発言の一意性・連続性や発言した意図を汲み取る為の文脈は大事 - suVeneのアレ

発言の一意性・連続性や発言した意図を汲み取る為の文脈は大事

 こないだの記事は、「人格」なるものを定義しないままに書いたから、かなり誤解・誤読させてしまう記事だった。まぁ、「こいつ何いってんの?」みたいな、相手のツッコミビリティを刺激する隙のある文章のほうが多くの反応が帰ってきておもしろいから、悪い事だとは思わないけど。(それしか書けないくせにという批判は例によって受けつけない!)

 さて、「人格」を定義するのは今は難しいので、言いたかった事に対して誤解を受けているかな?と思う点をいくつか補足するかたちで書いていこう。

* 文脈・過去の発言や反応と人格とは別(と考えている)

ただ思うのは、ある意見・主張があったとき、その記事を読んだだけでは全てを理解できないことが多い、ということ。それが匿名のものだったらそこで諦めるしかないのだけど、過去に関連する記事を書いているのだったら、それらも併せて考えたい。過去に記事を読んだことのある人だったら、その人の価値観の断片でも良いから考慮した上で読みたい(その人の全て/多くを理解できると錯覚するのは危険)
鍵大工学部 – 誰が書いているか・何を書いているか

俺は実名や、ハンドルネーム・ペンネームなどの顕名、が過去にどのような発言を行い、どのような問題に対してどのような反応を示すのかというのは、対話する際には重要視する事が多い。(ここで言う顕名は法律上の顕名とは少し異なり、「その文章を書いたのは誰かを表す記号」のようなニュアンスで使っている。実名でもHNでもかまわないそれは過去のエントリーで書いたことがあるので興味がある人は読んでもらえるとうれしい)

 で、何が言いたいのかというと、例えばブログを読むにあたって、その著者の立場、主義主張、思想を読み取ることは当然の事ながら可能であり、その発言がどういう意図でなされたか、何を発言せずに隠そうとしたか、目的は何か、ということを読み取ったほうがスムーズに話が進む事が多いというのは認識している。ただ、それらを読み取ることと「人格を理解する事」は別物だと思っているということだ(完全には切り離せないが)。他の例を挙げると、とある小説家の価値観や文体を読み取って、その小説家の性格まで想像する人がいるのだなぁという話である。何故別物であると考えるかは、長くなるし面倒なので今回は書かないが、「外面へ(から)の刺激に対する反応」と「内面に持つ思想」は深い関連はあるが、混同すべきでないと考えている。

 その意味で以下のブログも、誤解を与えているかなと思われる。

わたしは、ブログにしても本にしても、面白いと思ったらその人が書いた別のものを読んでみようとします。一度グッと来たものを見つけると、続けざまに他の著作を読破していったりします
「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派

俺も、ある小説や論文がおもしろかったら、その著者の過去の作品などを読破することが度々あるが、読破しようとするのはその著者の人格まで理解しようとして読むのでは無いということである。
 この引用元のブログの分析でおもしろかったのは「自分語り」についてだった。前回の記事で id:kanimaster さんも指摘されていた事なのであるが、主義主張や考えを表明することは読み方によっては「自分語り」に写るのだということに気がつかされた。前回の発言の意図は「俺の性格を知ってください」という積極的な意味では無く、「このように考えている」という意思の表明で、あわよくば他の人はどう考えているのか反応があるとおもしろい、というものなのだが、読み手によっては考えや嗜好を通して内面を知って欲しい、つまり「人格を知って欲しい」と写ることもあるのだということ(id:kanimaster さんがそうだという話ではない)。確かに、前回の記事にもそのような意図が無意識的にあるのかもしれないが、ここではその内容が重要なのではなく、まさにこの書き手・読み手のスタンスの違いこそが文章から人格を読む人・読まない人なのかなぁと思ったり。

 とまぁ、こんな感じで「人格」と「外へ(から)の反応」を混同させる書き方だったなーと反省。「背景」って言葉を入れたのも悪かったかな。発言する背景(コンテクスト[価値観・文脈])は読むべき対象になりうるけど、語られていない生い立ちやコンプレックスまで含めた背景は読まないというか、その辺の境界が曖昧になりがちだし。

* 何故人格を読むのが難しいのか
 俺は基本的に文章からその人の人格を読み取ることはとても難しいと考えている。何故か。それは、表情や共にする時間や連続性、その他リアルで感じることのできるメタ情報、というものを伝える事も読みとる事も難しいからである。心理学者やカウンセラー、その他専門的に研究している人などならばある程度のプロファイリングは可能なのかもしれないが、そこに書かれている文章から真偽を読み取り、かつ人格に肉付けしていく作業は一筋縄でいかないのは容易に想像がつくだろう。そもそも、リアルで対面していても、その人の本当の「人格」を理解できているかどうかも怪しいのに、断片的な文章から読み取るのは尚更である。
 ただこれは、「人格を想像して楽しむ」ことを否定している訳では無い。そういう読み方・楽しみ方もあるだろうし、逆に書き手がメタ情報が抜け落ちていることを前提にどんどん内面を晒していくような文章や情報の発信をすることで、それを埋め合わせることは可能かもしれないからだ。それが「自分語り」や「バトンを通して内面を語る」ことなのかなと。

* インターフェースと内部構造、クラスとオブジェクトの違い
 概念的な例え話で説明するのはあまり好きでは無いが、「人格」を定義しない以上概念的に説明することしかできない。

 まず、インターフェースと内部構造について。人格というのはプログラムにおける「内部構造」のようなものだと考えていて、外への反応を示すところは「インターフェース」または「振る舞い」であると考えている。そのインターフェースやオブジェクトの振る舞いから、中身のプログラムを想像することは難しいが、ある程度予測することは可能かもしれない。ただ、振る舞いが同じでも、内部構造はまったく別なプログラムが存在するように、想像した人格はまったく的外れである危険性もある。そのため、そのオブジェクト自身が「私はこのような内部構造ですよ」と外に向けて発信するのが「自分語り」なのかなと。または、「自分語り」が無いが「内部構造はこのようになってるのかな」と想像して楽しむ人が、「文章から人格を読む」人だという認識である。

 次に、クラスとオブジェクトの違い。これは、個々の人間がオブジェクトである。そして、その傾向や振る舞い、問題点に対する反応を抽象的にして捉えるのがクラスとして考えるという感じだ。俺は多分、個々のオブジェクトを認識するのではなく、クラスとして捉えることが多いのかもしれない。その方が、その振る舞いの本質が見えることがあるというメリットもあるが、オブジェクト独自に拡張された部分を読み落とす危険性も同時に発生する。これが id:p_shirokuma さんが指摘している

2007/01/05 22:14 p_shirokuma p_shirokuma [適応技術] パーソナリティや防衛機制も含めた個人の文脈を知っておくことは、個々のテキスト読解を推進するうえでも有用なことだと思う。

ということであろう。確かに個人的にこの能力が著しく欠けている気がする。というか、適用範囲が狭すぎる。

* まとめ的なものとお願い
 っつー分けで、「人格」と「背景」の概念の曖昧性による誤解をダラダラと補足してきた訳だが、ダラダラとしすぎて余計分かりにくいかもしれないw 実のところ、俺も人格や内面と、外面への反応や主義主張 の関連については、明確な境界線を引く事ができずにいる。だから、いくら説明したところでグダグダになるだろう。
 んで、お願いなのだが、そのような「人格とは何か」とか「感覚と反応」とかを理解する手助けとなるような書籍とか、ないですかね? とても興味があるのだが、如何せん知識不足でどんな所から考えればよいかも分からない。具体的な本や著者でなくても、「○○学系」だとかそういうのでも助かりますので、よろしければ教えてくださいな!

suVeneのあれ: 文章から人格を読む人・読まない人
suVeneの耳をすましば: 信頼を得るために必要なもの

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コメント

  1. 自分語り、解読されていない何か、山河

     「「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派」でsuVeneのあれさんの…

  2. 「人格」と「背景」が放浪して色川武大は狂人日記

    発言の一意性・連続性や発言した意図を汲み取る為の文脈は大事 まとめ的なものとお願い  っつー分けで、「人格」と「背景」の概念の曖昧性による誤解をダラダラと補足してきた訳だが、ダラダラとしすぎて余計分かりにくいかもしれないw 実のところ、俺も人格や内面と、外

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