で書いた文章」を用意する必要性は少ないからだ。お笑いを楽しむのに自分で漫才をする人が少ないように。
もう少し言うと「どんなお笑いが好きか」という事でもって、ある意味「自己表現」しているとも言える。趣味や嗜好、コレクションの開示と似たようなモノである。「文章でもって表現する事」が大事かどうかは二の次になりやすい。
* 自分の言葉で語らない事に対する苛立ち
自己表現至上型とは少し異なるのだが、「努力推奨型」という価値観もある。
要するに「ボタン一つで転載していたら、力が身につかないので下手でもいいから自分の力でやったほうがいい」という価値観だ。これも、先ほどのすれ違いと同様に、相手には届かない文章である。
それは、相手が「努力をしない」とか「文章が読めない」という事を言っているのではなく、ブログに対する目的がそもそも違うからだ。
ブログ以外の場所だと、馴れ合い型の人も理解の為に多大な努力をしているかもしれないし、していないかもしれないが、その事はあまり関係ない。あくまでブログに対する価値観の話である。
俺はこの「努力推奨型」にはかなり疑問がある。
「目的によっては」簡単にできるなら簡単にすればいいし、ボタン一つで済むのならばそれに越したことはない。
(「目的がすれ違っている事」を意識していないから相手に理解する努力を促すのか、手作業でないと意味がないと思っているのかは定かではないが)
その簡単な動作によって、外部に不都合や迷惑が起こる(または因果がある)のならば、それは指摘すべきだろうけど。
* まとめ
前回の記事では、相手の価値観を否定しても水掛け論になりやすいという意見だが、今回のはそもそもすれ違っているという話だ。
前回の記事のコメントで
『モノゴトは、「動機」などどーでもいいよ、行動とその結果だけが大事なんだ、という話』
『「自己満足」とか「偽善」とか言って相手を非難すると、ものすごくつまらない話になる』
というのがあったが、「内面を否定するな」という事ではない。
あくまで、(簡単ではないが)検証可能である外面的な話と、思想や価値観が絡む内面的な話を切り分けて考えた方がよいという事だ。(俺もよく混同するが)
* 最後に
個人的には、「自己表現至上型」の人が頑張って主張する事により、共感者が増える事は好ましい。
何故なら、そのほうが面白いブログが沢山読めるから。
俺は人の反応や考えを見たり聞いたりする事が好きだが、大勢の人と馴れ合うのは嫌いというよりめんどくさい。
ただ、世の中を見渡してみると「馴れ合い」を良しとする文化の方が多数だと思う。
別にそれは悪い事だとは思わないし、あまり関係のない話なのだが、ネットの世界にもその波が押し寄せてきているのだなぁとは感じるのである。
携帯文化があって助かったといえば助かっているのかもしれない。
* 関連記事
suVeneのあれ: 何故 blog を書くのか その1
suVeneのあれ: 「善意」を「偽善」であると否定しても水掛け論
suVeneのあれ: ブログに対する自己表現至上主義と馴れ合い至上主義 – 補足と反応
コメント
Blogに求めるもの
ブログに対する自己表現至上主義と馴れ合い至上主義
なるほど! ととても参考になる内容でした。いや、実際に人のBlogを見て、これって何が楽しくて作ってるのか? 何が楽しくて来てるのだろうか? と思うところが幾つもあるんで??
[ネット]ブログに対する自己表現至上主義と馴れ合い至上主義 – suVeneのあれ(from 白い戯言)
私は別に主義という程のものは無いよ主義、ぐらいかね。自己表現する事自体に楽しみを見出してはいるし、それが基本ではあるけれど、至上主義ではないね。他人と繋がる事にも喜びを感じるけれど、馴れ合い至上主義でもない。 転載問題で思うのは「人の物を盗るな、ボケ
偏りすぎないと、創造できないものってのがあるよね。
だから、全員が個人の中でバランスとろうとすると、この世は俄然つまらなくなるね。
複数の突き抜けた人間が、集合としてバランスとるのが最強。そう思うでしょ?
当然ありますね。
エリート意識は嫌いですが、エリートは嫌いではないです。
思考のモノサシ (同化/異化)
世の中の思考様式を「同化/異化」の傾向で2つに分けてみる。馴れ合い至上主義/自己表現至上主義、ムラ/モヒカン、ごあいさつ文化圏/言及リンク文化圏、