ブログに書くという目的の中に、一つは意思の表明というものがあるだろう。
ただ、ふとブログで意思を表明する事が虚しくなる事はないだろうか。
表明する問題が切実であれば切実であるほど。深刻であれば深刻であるほど。
その問題からはあまりにも遠く、あまりに及ばず、あまりに無力である事を実感する事はないだろうか。
俺は議論することは嫌いではないが、どうも虚しくなる話題というものがある。
「中絶問題」「いじめ問題」「募金・寄付」とかその類。
要するに、とてもリアル寄りで深刻な問題であるが、なかなか当事者になりにくい問題。
別に、現場の人間や当事者でないと議論するなといっている訳ではない。
ただ、何て言うか
「それでは、次の社会問題で~す」
ってな感じでメディアや、周りからお題を渡されて
「ハイ!ハイ!ハイ!」
と、小学生のように盛んに手を上げて答えるのはよいのだが、しばらくたつと
「はい、次はいじめ問題で~す」
と移り変わって、また
「ハイ!ハイ!ハイ!」
って、前の問題についての意見交換は一体なんだったんだ?
みたいな。
意見がある事はよいことだと思うし、表明する事も重要だとは思うが、なんか違う気がするのは何故だろう。
まぁ、一つの問題についてとことん考えてる人や団体も勿論いるわけだし、そもそも流行りの話題を目にして読んでいる俺が悪い訳で、気にせず他のブログ読んどきゃいいだけの話なんだけどな。
コメント
[その他言及]ブログは娯楽されど重要な情報源
意見がある事はよいことだと思うし、表明する事も重要だとは思うが、なんか違う気がするのは何故だろう。 suVeneのあれ: リアルとかけ離れた議論 社会の中のWeblog。 主張と表明の違い。現実の行動が伴わない意見は表明に過ぎない、そしてWebでは意見は表明だけに留まる
誰かの魂を揺さぶる
誰かの生き方が変わる
この世が変わる
・切実な問題が一記事で解決されたら神様は要らない。
・いい記事ならわっと広まり、誰かの心に影響を与える可能性がある。少なくとも政治家の言葉よりは誰かに届く。
トップダウンの大声よりもちいさな共感のほうが力を持つのがWeb2.0ではないでしょうかね。
『切実な問題が一記事で解決されたら神様は要らない』 想定する神様にもよりますが。神道における神様の事いってるのかな。
『少なくとも政治家の言葉よりは誰かに届く』 「政治家の言葉」は個人に向けた言葉じゃない事が多いので比較対象にするのはどうかと思うけど。
何だかステレオタイプな意見に見えるけども、「ブログの記事」がより身近に感じる事は確かですね。
この記事に関する考えは、トラックバックいただいてる記事([その他言及]ブログは娯楽されど重要な情報源)がとても納得できた。
たとえどんなに無力で空虚でも、言葉を発することには必ず意味があるし、それを自由に誰にでも伝えることができるのはとても価値あること。
少し前に某氏のサイレントマジョリティメソッドが笑い者になったけど、あれを笑えない飛ばすことができる私達は幸せな世界に生きているのだと思う。
そうですね。言いたい事言える環境ってのは、幸せだとは思います。
少し気になったのですが
『言葉を発することには必ず意味がある』
って例えばどんな意味があるのでしょう。
個人的には「言葉を発する事に意味」というより、「意味を伝える為に言葉を利用」と考えています。
「リアルに結びつかない提供された話題を議論する事の意義」に対する問いかけ??
どんな議論でも、周りの人は議論の質によってその意義を判断するし、主観的な意義付けは、それぞれが勝手にやって自己満足すればいいだけのお話。暇ゆえに生産的でない問題設定をしてしまったのかと邪推したのですが。ブログに対して、(あるいは自分のエントリに対して)過剰な期待を持ちすぎなのではないかと。
とりあえず、質の高い記事を書けばそんな問いかけは不要になりますから、そっち方面に力を割けば。
『主観的な意義付けは、それぞれが勝手にやって自己満足すればいいだけのお話』
それならこのコメント欄にコメントを残すのは何故ですか?自己満足してればよいだけでは。
他人の「主観」を聞いたり、自分の主観による意義付けに疑問をもち問い掛ける事が「非生産的」だとすれば、ブックマークしたり、ブログ書いたり、コメント書いたりするのも似たようなもの。
flandersさんの言うように、「生産的」であり「質の高い記事」が常に書ければ良いのは尤もな事ですけど。
お邪魔します。
そういえば日経パソコンでエコノミストの森
永卓郎氏が、「自分のブログで軍備や格差社
会の是非について、意見の異なる者同士がブロ
グオーナー(森永氏)そっちのけで言い
争って”炎上”している」といった事を書いてい
ました。「軍備や格差社会の是非」は選挙の争
点であって、他人のブログでやり合う事ではな
いと思うのですが。
確かに、管理者を差し置いて議論が白熱する状態はどうかとも思いますが、その管理人がその状態を許しているのなら、愚痴を言ってないで対応するべきだとは思いますね。
軍備を含めた政治、社会問題、生活に関する身近な問題、様々な問題をブログで語ることに意味があるかないかは、flanders さんが言うように個々が意義付けすればよいし、その議論を実生活に活かせればよいのでしょう。
ただ、何となく(flandersさんにいわせれば過度な期待)になるのでしょうけども、机上の空論を抜け出せない、又は「社会問題について考えているポーズ」に見えて虚しさを覚える時があるという事はあります。
それが各々のブログに関してもそうなのですから、他人のブログのコメント欄だとなおさらかもしれませんね。
床屋政談を「生産的でない」とくさしているのではなく、床屋政談の意義を考えることが「生産的でない」と思ったわけです。床屋政談でも、他人のブログへのコメントでも、自分で満足できれば全くOK。満足できなければやめればいいし、それがいやなら、満足できるまで質を高める努力をすればいいのでは、と。
机上の空論にむなしさを覚えたら、果たして意義が有るのかを問うのではなく、もっと勉強or体験・取材したほうがいいと思うし、ポーズに見えるのがいやならば行動するしかないと思うところです。(ウェブ上で寄付を受け付けているところもいろいろあります。お金の貢献は重要だと思います。)
内に向かうよりも、外に向かうほうを期待します。
確かにおっしゃるとおり、「外に向かう議論」と「内に向かう議論」とを分けて外へ向かうほうを「生産的」と考えればその通りですね。
個人的な志向性もありますが、理由付け・動機付けが欲しくなり虚しさを覚えたとしても、「何故か」を問うことはよくあります。
もちろん、無限に考えてもキリが無い問題ですからどこかで折り合いをつけなければなりませんが、自分が一時的にでも納得できる答えが欲しいからでしょう。
それが終わらなければ、勉強できない又は体験・取材できないという訳ではないので、同時に進めていくべきだとも思います。より根拠を持って行動する為の理由が欲しいだけかもしれません。
というように、悲観的な意味だけで問うている訳ではないですが、flandersさんの言っている事も理解できるので、心に留めておこうと思います。