「人生の意味」を考える無意味性と理屈と感覚と反応 - suVeneのアレ

「人生の意味」を考える無意味性と理屈と感覚と反応

生きている意味が圧倒的にわからない はてなブックマーク数

と、その反応の

はてなブックマーク – 生きている意味が圧倒的にわからない はてなブックマーク数

を読んで感じたこと等。

1つ目の記事は、よく見かける生きることにおける「虚無感について」というか「無意味さ」について、《理屈》で疑問点などを揚げている文章。それほど長くないので目を通してもらった方が早いかも。

2つ目の記事は、それに対するひとこと反応。

ざっくりみた感じでは(件数を数えた訳ではないが)、

  • 「意味」自体考えることに意味あるの?
  • 「意味」なんてないのだから、今を楽しめばいいじゃない。
  • 「これはひどい」「ネタ」「中二病」などの、あまりまともな意見と取り合わないもの。

というような反応が見受けられる。(あくまで反対意見だけのパターン)

で、なんというか、このような記事に対して、このような反応は、これまたよくあるパターンなのだけれど、それをみていつも思うのは、あくまでズレているのだなぁ、という感覚。

どの辺にズレがあるのかといえば、ひとつは、《感覚》として「意味がなくても今を楽しむ」ことができない(又は問題にしていない)という文章に対して、「今を実感せよ」という、「実感できないことを実感せよ」と迫るナンセンスさや、「意味を定義することの無意味性」は既に《理屈》として理解しているのに、再度それを違う角度から《理屈》として説明したり、「《感覚》として生きよ」という指摘は、それこそ意味をなさないものではないかなぁ、などなど。

簡単に言ってしまえば、「究極的な意味を考えること自体が無意味なので、生きている今を楽もう」という《理屈》と《感覚》が伴っていれば(或いはそういう「価値観」なら)、そもそも1つ目の記事はできない訳で。

んで、ズレだけならまだしも、最後のパターンであげた、「まともに取り合わない」ってのは、読んでて一番残念な気持ちになるというか。(もちろん、異なる価値観を「ひどい」というのも、「ネタ」扱いするのも、原則自由だという前提で)

何故なら、弱っている・苦しんでいる?(ように見える)価値観の内容に対して、その表現をまともに取り合わないというのは、その表現した本人に対して、さらに苦痛を与えるのではないだろうか?と考えてしまうからである。

少なくとも個人的には、異なる価値観や理屈で悩んでる人を見かけたとき、例えその解決方法が自分にとっては当たり前の《理屈》であり《感覚》である内容であったとして、その意見に対してなにかリアクションを取る必要がある場合には、「はなから取り合わない」という言動をとらないように気をつけたいと思う。仮にどうしても「取り合う価値がない」と判断したが、相手が真剣に主張しているのならば、その相手から頼まれない限り「取り合わないことをわざわざ伝える」ことを避けたいところである。

勿論、決定的な矛盾や根拠がない限り、断片的な文章や情報だけでは、「ネタ」か「真剣」かはわからないので、その判断以前の行動として。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。