「弱者」について考える時に陥る罠 - suVeneのアレ

「弱者」について考える時に陥る罠

弱者について – HINAGIKU 『らめぇ』
を読んで思ったことをつらつらと。ちなみに、引用もとのエントリの文脈に添った形ではなく、連想したことを抜き出して書く。

「弱者」或いは、「少数派」を切り捨てずに、対話などを含む何らかの方法でお互いが歩み寄れたらよいなぁとは、常日頃考える。

このような逸脱者が出たとき、「普通の人」は「そういうやつが異常なだけだ」として切り捨てようとする。ぼくは違和感を覚える。異常なひとは救われなくてもいいのだろうか? 救い得ないのだろうか?
…… (略) ……
しかしながら、属人的な要因――精神異常、精神疾患などを抱えた弱者には、一様に冷淡である。
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私も「違和感」とは呼ばないかもしれないが、似たようなポイントで考えることが多い。精神異常や精神疾患などは勿論のこと、その場におけるマジョリティとは違った意見を持つマイノリティに対する、マジョリティ側の(対応というより)反応というのは、一様に冷淡(であるように)見えることが多い。勿論、全てのマイノリティに対して、個々に対応していくなどということは、あらゆる意味でのコスト的に不可能であることは承知しているが、それでも目あまると感じることもある。

特に、マジョリティ側から「認識されているマイノリティ」ではなく、ほとんどの人から「認識されないマイノリティ」における、「味方のいない状態で主張を繰り返すことの虚しさ」については、自分のことにしろ、他人のことにしろ、その不条理さと、どうしようもなさに、打ちのめされそうなほどである。

まぁ、その話は、また別の機会にするとして、引用元のエントリを読んで、ふと自戒の意味も含めて考えたことは、別のことである。というのも、「弱者」の問題は、主張したり耳を傾けるなどをして、双方にとって少しでもよい方向に解決すればよいなぁと考えるのは冒頭に述べたとおりだが、それと同時に、その問題を扱う時(自分にとって)陥りやすい罠もあるという話だ。

それは、相手、或いは「多数派」を普遍的な「強者」だと規定して批判することで、自分の正当性に対し安易な納得を得て満足してしまいがちではないだろうかということである。要するに、自己満足の極みである。(全ての行動が自己満足なんだというのは置いといて)

自分が「弱者側」の立場から物事を主張する時、その主張とは別のところでは、他者から自分を「強者」と規定されている可能性を忘れてはならない。自分にとって相手が「強者」であるのは、ある特定の価値観において、ある特定の場において、ある特定の社会において、ある特定の時系列においてであり、決して「普遍的強者」ではない。そして、同時に自分の立場も「普遍的弱者」ではないということを意識しておかなければならない。

これは、「弱者側」からの主張をするなということではない。「ある特定」を明確に意識し、その範囲内において思うことは存分に主張すべきで、「ある特定」を逸脱するところまで普遍化してはいけないということである。

(改めて述べておくが、引用もとのエントリが普遍化していると言っている訳ではなく、「弱者」の問題を考えるときの自戒の意味を含めて書き起こした文章である)

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