ムラ社会、及びムラビトにおける幾つかの勘違い - suVeneのアレ

ムラ社会、及びムラビトにおける幾つかの勘違い

「モヒカン族」に関する言及は最近J-CAST ニュースをキッカケにしていくらか言及される記事を見かけたが(伝言ゲームのように湾曲していっているが)、それに対峙する「ムラ社会」又は「ムラビト」についての言及は“わかりきった事”と思われているのか、さほど目にする機会がない。
しかし、たまに見かける「ムラ社会だなぁ」とか「ムラビト」と指摘されている場面で、「それは違うんじゃないか?」と思うことがたまにあるので、ちょっと考えてみよう。

* ムラ社会の定義
特徴としては「モヒカン族 – ムラ社会」に提示されている特徴がわかりやすいのだが、箇条書きで定義してみよう。

  1. 閉鎖的かつ排他的であること
  2. 伝統主義であること
  3. 結果平等であること
  4. 議論・自己主張・指摘を無条件で悪とし、両成敗・謙遜を無条件で善とすること(指摘=人格攻撃と関連)
  5. 個人の言論・思想よりもムラの掟が重視され言論・思想を弾圧すること(村八分)
  6. (法より情(秘匿・隠匿の勧め))

とりあえず、このあたりがムラビトの特徴とし、集団としてこの性質を持つ社会をムラ社会とする。
(書いてる途中で見つけた「村社会とは何か」のほうが詳しいかも)
とりあえず定義はこの辺で、適宜、訂正・変更・加筆する事としよう。

* たまに見かける間違い
『よく見かける集団を見て「ムラ社会(又はムラビトだなぁ)」という』

まさにムラ社会である。まあブログ論のたぐいばかり書いているせいなのだが……
Discommunicative – いつも同じユーザからブクマされてるような気がする

コレが一番見かける間違い(の場合が多い)なのだが、「よく見かける集団」をみて「ムラ社会」と即断してしまうケースである。
よく見かける集団と言うだけでムラ社会だとすると、世の中にムラ社会でない人間社会や集団(コミュニティ含む)は存在しない。

何故このような間違えが起きやすいのかというと

  • ある一定の人数が集まった集団というのを外部から観測した場合「排他的」に見える事があるから
  • 内部がわからない為、その集団が全て仲良しで馴れ合いしているように映るから

というような理由が考えられる。どちらも事実を確認していなければ、単なる「思い込み」だ。
もちろん人間は動物だから、初対面のものに対しては警戒するし、仲良くなくても顔見知りだった場合はある程度警戒は弱まるのも事実だ。
しかし、その本能的ともいえる反応イコール閉鎖的・排他的と考えるのは短絡に過ぎる。

* 部分を見ればムラ
とは言えども、長年付き合った友達や、気が合う仲間や寄り合いというのが存在したとして、それらが新しい人を迎え入れるというスタンスではないという、ある種排他的な側面があるのは当たり前な事である。何故ならば、その状態である程度満足しており、新しい参入者を増やすコストと、満足度の充足とを天秤にした場合、コストを削減する事のほうが容易いからだ。
そのようなプライベートな(ムラの特徴に一致する)側面を指摘し、その部分を誇張して「ムラ社会だ!前世的だ!」と糾弾するのは愚の骨頂である。
また、プライベートではなくパブリック(社会・企業・学校などの公共性のあるもの)に対しても同じく、「ムラ社会だ!」と糾弾するのはナンセンスである。
何故ならそれは「ムラ=悪」だと頑なに信じる柔軟性の無さの発現であり、単純な二元論による不毛な争いに陥るだけだからだ。

* 簡単なまとめ
先ほども述べたように、不毛な議論のうち「単純な二元論」というモノがあると思っているのだが、ムラ社会に対するそれも含まれる。
ムラにしろモヒカンにしろ、それだけで絶対的な善・悪は無いという事だ。
肝心なのは「ムラ的に運営されている事により、いかにデメリット(リスクや非合理性)があるかを冷静に指摘する事」である。
(それを許さない集団がまたムラ社会なのではあるが)

関連記事
村社会とは何か
モヒカン族 – ムラ社会
馴れ合いとそれ以外を分けるもの ひとりごと/ウェブリブログ
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J-CAST ニュース : 場の空気が読めない 「モヒカン族」

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