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「教える立場」と「教わる立場」における勘違い

2009 年 1 月 16 日



先生と生徒、先輩と後輩、親と子、などなど。人間関係には「教える立場」と「教わる立場」という状態がしばしば発生する。

その関係には「与えるもの」と「与えられるもの」という前提があるので、前者に力関係が寄りがちになる。故に、「教わる側」の人間がそれ相応の報酬を支払わなければ、「教える側」の人間は、より一層威圧的な態度をとることがある。これが、対等な友人関係等の「教える側」「教わる側」という一時的な関係ならば、持ちつ持たれつの場合が多いので、さほど威圧的な態度を取るものは少ないだろうが、もう少し疎な関係になると(ネット上における交流なども一部含む)、そのような例を顕著に見られることが多い。

「教えてあげる」から「教えてあげてる」への転化

例を挙げると、最初に「困っている」という人がいて「(解決方法などを)教えてあげる」と名乗りをあげたものがいるとする。前者を Q、後者を A とするならば、A は自分の知識を与える見返りとして、何らかを要求するだろう。これは、最初は対等な立場故に、交換によってその状態を保とうとするある意味わかりやすい思考だと思う。

そしてその見返りとは、相手からの「尊敬」や「名声」或いは「金品」といった直接的な見返りの場合もあれば、「自己満足」や「相手と知識が共有することで自分にも利益がある」場合などの間接的な見返りなどがあるだろう。

間接的な見返りの(割合が高い)場合は、相手の態度に関係なく、自分自身でが納得して終了することが多い。しかし、A が直接的な見返りを求めて「教える側」にたった時、Q が A の望むような見返りをしなければ、その時点で A からの視点で Q との関係は対等ではなくなり、Q に対して「与えているのに、受取っていない」というある意味勘違い的な不公平感がつのってくる。そしてその感覚は、「教えてあげる」から「教えてあげてる」に転化し、最終的には押し付けがましく威圧的になるのである。

見返りのギャップ

上の例で、Q が初めに「教えて欲しい」と頼み A に教えを請い、その結果としての態度が「教えてもらって当然」のようなものならば、Q の態度もある程度仕方がないと見るものも少なくないだろう。しかし、Q は「「困っている」事実は伝えたが、「教えてくれ」とは頼んでいない」という認識にある場合、A の態度は「押し付けがましいただの教えたがり」に見えるだろう。そして、A が Q に教えたことで自己満足して終了ならまだしも、直接的な見返りを要求してくるならば、Q にとって A は押し売り以外の何者でもない。(寒いなぁといってたらコートを着せられ金品を要求されるようなものだ)

常識を盾にとる

この押し売りのタチが悪いところは、「教わった側が迷惑を感じている」という事実が一般的に伝わりにくいところだろうか。

  • 教えてもらってるのになんだその態度は。
  • 教えてくれる人がいるだけ幸せ。
  • 君のためを思って指摘しているのに。

などといった、「迷惑を感じている」こととはかけ離れた主張を持って周囲を取り入れやすく、また、そのように悪気もなく考えるものも多い(あくまで個人的な感覚としてというのはいうまでもないが)。

同じような状況として

  • チェックする側とチェックされる側
  • 監視する側と監視される側

などもある。

これらの状況は元からの力関係に起因する役割分担の場合も多いが、平等な立場からの役割分担でも同じように「役割分担からの勘違い」がうまれやすい。有名な話では、「囚人と看守の実験」のような部類の話である。

気をつけて何とかなるような話かどうかはわからないが、気には止めておきたい事柄だ。

思想・心理・議論・対話

対立を避けることが至上命題の人々

2009 年 1 月 15 日



日本人論にするつもりはないが、自分が見聞きする範囲内において、「対立をできる限り避ける」という事をかなり優先度の高い命題として扱う人が多いように思う。考えてみればその人達にとっては当然の話なのかもしれない。例え、自分の意見や内心は異なる主義・主張があったとしても、その主義主張が通った時のメリットと、押し通した結果うまれる対立によるコストやデメリットをバランスしてみれば、あえて主義・主張を押し通すことはないという結論が導きだされるのだろう。いわゆる、波風立てないうまいやり方というやつだ。以下のエントリにもそのような内容が記述されている。

否定しない外来対応 – レジデント初期研修用資料 はてなブックマーク数

概要は

  • 医師は患者との「対話」において、それを否定して「対立」を発生させてはいけない。
  • 理由は患者が「否定」を認めることは少なく、医師は「否定」し続けるしかないから。
  • ゆえに、対案と譲歩を駆け引きしながら患者の「納得」を目指すべき。
  • 対案を出して患者側が「否定」をすれば、その分医師の責任は軽くなる。
  • 以上ができないならば、「負け」を認めて、少なくとも患者に「対案」を出させてはならない。

といった感じである。スタンダードな駆け引きであり、大抵の場合においてうまくいきそうな処世術だと思う。

対話とは何か

そもそも、「対話」とは何だろうか。(「対話」という辞書的な意味を定義したい訳ではなく概念的なズレを考えたいだけだが)

字面どおり捉えれば「向かい合って話すこと」というくらいの意味合いになるのだろうが、その「向かい合う」という境界が人によって大きくかけ離れているのかもしれない。例えば、引用元のエントリにはこう書いてある。

少なくとも個人的な意見は、引用元における「対話」とは大きくかけ離れているようだ。

病院内では、個々の対話においては「否定」を回避しつつ、最終的に、
医療者側の意図を患者さんに納得してもらう、交渉の目的となってくる。
否定しない外来対応 – レジデント初期研修用資料 はてなブックマーク数

しかしながら個人的にはこれは「対話」ではない。なぜなら、向かい合っていないと感じるからだ。引用の部分にもあるように、これは「交渉」である。「向かい合う」というのは、それが例え嫌なことでも、辛いことでも、正面から受け止めることをさすというのが、個人的な考え方だ。(例を挙げれば、「病気と向かい合う」など)

代替案・対案を出す責任は誰にあるか

引用元のエントリにはこうある。

やはり夜中に来た患者さんに対して、「今は○○がないので不十分なことしかできません」
という返しかたをすると、「じゃあ○○をこれから用意して下さい」なんて返される。

対話においてはだから、常に代替案が用意されなくてはならない。

否定しない外来対応 – レジデント初期研修用資料 はてなブックマーク数

つまり、「否定」したい側が代替案・対案を出すべきだということだ。エントリの文脈的では、自分が不利にならない為だけであるが、一般的な議論などにおいても、新たに考える余地が発生しやすい。また、「否定する時は対案を」と、よく言われているのを耳にしたことがあるのではなかろうか。

個人的にも、その意見にはある程度賛成だ。ただ、「なるべく出すべき」という意味であって、少なくとも「交渉術として」出すべきだという考えではない。つまり、否定の為の否定をしていないかということが重要であり、異論・反論があるがどうしても対案を出せない、といった場合であれば、その旨を率直に申し出て、自分の意見を表明すべきだろう。それが個人的な「対話」である。

対立を避ける為のウソや態度について

引用元のエントリは、「自己の利益の為の処世術として」という意味合いがあまり隠されていないのでそれほど嫌な感じはしないのだが、中には対立を避けるためのウソや態度を「善」として考え、それを押し付けようとしたり、それだけでなく、「みんなの為に」などとうそぶく輩もいる。勿論同じような考えの人が集まってその中だけでのルールならよいのだが、それが「世間の常識」や「モラル・ルール」といったものを盾にして他人の対立にまで介入してくる人(頼まれてもいない仲介という意味で)もいるので困ったものである。

勿論、暴力的な対立や感情論のみの対立は個人的にも避けたいと思うが、意見の対立や価値観の相違などはどんどん表面化すべきだと考えている。上に挙げたような例の人々にも、対立の全てが不毛なものではないということを知ってもらいたい。

「対話」するつもりならば、相手に辛いことや自分に辛いことでも、「自分の考えや意見を率直に伝える」必要もあるのだ。

思想・心理・議論・対話

非合理的だと感じる理由によって従わされる不快感について

2008 年 8 月 17 日



社会生活・集団生活の中では、常に自分の意見が通ることはないというのは、誰しもが納得することだろう。

ただ、その通らない理由が、(主観的な判断で)非合理的な理由、または納得できない理由である場合、人は不快感や屈辱感を味わうことが多いのではなかろうか。というか、そういうものだとして話を進める。

不快感や屈辱感が残るパターンの相手

否定されると怒りだす人

自分の意見が否定・指摘されると、すぐさま怒り出す人というのがいる。大きな声で怒らないとしても、明らかに不快感を表情に出す人などもそれにあたる。自分より気の強い相手や、体力的に強い相手だと、脅迫的な意味で従わざるを得ない部分があるので、どうしても屈辱感が残ることだろう。

話を聞かない人

話を聞かない人の中にも幾つかパターンがあるが、一つは、今まで違う方法でやってきたからという理由で、新しい方法を説明しても取り合わないという、「永遠の昨日」の人。一つは、自分の方法が必ず正しいと思い込んでいて、頭ごなしに相手の主張は間違えていると考えて話を聞かない人。

どちらのパターンにしても、「こちらの方が効率的では?」という提案すら聞いてくれないだけでなく、自分が納得できないまま非合理な方法に従わざるを得なくなったときは、モチベーションも下がるだろう。

これらは、社会的な役割的に同等かそれ以下である場合ならば、抗いようもあるが、自分より上の立場の人間にこれをされると、どうしようもない。

共通するのは

他にも色々なパターンがあるかもしれないが、共通するのは、従わせる相手に対して、理屈ではなく権威や暴力性や政治力などにより、一方的に自分の意見を通そうとするということだ。「この人に任せておけば大丈夫」などといった、ある種のカリスマ性があるならともかく、相手を納得させぬまま何とかその場で自分の意見を通したところで、何らかの遺恨が残ってしまうだろう。

うまくスルーセヨ!

では、これらのような人達と出会った時にどのようにすればよいか。
「スルーセヨ!」というのが、一つの回答なのではあるが、スルーするにも幾つかの方法がある。

精神的なスルー

とは言っても、精神的な耐性というのは、明らかな個人差がある。先天的な性格か環境による性格か考え方かはわからないが、「おおらかな人」というのは、元々精神的なスルーをしている可能性がある。(色々な意味の「おおらかさ」があるが、とりあえず大雑把に括っておく)

逆に、「神経質な人」又は「完ぺき主義な人」「理屈っぽい人」というのは、精神的なスルー力が多分弱い。単純にわかりやすい反応だと、自分が気が強い場合は、相手に納得するまで食って掛かったり、逆に気が弱い場合は、嫌々従わざるを得ないが、最後まで納得できずに抑圧となって、胃に穴が開いたりするだろう。

そのような人に「精神的におおらかになれ」といっても、すぐさま成れる訳でもないし、そもそも、指摘や質問が悪い訳ではないので、「おおらかに」成ることを強制するのも筋違いである。

では、どのようにスルーすればよいのか。

それは、「相手は理屈が通じない(と自分が考える)相手なんだ」という事実を認識して、「相手を理屈で説得しよう」とすることの困難性やコストの高さを踏まえて説得することと、「論じている争点」とは別の観点・方法を考えることと、自分にとってどちらが合理的・効率的かという、ある意味理屈で考えるということだ。

道を歩いていて、大きな岩にぶち当たった時、その岩を動かす為に、ブルドーザを用意したり、人手を集めたりするか、それとも、押してずらそうなどとは考えず、回り道にはなるが、別の道を探して回避するか、という選択肢を考えた場合、コストを考えればどちらが効率的かということを考える訳だ。

まぁ、この方法は結局相手の思うようにさせるという点で癪に障ったり、論じている争点が回避できないほど重要なポイントだったりする時に使えないなどのデメリットはあるが、少し観点を変えてみるというのは、そう悪くない案だと思われる。

物理的なスルー

これはそのままだが、なるべく距離を置けるなら距離を置く方がよいということだ。直属の上司であったり、同じチームの同僚であったり、近所の人であったり、なんだかんだと物理的距離がとりにくい可能性は大いにあるが、なるべく真っ向から相手するのを避けるように気をつけるというのも、精神的自衛の手段の一つだろう。

この方法も、「なんだか逃げている」というような思いに駆られる可能性もあるのだが、リスクを回避したり、遠ざけることは、直接「逃げる」事にはならないし、そもそも「逃げる」事は、考えてるほど悪いことでもないと思う。

最後に

このように、非合理的な理由や納得できない理由を押し付けてくる相手と面と向かうのは、とても疲れるしストレスの溜まることである。ただ、「相手が必ず非合理、或いは納得できない理由を押し付けている!」という思い込みにより、相手の意見を聞かないようなスタンスを取ってしまえば、結局その相手と自分は同じ穴の狢である。

いつだって自分が第三者からみて、「非合理的で納得できない理由を押し付け」ている可能性を無視して、相手を非難していないか気をつける必要はあるのではないか、と思う次第である。



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「共感」とは何か

2008 年 7 月 7 日



普段から俺は、書き手の価値観とは異なる意見を述べても、ネガティブコメントだとは思わないし、否定的意見や批判的意見に関しても同様だ。逆の立場(俺が書き手)だとしても、色んな意見があるんだなぁくらいに思うことが多いはずだ。たぶん。

まぁ、それは置いておくとして、だからといって「共感」がまったく無意味だとか不必要だなどとは考えていない。寧ろ「味方」を増やすためには有効な手段なんだろうと考えているし、「否定」は「敵」を生みやすいというふうにも考えている。そこまで打算的な損得として掘り下げなくとも、普段の交友関係などにおける「共感」はコミュニケーションを円滑にする上でも欠かせないものだろう。

んな訳で、今回は否定的意見や批判的意見や異論・反論の話ではなく、「共感」について考えてみる。まぁ、異論・反論などの二項対立として「共感」を持ってくるところが、水掛け論におけるスパイラル的な部分を補強する結果になるということではあるわけだけれども。

「共感」の定義

文字通りの意味で考えれば
『感情を相手と共にする。相手の状況を理解し同じように感じること』
あたりだろうか。「広辞苑」などによると、
『他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを自分も全く同じように感じたり理解すること。同感。』
ということになるらしい。その他、「同情」や「感情移入」なども大切なキーワードである。

しかし、当たり前のことではあるが、「他人の心と全く同じ」であることを“知る”というのは原理的に不可能であるということは誰しも理解していることだろう。生理的な反応などは“直感”的に相手も同じ感覚・感情だと判断することはあっても、複雑な感情の推移になってくると、「全く同じように共有」することの不可能性は身にしみて“実感”しているのではなかろうか。

だからこそ「共感」の重要性

これは、id:hejihou さんの言葉であるが

id:hejihogu > 分かり合えないと思ってるからこそ、少しでも同じ方向見てたり、部分的でも一致してそうと感じられたら嬉しいんじゃないの

という意見を見て、「なるほど」と思ったことがある。「相手の気持ちがわかる」ことではなく、「相手の気持ちと似たような方向性を持っていること」を感じることが「共感」だということだ。やはり人間というのは原則的に社交的動物なので、何らかの関わり・繋がりを実感すると快感を伴うのかもしれない。

「共感」を「相手への配慮」に摩り替える危険性

このように、「共感」というのは、例え勘違い、又は想像上の産物であると知りつつも尚、相手の状況を理解し、気持ちを想像し、その上で似たような感覚を持つようにするということが必要条件となるわけであるが、あくまでもそれは似たような文化・似たような感受性を持つ場合にのみ有効な訳で、「相手への配慮」がある場合に必ず「共感」する訳ではない、という事を肝に銘じておかなければならない。
その前提を取り違えると、「共感しない人間は相手への配慮が足りない」ということになりやすく、「共感」という実感を伴わない両者によるすれ違いは、互いに互いのことを「相手への配慮がない人間」だと考えてしまうことになるのである。

んな訳で

「共感」というのが大事なのは確かなのだが、それに縛られるあまり自分の意見を言えなくなったり、「共感」することを前提として他者とコミュニケーションを図るというのも本末転倒な話だと思う訳である。安易な「君の気持ちはわかる」という思い込みをするのも危険であり、逆に親身に考えた結果そのように言ってくれる人に対して、「俺の(私の)気持ちなんかわかってたまるか」というのも、「そりゃそうだ」という話なのである。

重要なのは、異論・反論・否定・批判があったとしても、いかに「共感」してくれなかったと(感じた)しても、お互いが何を言おうとしているのか、何を考えたのかという事を、理解しあおうという合意の元で図られるコミュニケーションということなのではなかろうか。
(んなもん「何が重要かは人による!」と言われたら、これまた「そりゃそうだ」って話なんだけれど)



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「否定」に対する嫌悪感について

2008 年 3 月 28 日



suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 はてなブックマーク数
において、「何故ですか?」と問うことが、「否定」的な意味と「質問」としての意味を持つというようなことを書いた。そして、やや意識してではあるが、「否定」的な場合の例を、非難めいた価値観を織り交ぜたものとした。
しかし、本来俺が考える、主張に対する「否定」は、それほど嫌なイメージはない。寧ろ、不特定多数に対する意見を交換できる場所ならば、好ましくあることも多い。

嫌な「否定」と嫌じゃない「否定」

まず、嫌な否定の話。人は何故、主張に対する否定的意見に嫌悪感を持つことがあるのだろうか。

ひとつは、(全人格とは言わないが)自分の価値観の一部である「感受性を否定された」と感じるからではなかろうか。
これは、「ネガティブコメント」などにも絡む問題だとは思うが、「○○だと思う」という主張に対し、「○○ではない」と言われることで、「○○だと思った自分の感受性」(つまり価値観)について否定されたと感じるのではないかということだ。

他にも、感受性に直接絡まない主張などにおいての否定についても、嫌な感じを受けたりすることもあるかもしれない。それは、「頭ごなしの否定」などである。つまり、自分の意見を少しも聞いてもらえずに、「ハイハイ、ダメダメ」のように否定される場合である。

一方、嫌じゃない「否定」というのはどのようなものか。
それは、「私はそうは思わない」というような、「相手の感じ方そのもの」に対する否定ではなく、「相手の感じ方に対して、自分の感じ方との差異における否定」などだ。
以前に、このようなことを書いたことがある。

「好み」に正解も不正解もない。「好み方」への直接の否定は、まさしく価値観の否定である。これは、対立する価値観の表明とは根本的に意味が違うと考えるのだが、どうだろうか。
suVeneのあれ: 共感を求める場で、違った価値観の表明は「思いやりに欠ける」 はてなブックマーク数

この考えは今も尚変わっていない。

他にも色々ありそうだが、一旦この辺で終わりにして、前回のエントリのブクマコメへのレスを。

ブクマコメへのレス

# 2008年03月25日 bobokov コミュニケーション, 考察, 言葉 どっちの「何故」も説明を求めているのは同じだしあまり意識する必要性を感じない。否定を嫌う人は確かにかなり存在するっぽいが、理解に苦しむ。そこからが面白いのに。
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

「説明を求めている」のが共通して、相手もそのように解釈していれば、あまり意識する必要がないと思うのですね。エントリの前者の例は、「お前は間違っている」という意味での否定であり、差異の原因を知りたいが上の否定ではないところがポイントでした。

# 2008年03月25日 julajp あまりに何故を連発されると詰問されているようできつくなったり。何故の前に、自分はこのように感じる、思うのだけれど、などの前置きの元に対比検討確認なんてだと応じ易いかも。
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

同意です。なるべく私も質問の前には、「○○と思うが、何故××ですか?」のように、理解している部分と相違がある部分を明確にするようには気をつけてます。

# 2008年03月25日 ululun 「パタン」と書くのは何故ですか
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

クセです!たまにいるようです。> “パタン” 表記 – Google 検索

2008年03月25日 feather_angel communication 俺も俺も/こちらは相手が理解してくれようがしてくれまいが気にしないんだが、それもダメらしく……
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

何が「俺も俺も」なのかがよくわかりませんでした。「こちらは相手が理解してくれようがしてくれまいが気にしない」というのは、個人的な考えではだいたい逆なので。「質問される側」としてエントリを読んだということかな。私の意図はどちらかといえば「質問する側」として書きました。

# 2008年03月25日 nekora 良く見掛けるが、知ってどうするんだろうとしばしば思う。
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

個人的には、単純に「興味」ですね。自分とは全く違う視点であればあるほど、「何故そのように考えたのか?」というプロセスには興味があります。自分が興味のあるテーマであれば尚更。

2008年03月25日 wacok communication 出来ない人に対してWhy~?と聞いてはいけないと英会話で習ったのだが、そういうことかな?
はてなブックマーク – suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

これは、エントリのテーマとは多少ずれる気もするのですが、確かに、と思いました。出来ない人に出来ない理由を問うことは酷でしょうね。本人にもその理由がわからないことが多いであろうことから。(もしくは分かっていても改善が困難だろうから)

関連エントリ

- suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 はてなブックマーク数
- suVeneのあれ: 好きな対象を否定される時に感じる嫌悪感について(追記) はてなブックマーク数
- suVeneのあれ: 共感を求める場で、違った価値観の表明は「思いやりに欠ける」 はてなブックマーク数



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