件の、あるある捏造(納豆でやせるって放送の資料の幾つかは捏造だったよって話)で、騙された人が多数いて、その人々に対して「騙されるほうがアレだ、プギャーm9(^Д^)」とか、「リテラシーが云々」と高説を垂れる人々を見て思ったことなのだが、個人的には「捏造をしてしまうメディアの体質」や、「そんな事実はないことを理解していて黙っている体質」こそ糾弾すべきであり、「俺(私)は騙されなかったよ、騙されたやつはバカ」ってのはどうかと思うのだが。
とは言いつつ、ネットに距離が近い人だと確かに「納豆でやせるは根拠がない」ってのは結構目にする機会が多かったので、そのようにバカにしたくなるのもわからんでもないのだが、騙された人々ってネットに普段距離が近くない人とかが多いのではないだろうかと推測してみたり。「とにかく痩せたいんだ!」って事で、科学的根拠がないという資料を目にしていても、そこは目を伏せて、いざ捏造が発覚した時に「信じてたのに!」とメディアのせいにする人がいたとすれば、それはひどいと思うがw
まぁ、「今回騙されなかったよ!」「今回騙されたよ!」って感じで、情報に対する真偽も含めたリテラシーを競うゲームをしているのかなと思えば、俺の意見はまったくの見当はずれというか、何言ってんの?って話なのだろうけども。ただ、メディアなんてものは、利益やイデオロギーを広めたりする為に、何らかの事実を隠したり、報道するにしても自分が有利になるような言い回しをするのは当たり前なんだが、その中でも捏造というのは許されるべきではないのであり、その捏造に騙された人を馬鹿にしても意味のないことだなぁ、と。
情報社会の中で「嘘を嘘と見抜けない人」はダメだって目にする事があるんだが、「嘘を嘘と見抜く」ってのは、相手が意図している・していないに限らずそれほど簡単ではない話であり、今回馬鹿にしている人々も、興味が無い話題や不得手な分野だとコロっと騙されたりすることは理解しているんだろう。
自分がたまたま知っていた「嘘の情報」に騙されている人を馬鹿にするってのは、知らず知らずにやってしまう可能性があるので、自戒しとかねばならないなぁ。
今回の話で、「俺のかーちゃんに謝れ!」と言っている人がいて、そのノリのよさと、同じネタにするにしても嘲笑の方向ではなく、センスよいなぁと感じたw
novtan別館 – 信じてもいいんじゃないのニセ科学
日本人に常識は通用しない!捏造あるある大事件!-NO MORE JAPANのブログ:イザ!
◆ 「あるある捏造事件」に、ネットの無力さを思う – ただのにっき (2007-01-21)
NATROMの日記 – あるある大事典捏造 どこからばれたんだろう?
コメント
騙す、騙される
いろいろ云っているが正直素朴に育ったこともあって騙されやすい方だ(と云うか、実際のところ騙されやすい方なのでいろいろ云っていると云う部分もある)。なので、実は今回の納豆騒動に絡んでのsuVeneさんのあるある捏造で騙された人を嘲笑する人を見てと云うエントリの趣旨には非常に納得するのだ。
テレビを積極的に見ないので、情報は主にネットから得ている。ネットではニュースをひとつ見つけると、そこにその情報に対する幾つもの異なった角度からの見方がくっついてきて、結局そのニュースに対する「自分の見方」を考えざるを得なくなる。でも、情報源がテレビしかなかったらどうか。ニュースにしても、複数の放送局の報道の仕方を見比べることの出来る人間は少数だろう(だいたいそんなに暇じゃない)。
そう云う環境に置かれていれば、多分、ぼくは簡単に騙される。いまだって、いろんな人間の好き勝手なものの見方が跳梁跋扈するネットの世界を覗いているからこそ、貧弱な頭に鞭を当てながらなんとか物事を考えよう、と云う気になるのだ。と云うか、ならざるを得ないのだ。
ただ、それでも、騙された人間は大声で嘲笑されるべきだと思う。
ものを考えないことは恥ずかしいことだ、と云う風潮はもっと高まって欲しい。
既得権益が大きく、それを維持しつつさらに収益機会ばかりを伺っているマスメディアは、端的に云って腐敗している(と云うか、これだけの条件が揃えば大抵のものは腐敗するとも思うけれど)。その腐敗した権力にいいように操られることが、酷く恥ずかしいことだ、と云う感覚がもっと一般化してくれるといいな、と思う。
信用と信頼
こんにちは、管理人です。 今日は信用について考えたいと思います…