最近の話だと、「しぬしぬ詐欺」(さくらちゃん臓器移植募金の話)や「ぬれ煎餅話」(資金難で電車の修理代の資金調達の為の話)、ネット上の話で「Yahoo!ブログの転載問題」(今回は自殺予告問題)などに伴って「善意」や「偽善」なども一緒になって記事になっていたりする。
興味があれば、いくらでもそのような記事に出会う事が出来るだろうから、関連記事は下のほうで適当に拾っておくだけとする。
最初に俺の募金や転載に関するスタンスを言っておくと、特定の誰か(何か)を救うための街頭募金などについては、募金する側は自己満足の割合が多いと思っているし、転載問題にしても、リンクで済むところを全文コピーして(Yahoo!内では転載元はデフォルトで許可状態になっているのだが)、同じ内容の記事がいくつも増えるのは無駄だし、邪魔なだけだと思っている。
ただ、今回の記事はそれらの問題点を挙げたいわけではなく、それらの反論記事や批判記事の中に「相手の善意自体を否定する」ものがあるのが気になる。
というのも、実行している相手が「善意」なのか「偽善」なのかは外部からは簡単に判断がつかないというのもあるが、そもそも相手の感情を否定しても問題の解決に繋がらないと思っているからだ。(哲学・思想的に「自己愛」や「善悪」に対して言及したいので、「募金・転載」はどうでもよいのならばそれでもよいが)
「善意の転載問題」に絞って話をすると、個人的には「転載する行為によって自殺を食い止める効果があるとは思えない」という事を論点にしたい訳だが、しばしば目にするのは「善意ではなく自己満足(又は偽善)である」という相手の内部にまで踏み込んで否定しようとする人がいるという事だ。
「善意だけで人は救えない」という問題点は、確かに存在するとは思うのだが、何でも一緒に否定すればよいという話ではない。
もちろん、相手の善意を否定する理由として、転載を実行する側の「善意でやっている行為に批判するなんて、言語道断」という意見が少なからず存在するのも事実である。
その論理に対して反論するには「善意でする行為を批判する事は許されるべき」と言いたくなるのも尤もな話なのだが、やはり「転載で自殺を食い止める効果」と「善意による転載問題」は(関連は深いが)切り分けて考えるべきで、相手の思想対決に応じなければならないという事はない。
他の問題に対する話も、上記のような「行為に対する、結果や手段への批判」と「思想に対する批判」を混同するのはよくない。
感情論vs感情論、思想vs思想、絶対的善悪の判断という内面に伴った議論は水掛け論になる事が多い。
(批判してはいけないのではなく、混同しないほうがいいという話)
(意図して思想対決(又は洗脳対決)に持っていきたいのならば、それはそれで効果的な場合もある)
という訳で、個人的な結論として「事実と行為とその予測される結果」のような外向的な話と、「善悪、偽善、善意、それに伴う人格批判に対する反論」のような内向的な話を相手のペースに従って一緒くたにしてしまうのは双方にとって対決姿勢が強まるだけであり、解決の糸口は掴みにくくなるのではないかという事である。
もちろん、冷静に問題点を指摘したり、影響範囲や結果の予測を立てたりして、淡々と批判している記事や人も多いので、それらの人には関係のない話だが。
追記 2006/11/27 21:05
ekkenさんから「例として挙げられている下方のリンク」と指摘があってから気付いたけど、以下にあるリンクはまとめサイトで検索引っ掛かったやつと、「混同している例」ではなく、この記事を書くときに参考にしたという意味です。(Mugiさんのは切り分けて考えようとしてると読んだ)
FrontPage – 死ぬ死ぬ詐欺 まとめwiki
潮風とロマンのふるさと銚子電気鉄道
ekken♂ : 転載機能によるログの増殖はスパムか否か
L.E.S.S. | ぶっちゃけどうなの、全文転載
ブログがスクラップブックになるとき – sugar pot
Mugi2.0.1 – 自分で書くということ
コメント
はじめまして。興味深く読ませていただきました。
>「行為に対する、結果や手段への批判」と「思想に対する批判」
の混同は避けない限り議論が核心へとは進まないというのは、まさにその通りだと思います。で、今回の転載問題に関しては、「善意」という言葉を転載へと誘導するための手段として用いている点が批判や嫌悪感の原因になっているのではないでしょうか。
そもそも、「善意」という言葉は「あの人の行為は身勝手で迷惑なものであったけれど、善意で(良かれという思い込みの一心で)やった行為であったようにも感じられるし、今回だけは許してやろうよ」みたいに第三者が行為者を仕方なく許す口実として出てくる用法がほとんどなのであって、行為者が自らの行為や他人にさせたいと考えている行為を「善意」によるものと称するという「手段」そのものが非常に胡散臭いことになっているように思えます。
「あなたに善意があるなら」「命を救いたいなら」「困っている人を助けたいと思うなら」というようなニュアンスを含ませた文面というのはチェーンメールの基本ですが、はたしてこれらのニュアンスが含まれない文面であったらメールの連鎖は起こるのかどうかと考えると、今回の転載問題はチェーンメールと同等の「手段」をとったという点が批判の対象になっているような気がします。
そうですね。仰ることはほぼ全面的に同意します。
確かに「手段」や「動機づけ」としての「善意」という言葉は私も胡散臭い気がします。そして、その手段に従わないモノは「善意がない」という論理も気になります。(「善意があるならば転写するはず」という論理) チェーンメールの連鎖に関しても同様の意味で「善意」が使われる事が多いとも思います。
個人的に、思想的に批判すべきだと思っている対象は「善意を口実として行った結果に対する責任をとらない者」と「善意があるならば○○するはず」という思想を持つ者でが、それでも相手の「善意」自体を否定するのは難しいです。私が言えるのは「それによる悪影響」までかなと。
「手段」として「善意」を用いる事に対する批判と、相手の善意自体の批判は別のものであり、前者は行為的、後者は思想的なのだと思います。
そして、私が気になる批判記事も、前者(手段)を批判しようとして、後者(相手の善意(内面))を批判してしまっている(混同している)ように思えるからです。
それとは別に、論点がずれていると思う個所もあるのですが、それは次回以降の entry にでも書こうと思います。
お返事をいただきまして、ありがとうございます。
>相手の「善意」自体を否定するのは難しいです。
「善意に基づく行為」を「良かれという思い込みの一心に基づく行為」の意味としてとらえるならば、行為をする前に自分がしようとしている行為をあらかじめ善意によるものと意識した時点で、もはや「一心性」はくずれてしまうので、それで「善意に基づく転載」の呼びかけに応じて転載をすることは「偽善に基づく転載」なのではないかという疑いが出てきているのかもしれません。
いずれにしても、次回以降のエントリーを楽しみにしています。