その発言には「悪意がない」という免罪符 - suVeneのアレ

その発言には「悪意がない」という免罪符

 という主張を、意識して利用することがある。
 いや、「悪意がない」ことについて虚偽はないのだが、それでも尚主張せざるを得ない状況というものが個人的にある。

 勿論、「悪意がない」ことで全てが許されるとは思っていない。「相手が悪意を感じた」ことによる責任が発生することもあるだろうし、「傷つけたという事実」が過失に当たる場合もあるだろう。ただ、それに怯えて必要以上に相手を配慮した(かのように見える)発言を俺はしたくない。

 このようなことを書こうと思ったキッカケは、前回id:b_say_soさんとのやり取りに続き、今回id:laddermoonさんとのやり取りがあったからではあるが、この両者だけに向けて書きたい訳ではなく、今までの実体験としての全般的な話として書き記しておこうと思ったからだ。

* どのような時に「悪意がない」ことを主張するのか
 それは、「悪意がない」ときだ。
 もう少し言うと、「悪意がない」のに「悪意を読み取ってかぶせられた」ときであり、「その発言は人としてどうか」と言われるときであり、「言われる側の気持ちを考えろ」と言われるときであり、「相手が落ち込んでしまった」ときであったりする。
 具体的な例を挙げれば、前回の時は「甘え」というキーワードが発端であり、今回の場合は「違います」というのがキーワードである。両者に共通するのは、「そのキーワード=ネガティブなイメージ」であり、「属人(人格)批判」されたと受け取られたということである。
そして俺は毎回弁明する。
「その発言に「悪意はありません」」
と。

* 何故相違が起こるのか
 社会・世間的に見れば「甘え」というキーワードは確かにネガティブなイメージが付いている気がするし、「違います」というのも、何かと提案すれば中身の検討なしに否定してくるような人物を思い浮かべた場合ネガティブなイメージと考えられなくもない。そして、そう受け取る人がいることも知っているし、その解釈自体は否定しない。
 しかし、俺はこの両方のキーワードに対して、あまり「悪いことである」という意識はない(非合理的な場合があるとは思うが)。周囲に対して甘えがあるなと思う時は「甘え」だといい、意見が違っている時は「違います」といい、あっている時は「その通りです」というだけだ。そこに善悪という判断は無いことが多い。
 このように、善悪の判断が、その他大勢の人とずれている為に生じるのではないかと思う。

 あまり関係のない話ではあるが、俺は基本的に好き嫌いの判断はするが、他者の行動に対して善悪の判断というのはしないようにしようにしている(実践できているかどうかはともかく)。俺が絶対悪だと主観的に断定していることは、虐待・陵辱・快楽殺人などの、物理的・精神的強者が弱者に対して、“意識して”行う暴力である。後はなんだろう。まぁ、その話は今回言及するのは拡散するので避ける。

* 解決策はあるか
 あるといえばある。
 例えば、いくら悪意がないとしても、「その発言により相手が傷つく」こと、かつ「相手が言わないで欲しい」と考えていることを理解している場合、記憶している限りにおいてそのような発言を控えるだろう。そう考えれば、普段から他者との会話において「傷つけない可能性が高い言い回し」や、「事実でも口に(文章に)しない」ということで回避することが可能である。要するに、「思ったことを即刻口にする」というのをやめ、「相手がこの発言をしても傷つかないという担保」が取れた場合にのみ、発言するということである。

* 何故そうしないのか
 理由はいくつか考えられる。
 「無駄な諍いを避けよう」と思っていないのかもしれないし、「思ったことを表現したい」という我の強さかもしれないし、「本音と建前」をうまく使い分けることがあらゆる意味で出来ないからかもしれないし、「空気をよまない」からかもしれないし、「自分勝手」だからかもしれない。
 まぁ、総括すると「それ(思ったことを口にする事)が悪いことだと思えない」からだろう。
 そして、この判断がまた「その他大勢の人」とずれているのだろう。「沈黙こそ美徳」だという価値判断はいまだ消えることはない。沈黙とは言わずとも、「思ったことを口にせず」、思慮深く相手の心情を判断した後で口を開くのが良いことだということであろう。そして、それこそが「できた人」であるという。それは同時に「あなたは人としてできてない」という意味になる。

* 無駄な対抗
 なのかも知れない。
 いちいち弁明するのが面倒なこともあるし、教師や目上の人から「人としてうんぬん」と説教くらうと、「あぁ、自分は人としてダメなのか」と思うこともあるし、弁明自体がまた「言い訳がましい」ということになる。悪循環である。
 解決策は簡単なのだ。思ったことを口にせず、傷つけない・角を立てないと確信できた場合にのみ発言する。多くの人が実践していることなのだ。やろうとしてできない訳ではない。ただ、「俺は悪いことをしている訳ではないはずだ」という考えさえ捨てれば。

* これくらいにしておくか
まぁ、このエントリーは愚痴だ。
“おとな”でない“こども”の我侭のようなモノだ。「何で悪いことしてないのに、怒るんだ」と喚いてるだけだ。

愚痴ってしまった、ついでに問うてみたいことがある。
何故、「人として」「~すべきだ」と言うのか。
何故、「男は女に」「女は男に」と言うのか。
何故、一般化して否定しようとするのか。
何故、「あなたがそうして欲しい」と言わないのか。

そしてまた俺は免罪符を振りかざすのだ。
内面的には決して相手を攻撃する為ではなく、自分自身が「人として否定」されない為に。
嫌なやつだと思う人もいるだろう。理解してくれる人もいるかもしれない。

たまには愚痴りたい気分の時もあるっつー話だ。

(エントリーのキッカケとして引き合いに出した両者には申し訳ない。最初に述べた通り、両者を責めている訳ではない。というか、誰を責めている訳でもない。こういう考えもあるんだという話なだけで。これもまた言い訳がましい記述なのだが)

suVeneのあれ: ウェブ上での会話について(id:b_say_soさんの言及に対して綴る)
Ladder to the Moon – 嫌いといわれること

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コメント

  1. メモ より:

    「その他言及]免罪符?

     まぁ、総括すると「それ(思ったことを口にする事)が悪いことだと思えない」からだろう。  そして、この判断がまた「その他大勢の人」とずれているのだろう。「沈黙こそ美徳」だという価値判断はいまだ消えることはない。沈黙とは言わずとも、「思ったことを口にせず」、

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