コミュニケーションとは相互情報伝達のことである - suVeneのアレ

コミュニケーションとは相互情報伝達のことである

一般社会で要求される「コミュニケーション」とは情報を相手に伝達することではなく、相手の意思を推測することである。
・・・ 中略 ・・・
理想的なコミュニケーションはむしろオタク諸氏が得意とする情報伝達の方だと思うが、誠に残念ながら現実に求められているのは意思推測能力、つまるところ「空気嫁」である。
妄想科學日報 – コミュニケーションとは情報伝達のことではない

どこの一般社会ですかそれは。
と、脊髄反射してしまうが「一般社会」とは言わずとも「それを求める集団や場」が存在する事は確かである。

よく言われるのは、欧米におけるコミュニケーションは相互理解不足の場合「説明するほうに責任」の比重を重く置かれがちな事に対し、日本などでは「説明を受けるほうの理解不足」と比重が置かれると言われる事が多い。所謂、阿吽の呼吸ってやつだ。ブログなどで自分の書いた文章を棚に上げて「文盲!」と揶揄するのもその表れかもしれない。

しかし、事の是非はともかくとして、マジョリティが求めているから「コミュニケーションとは空気嫁」と定義するのはいかがなものかと思う。
まぁ、タイトルが言うほど「空気嫁」を強調している訳ではなく、中身を読めば

念の為に申し添えておくが、情報伝達は一方的な発信の能力ではないし意思推測もまた一方的な受信能力ではない。
情報伝達に長けた人物は他人の伝達する情報を理解する能力にも長けているし、意思推測に長けた人物は言外に意味を滲ませることにも長ける。然し両者はまったく別のスキルであるが故に互いの意思疎通には至らない。
妄想科學日報 – コミュニケーションとは情報伝達のことではない

とあるので、両方必要だとは思っているが、世間一般において求められているものは違うという趣旨だという事がわかる。
という訳で、中身に関してはさほど異論はないのだが、タイトルに関してやや強調しすぎだという脊髄反射である。

あえて中身を取り上げるなら『一般社会で要求されている』というくだりには異論がある。『これはとりわけ会社組織などで顕著な傾向』とあるが、「会社組織」などまさに千差万別であり、少なくとも「一般社会」といわれるほどは画一化された状態にはない。それに加えて、人は「一般社会」と常日頃対峙して生きている訳ではないという事もあげられる。社会問題や、抽象化された問題の解決ももちろん大事だが、それと同じくらい(時にはそれ以上に)大事なのは、自分の周りにいる数え切れるほどの人数から形成される状態での問題である。

その一次(二次)ネットワークが引用元の言う『感情を中心としたコミュニケーション』を求めているのならば、それに従う事も可能ではあるが、それを「一般社会」などと勘違いしない事が大切ではないだろうか。そのネットワークが自分と合っていないのならば『理性を中心としたコミュニケーション』に比重を置く集団に移動すればよいだけの話である。(理性・感情は置き換え可能)

また、どちらか一方に偏りすぎても意味がない。
その集団が何を目的としているかによって、これらの手段は必要とされるのであり、自分でそれを選択する事が重要だという事だ。

最後になるが、以下の理解も不可解だ。

私の理解するところ、こうした能力は鍛えて鍛えられるような性質のものでもない。従って、可能な限り摩擦を避ける唯一の方法は、周囲に「空気の読めない人物である」ということを周知徹底することに尽きる。
妄想科學日報 – コミュニケーションとは情報伝達のことではない

育ってきた環境などによって、「矯正がひどく困難」な状況な人は沢山いるかもしれないが、この能力は環境と慣れと技術によってある程度鍛えられる性質であると思っている。
(中には「空気を読む必要がない」と判断して選択している人もいるので、鍛えられないように見える人もいる)
「摩擦」を避ける方法として周知しておくというのは同意できるが、先ほども言ったように「所属する集団の移動」という手段も考慮に入れておいてよいのではないだろうか。

suVeneのあれ: [空気論]序論・定義・分析 – ◇ 3. 空気に関連する考察 – コミュニケーション能力

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コメント

  1. marco11 より:

    空気読めっていう態度は、いじめの原因になってると思う

  2. メモ より:

    [その他言及]コミュニケーション

    あえて中身を取り上げるなら『一般社会で要求されている』というくだりには異論がある。『これはとりわけ会社組織などで顕著な傾向』とあるが、「会社組織」などまさに千差万別であり、少なくとも「一般社会」といわれるほどは画一化された状態にはない。それに加えて、人は

  3. 説得力をもつということ

    妄想科學日報 – コミュニケーションとは情報伝達のことではない なかなかに面白い。 私の理解するところ、こうした能力は鍛えて鍛えられるような性質のものでもない。従って、可能な限り摩擦を避ける唯一の方法は、周囲に「空気の読めない人物である」ということを周知徹底

  4. ブロガー(志望) より:

    お邪魔します。

    >相手の意思を推測することである。

    「推測」ですか…「理解」ではないのですね。
    女性から「あなたなんか大嫌いです。だからお
    付き合いなんかしたくありません。」という返
    事を受け取った男性が「本当は俺の事が好きな
    くせに」と思うのも「推測」なのではないで
    しょうか。
     人は突っ込まれたり批判されたりする事は”好
    き”ではありません(マゾでもなければ)。です
    から「突っ込むな」「批判するな」とでもいう
    事でしょうか。

  5. suVene より:

    >「本当は俺の事が好きなくせに」と思うのも「推測」なのでは

    妥当性はともかく、推測は推測でしょう。
    ただ、その推測が大きく的をはずさず、またその確率が高いという能力の事を指しているのでしょう。
    推測すれば終りという能力ではないと思います。

    > 人は突っ込まれたり批判されたりする事は”好き”ではありません

    これは「人は」というのは一般化させすぎだと思いますけどね。
    確かに、言葉尻をとらえ、湾曲して行われる批判などを好む人は少ないとは思います。
    しかし、少なくとも私は、曖昧な根拠の指摘や論理の飛躍の指摘、明確な異論などは好きですね。
    ただ、引用元が言う“感情的コミュニケーション”であれば「突っ込むな」「批判するな」というニュアンスが多少は含まれていると思います。論理を優先するか、感情やその場の雰囲気を優先するかという問題でしょうね。

    これはどちらが大事という話ではなく、時と場合によりけりであるという事だと思ってます。
    会議などで「感情的コミュニケーション」をされるのも面倒であり、結婚式などで「論理的コミュニケーション」を追求しても意味がないという事です。

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