「私はそうは思いません」
という一文を、文脈を無視して切り出した時、あなたはこれを「否定」と捉えるだろうか。
勿論、文法的には Don’t であり否定であることはわかりきった問題なのだが、個人的にはこの一文のみを切り出した場合、「否定」の意味よりも、何か「異論」があるのだと解釈する。異論といってしまうと堅苦しいが、「私は別の意見だなぁ」くらいの感じだろうか。しかしながら、
「そうは思わない」=「同意できない」=「否定」=「対立」
という概念を直結して解釈する人というのは意外に多い。会話の内容が同一価値判断上における排中律な関係にある場合は、もっともな考え方だが、日常的会話においても同意を得られないだけで、何だか不快に思う、少なくともいい気分ではないといった解釈をするということだ。こないだのエントリ のコメントにおいても、そのように(やや無理やり?)解釈できるモノがあった。
CoffeeSugar 2009/01/16
はてなブックマーク – 対立を避けることが至上命題の人々 – suVeneのアレ 
「率直であること」が至上命題でないことには、個人的には同意する。注目すべき点は「対立を避ける」と「率直である」を対比させた形でコメントされているところだろう。(こないだのエントリ で引用したエントリや内容については、「相手の意見に No をいう」という意味合いが強い部分もあるので、今回の話に当てはまらない箇所もあるが)
id:CoffeeSugar さんの意見がおかしいというわけではなく、この考え方が日常的・一般的会話にもよくみられるのではないか、ということだ。
何故同意が得られないと嫌な気分になるのか
「否定」或いは「同意しない」ことの表明における嫌悪感や不快感などのエントリは、今までに何度か書いてきているので、今回は「何故嫌な気分」になるのか、を書こう。
と、思ったのだが、それも過去のエントリを読み返してみると同じようなこと書いているので補足というか追記してみよう。
単純に言えば、「相手に自分の意見が尊重されていない」と感じるのではないかということだ。つまり、自分の意見を否定するという言動の中に、人の意見をさえぎり「俺(私)の場合は」と、我が我が精神をむき出しにして、他人の意見には一つも耳を貸さない人物像をイメージするのではないかということだ。(当たり前だが全員そう思ってるはずなどとは考えてない)
そのように、常に自分本位の人間に対して不快感を抱くという理由ならば理解できるので、「そうは思わない」という意見に対して不快感を持つ人の気持ちもロジック的に理解できる。
どのように伝えればよいか
では、そのようなイメージを持つ人々に対して、「私はそうは思わない」を伝えたい場合、どのようにすればよいか。まぁ、無理して伝えなくてもよいのだけれど、なんやらかんやらでそのような状況がきた場合、どのようにするのか、だ。それは、、、
どうすればいい?
関連エントリ
思想・心理・議論・対話
コミュニケーション
先生と生徒、先輩と後輩、親と子、などなど。人間関係には「教える立場」と「教わる立場」という状態がしばしば発生する。
その関係には「与えるもの」と「与えられるもの」という前提があるので、前者に力関係が寄りがちになる。故に、「教わる側」の人間がそれ相応の報酬を支払わなければ、「教える側」の人間は、より一層威圧的な態度をとることがある。これが、対等な友人関係等の「教える側」「教わる側」という一時的な関係ならば、持ちつ持たれつの場合が多いので、さほど威圧的な態度を取るものは少ないだろうが、もう少し疎な関係になると(ネット上における交流なども一部含む)、そのような例を顕著に見られることが多い。
「教えてあげる」から「教えてあげてる」への転化
例を挙げると、最初に「困っている」という人がいて「(解決方法などを)教えてあげる」と名乗りをあげたものがいるとする。前者を Q、後者を A とするならば、A は自分の知識を与える見返りとして、何らかを要求するだろう。これは、最初は対等な立場故に、交換によってその状態を保とうとするある意味わかりやすい思考だと思う。
そしてその見返りとは、相手からの「尊敬」や「名声」或いは「金品」といった直接的な見返りの場合もあれば、「自己満足」や「相手と知識が共有することで自分にも利益がある」場合などの間接的な見返りなどがあるだろう。
間接的な見返りの(割合が高い)場合は、相手の態度に関係なく、自分自身でが納得して終了することが多い。しかし、A が直接的な見返りを求めて「教える側」にたった時、Q が A の望むような見返りをしなければ、その時点で A からの視点で Q との関係は対等ではなくなり、Q に対して「与えているのに、受取っていない」というある意味勘違い的な不公平感がつのってくる。そしてその感覚は、「教えてあげる」から「教えてあげてる」に転化し、最終的には押し付けがましく威圧的になるのである。
見返りのギャップ
上の例で、Q が初めに「教えて欲しい」と頼み A に教えを請い、その結果としての態度が「教えてもらって当然」のようなものならば、Q の態度もある程度仕方がないと見るものも少なくないだろう。しかし、Q は「「困っている」事実は伝えたが、「教えてくれ」とは頼んでいない」という認識にある場合、A の態度は「押し付けがましいただの教えたがり」に見えるだろう。そして、A が Q に教えたことで自己満足して終了ならまだしも、直接的な見返りを要求してくるならば、Q にとって A は押し売り以外の何者でもない。(寒いなぁといってたらコートを着せられ金品を要求されるようなものだ)
常識を盾にとる
この押し売りのタチが悪いところは、「教わった側が迷惑を感じている」という事実が一般的に伝わりにくいところだろうか。
- 教えてもらってるのになんだその態度は。
- 教えてくれる人がいるだけ幸せ。
- 君のためを思って指摘しているのに。
などといった、「迷惑を感じている」こととはかけ離れた主張を持って周囲を取り入れやすく、また、そのように悪気もなく考えるものも多い(あくまで個人的な感覚としてというのはいうまでもないが)。
同じような状況として
- チェックする側とチェックされる側
- 監視する側と監視される側
などもある。
これらの状況は元からの力関係に起因する役割分担の場合も多いが、平等な立場からの役割分担でも同じように「役割分担からの勘違い」がうまれやすい。有名な話では、「囚人と看守の実験」のような部類の話である。
気をつけて何とかなるような話かどうかはわからないが、気には止めておきたい事柄だ。
思想・心理・議論・対話
コミュニケーション
日本人論にするつもりはないが、自分が見聞きする範囲内において、「対立をできる限り避ける」という事をかなり優先度の高い命題として扱う人が多いように思う。考えてみればその人達にとっては当然の話なのかもしれない。例え、自分の意見や内心は異なる主義・主張があったとしても、その主義主張が通った時のメリットと、押し通した結果うまれる対立によるコストやデメリットをバランスしてみれば、あえて主義・主張を押し通すことはないという結論が導きだされるのだろう。いわゆる、波風立てないうまいやり方というやつだ。以下のエントリにもそのような内容が記述されている。
否定しない外来対応 – レジデント初期研修用資料 
概要は
- 医師は患者との「対話」において、それを否定して「対立」を発生させてはいけない。
- 理由は患者が「否定」を認めることは少なく、医師は「否定」し続けるしかないから。
- ゆえに、対案と譲歩を駆け引きしながら患者の「納得」を目指すべき。
- 対案を出して患者側が「否定」をすれば、その分医師の責任は軽くなる。
- 以上ができないならば、「負け」を認めて、少なくとも患者に「対案」を出させてはならない。
といった感じである。スタンダードな駆け引きであり、大抵の場合においてうまくいきそうな処世術だと思う。
対話とは何か
そもそも、「対話」とは何だろうか。(「対話」という辞書的な意味を定義したい訳ではなく概念的なズレを考えたいだけだが)
字面どおり捉えれば「向かい合って話すこと」というくらいの意味合いになるのだろうが、その「向かい合う」という境界が人によって大きくかけ離れているのかもしれない。例えば、引用元のエントリにはこう書いてある。
少なくとも個人的な意見は、引用元における「対話」とは大きくかけ離れているようだ。
病院内では、個々の対話においては「否定」を回避しつつ、最終的に、
医療者側の意図を患者さんに納得してもらう、交渉の目的となってくる。
否定しない外来対応 – レジデント初期研修用資料 
しかしながら個人的にはこれは「対話」ではない。なぜなら、向かい合っていないと感じるからだ。引用の部分にもあるように、これは「交渉」である。「向かい合う」というのは、それが例え嫌なことでも、辛いことでも、正面から受け止めることをさすというのが、個人的な考え方だ。(例を挙げれば、「病気と向かい合う」など)
代替案・対案を出す責任は誰にあるか
引用元のエントリにはこうある。
やはり夜中に来た患者さんに対して、「今は○○がないので不十分なことしかできません」
という返しかたをすると、「じゃあ○○をこれから用意して下さい」なんて返される。
対話においてはだから、常に代替案が用意されなくてはならない。
否定しない外来対応 – レジデント初期研修用資料 
つまり、「否定」したい側が代替案・対案を出すべきだということだ。エントリの文脈的では、自分が不利にならない為だけであるが、一般的な議論などにおいても、新たに考える余地が発生しやすい。また、「否定する時は対案を」と、よく言われているのを耳にしたことがあるのではなかろうか。
個人的にも、その意見にはある程度賛成だ。ただ、「なるべく出すべき」という意味であって、少なくとも「交渉術として」出すべきだという考えではない。つまり、否定の為の否定をしていないかということが重要であり、異論・反論があるがどうしても対案を出せない、といった場合であれば、その旨を率直に申し出て、自分の意見を表明すべきだろう。それが個人的な「対話」である。
対立を避ける為のウソや態度について
引用元のエントリは、「自己の利益の為の処世術として」という意味合いがあまり隠されていないのでそれほど嫌な感じはしないのだが、中には対立を避けるためのウソや態度を「善」として考え、それを押し付けようとしたり、それだけでなく、「みんなの為に」などとうそぶく輩もいる。勿論同じような考えの人が集まってその中だけでのルールならよいのだが、それが「世間の常識」や「モラル・ルール」といったものを盾にして他人の対立にまで介入してくる人(頼まれてもいない仲介という意味で)もいるので困ったものである。
勿論、暴力的な対立や感情論のみの対立は個人的にも避けたいと思うが、意見の対立や価値観の相違などはどんどん表面化すべきだと考えている。上に挙げたような例の人々にも、対立の全てが不毛なものではないということを知ってもらいたい。
「対話」するつもりならば、相手に辛いことや自分に辛いことでも、「自分の考えや意見を率直に伝える」必要もあるのだ。
思想・心理・議論・対話
コミュニケーション
ところてん – 日記/2009年01月11日/AmachangのAdWordsについて
とういう記事に関連する話。
とはいっても、「金儲け云々に対する正当性」に関する価値観について論じるつもりは一切無く、「その価値観を表明するときの言動」について考えたいと思う。
引用元記事の概要とその反応
引用元の記事の概要は
- 個人(id:amachang)が広告を利用して自サイトの宣伝をした。
- 引用元の著者なんだか不快とコメントした。
- 不快の理由を知りたいと広告を出した個人からコメント。
- その回答。
という感じである。そしてその回答の内容は
- 無料ゲームで例えると、プロゲーマーと趣味のゲーマーみたいな感じ(理屈では正等な行為だと認識しているが、感情的に「チート」」のようなイメージ。
- 引用元の著者は「ブログをクリーンなイメージ」で、考えている。(金儲けは不浄なイメージ)
- 不公平的(に感じる)。
後の詳細は、引用元のブログを見てもらうとして、大雑把に言うとこんな感じだ。そして、このエントリに対する反応はかなり反発や理解できないといった類のものが多く感じる。
個人的な解釈
多くの反発はあるものの、個人的にはこの著者が言いたいロジックはわからなくもない(但し、心情的な同意はできない)。人は誰しも、どのように表出するか(またはしないか)の差はあるものの、「嫉妬」「妬み」の感情を持つものだと思っている。多くの反応のなかで「理解できない」という意見があるが、それは「金儲けに対する判断基準」に対して理解できないという意味であって、「嫉妬」「妬み」の感情自体を否定する人は少ないのではないだろうか。(いや、実際は知らんけど)
そして「嫉妬」「妬み」、そしてそこから感じる「不快」さを感じた場合、多くの人はそのまま黙っている気がする。それが「大人」の態度なのかもしれない。確かにあちらこちらで「嫉妬」「妬み」「不快」さを喚きまくられては、立ち行かない場面も多くあるだろうから、それも仕方の無いことだろう。
不快の表明について
ただ、個人的にはそのように押し黙られるよりは、「不快」な感情を直接的に訴えられるか、もしくは率直に表明されるほうが好ましいと考える。勿論、今回の記事のように反発は多くあるだろうが、それでも「その人がどのように考えているか」を知る手がかりになるし、より多くの価値観や考え方に触れる機会が増える事も好ましい。そのためには、自分にとって理解不能な価値観による意見でも、馬鹿にしたり、幼稚な意見だとして扱わないように心がけたいと考える。(多くの反発の意見が著者を馬鹿にしているだとか幼稚な意見として取り扱っているとは考えていない)
従って、

satromi ↓全く持ってその通り、ただの妬み僻みだね。嫌儲とか言う前に、こんなこと書いたら自分がどれだけ悪く見られるか考えなかったのかな? 2009/01/11
はてなブックマーク – satromiのブックマーク – 2009年1月11日 
という意見などは、個人的な反応からは尤も程遠い意見である。“自分がどれだけ悪くみられるかを考えたほうがよい” 要するに、“世間の空気”や“常識的な判断”を読んで、悪くみられそうならば黙っているほうがマシという意見は、弱小な意見を押し殺しかねないと考える。(もしかすると「黙ってる方がマシ」ではなく純粋に「悪く見られるか考えなかったか?」という疑問の可能性もあるが、文脈的にそうではないと判断した)
ただの妬み僻みで十分なのである(あくまで個人的に)。但し、「不快を表明するほうがマシ」とはいっても、以下のような条件付である。
- 「不快」な感情や「嫉妬・妬み」を「絶対的に正当な意見」として耳を貸さない態度ではないこと。
この一点に尽きる。(単に思い浮かばなかっただけだが)
不毛な争いを避ける
これは、「不快の表明」に限った話ではないのだが、話し合うつもりの無い主張と争うというのは、避けたいところである。特にネガティブな感情を正当性に置き換えた言動と争うのは、その主張自体が否定されてしまうと主張している人自体が持つネガティブな感情も受け入れなければならないことになるので、どのような理由であれこちらの言い分を聞かないことが多いだろう。そうなれば、そこからは単なるパワーゲームとなり、「勝者と敗者」が生まれるのみである。(別にそれはそれでよいのだが、個人的に避けたいという話)
まとめ
という訳で、繰返しにはなるが、今回引用したエントリの内容について、エントリの著者の態度は(このエントリに限って)好ましいと判断したという話であり、まったくもって理解不能な価値観に遭遇した時でも、相手に話し合う余地がある限りは、なるべく話を聞いてみたいと思った次第である。
思想・心理・議論・対話
常識
twitterをみていると気になる発言があったのでメモ。
誰かーVimperator2.0の情報まとめてーたすけてー
@anekos プラグイン作った時にさ、ブログに書かないでWikiかはてなキーワードで説明とかして貰いたいんですよね。んで簡単な説明をくわえたそのリンクを、pl ugin_list的なものに加える
説明が重要なんじゃなくてそれをまとめることが重要なのだ。今pluginが一体いくつある。それに伴う設定 項目がいくつある
pluginが100とか越える前に何かすべきだったと思うよ。
俺の意見てかクレームをまとめると、情報を集中させろブログに分散すんな俺が死ぬってことである。
@janus_wel それぞれのブログに説明やら何やらあるとまとめにくいので、プラグインを作った際には説明やら何やらはwiki等に書き、ブログにゃそのwikiへのリンクだけ貼ったほうがみんな後で調べやすい。
hazime1373 さんの twitter より
もっともである。確かに、自分も vimperator を使い始めて間もないが、そのときに plugin の情報がまとまってれば便利だったろうし、各ブログではなく、wiki など一元化されていれば情報収集も早かったろう。現に、自分で plugin を作成する時は、id:teramako さんによる まとめページにはずいぶん助けられた。
しかしながら、自分が plugin を作るうえで、「ブログに書かずに wiki に書くべき」と意見には、個人的には賛同しにくい。理由は幾つかあるが
- 好きで作っている plugin の説明を強制されたくない。(でも、書きたくないというわけでもない)
- はてな記法しらない。(というか、はてな民じゃなくてもキーワード編集できたっけ?)
- plugin のソースの中に usage 含め、ある程度説明を書いてある。
- ソースの中の説明は、pluginManager.js という plugin を入れて :pluginhelp -v XXXX とすることで、ある程度わかるようにしてある。
そんな感じか。
でもまぁ、id: hazime1373 さんの意見には、そこそこ賛成なので、「vimperator plugin まとめ情報」なる場所を id:hazime1373 さん自身がまず用意し、 plugin 利用してみて理解した plugin の概要、設定しなければならない情報、気をつけなければならない点などをまとめてみてはどうか。plugin のまとめ情報を作成するのは、「その作者自身」という決まりはないはず。
そのようなことをしていれば、plugin 作者やその他賛同者により一元化された情報も蓄積されていく可能性もあるのではないかと思う。
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