例えば、ひっそりと、死を願うささやきに出会ったとしたら - suVeneのアレ

例えば、ひっそりと、死を願うささやきに出会ったとしたら

例えば。「死にたい」とひっそりとつぶやく、ちかくてとおい友人に、いったいなんと声をかけるべきだろう。「死ぬのがいいよ」か。それとも「死ぬな」か。
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ふとこのようなことを考えていた。

「誰に対して」という部分に非常に左右されるとは思うが、尤も多そうな回答としては、「死ぬな」だと思う。この「死ぬな」は、当然相手のことを考えてということもあるだろうが、<私があなたに死んで欲しくないから>という利己的な理由も多聞に含まれているだろう。

すると今度は、相手がその回等のエゴの部分を受け入れるだけの余裕があるか、又は、かまって欲しい・必要とされたい・承認して欲しいなどの一環としてひっそりと(目に付く場所で)ささやいているかどうか、などが問題となってくる。逆に言えば、そのような応答を最初から求めている、ある意味 “お約束” 的なささやきであるならば、「死ぬな」という答えは適切かもしれない。それがクセになると厄介だが。

しかしそうではなく、それが思いつめた結果のささやきであるならば、さらに難しい。声をかける側が、「生きる」ということを、大前提として考えているならば、先ほどと同じ答えにはなるかもしれないが、そうでないならば「死ぬのがいい」という回答もありえるのではないか。これは「見捨てる」意味での「死ぬがいい」ではなく、その本人の意思を最大限尊重した上での「死ぬのがいい」だ。但しこれは、ささやいた本人の理性や精神状態が適切に判断可能な状態であるかどうかが重要となってくる(死を願う時点で「適切でない」とする考えもあるが)。また、回答の結果だけ見れば「見捨てられる」時の応答と似た部分もあるため注意が必要だろう。

このように、「生死」に関する問題は、ある意味究極的な問題ともいえるので、かるく考えただけでも、色んなパターンが考えられる。個人的には、「気楽に行こう」「大丈夫」という言葉は、あまり安易にかけそうにないが、ささやいた本人にしてみれば、そのように軽くしてくれる言葉の方が助かるということも大いにあるのだろう。

やはり、もしそのような場面に出会ったら、相当悩まざるを得ない。皆さんなら、自分がそのような状況に出会ったとき。又は、ささやく側になった時、どんな言葉をかけ、どんな言葉をかけたもらいたいのだろうか。

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コメント

  1. 會澤 より:

    私だったら、「死なないで欲しい」と言うしかないかなと。
    生死は、人にとって避けられない問題。生まれてきたなら、必ず死ぬ。これは真実でありますし、現実です。
    よく陳腐なテレビドラマで「生んで欲しくておまえらの子供に生まれてきたんじゃない」なんて、ぐれた野郎が曰う場面がありますが至極ごもっとも。人はだれでも生まれてきたくて生まれてきたわけではない。さらにやっかいなことに、心というのを持ち合わせているが故に、自ら死を選択することは「可能」。死を受け入れる受け入れないは、仰るとおりその人の「生に対する実感」と「死に対する実感」を尊重して上げるしかあるまいと思います。それでも、やはり「(私はあなたに)死なないで欲しい」とたぶん言うと思います。

    きれい事ではなく、たとえ見たことがない「誰か」であったとしても、その「誰か」が死ぬことでその死を悲しむ人がきっといると思います。この辺感情になってしまいますけど。

    自分などは鬱で入院している立場でして、死というより「生を感じられなくなる一瞬」を見ています。今では時々になりましたが、以前はかなり頻繁に。人というのは、五感を全て失ったらどうなるんだろう。フッとそんなことを思ったりします。鬱の発作というか、ガクッと落ち込む瞬間。自分が何者で、何をしていて、どこにいて…そういった感覚がぶっ飛ぶことがあります。医師には「頭が真っ白になる」と表現しましたが、薄暮の闇の中で皮膚感覚すら曖昧になっている感覚。言葉で表現するのは難しいのですけど。そういうのを経験してしまうと、「生」「死」は案外近いものに感じてしまって、「死を選択する」ということに以前ほど絶対的に否定できなくなってしまっています。「死ぬな」と断定的に言い切ることは、出来なくなっているんですね。
    個人的には、死ぬことによって初めて曖昧な「生」の状態から脱することが出来る。できるというか、そういう状態になるんだろうなぁと思います。結構誰でも「明日は来る」と簡単にいいますが、本当に来る保証はないわけで自分で死ぬだけでなくとも明日は来ないかもしれない。生きることを大事にしろと口にするのは簡単ですけど、生きることに実感を感じられない人に対して「生」を口にしてもその人にとってより「死」の方が実感を感じられるのなら、その人を説得することは難しいでしょう。「誰か」の生を受け止めて上げることはできません。「誰か」が信心する宗教でもあれば、受け止めて上げることができるかもしれませんが、現代の宗教が「生」「死」の問題を真正面から受け入れていない気がしますので、それも難しいかなと。

    堂々巡りになってしまいますが、結局身を挺して止めて上げる社会的正義に疑問を感じてしまった私としては、感情に訴えるしかないかなと感じますね。簡単に断定できませんが「生」の重さは、時代によって軽くなったり重く感じられたりしますが、実はとっても曖昧なものなのではないか。戦時中なんて「死」の方がきっとリアリティがあったはず。「死」にリアリティがあれば逆に「生」はバーチャルなものに見え、向かっていくこともできたかもしれません。だってそっち(バーチャル)の方が怖くないもの。
    皮肉なことに、平和慣れした日本では、「死」がバーチャルなものになって恐怖感を感じていないのかもしれません。そうかといって「生」にもリアリティを感じられない。

    ごめんなさい、全然結論出ませんけど私はそう思いました。

  2. suVene より:

    貴重なご意見ありがとうございます。
    「死」による、曖昧な「生」から脱するというのは、なるほどと思いました。

    「理屈」により「生死」を説明/説得することは不可能だと個人的にも思うので、やはり、素直に、それがエゴであろうとも「死なないで欲しい」と感情に訴えるのがよいのだろう、と思います。
    当然、その人の「生」に責任が持てる訳ではありませんが、それでも尚、「死ぬな」と言いたいです。

  3. (^^)v3 より:

    (^^)v3: 「生」について、「死」について

    ブログエントリ→コメントのやりとりで、改めて命について考えたことがあった。
    「人は生まれてきたら、人は死ぬ」これは真実だし、今のところどんなに生きても120年が限界ライン??…

  4. […] ブログエントリ→コメントのやりとりで、改めて命について考えたことがあった。 […]

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