空気と自主的言論統制 - suVeneのアレ

空気と自主的言論統制

なんていう、大それたタイトルはいささかオーバーではあるが、少々最近の無断リンク議論周辺を違った視点で書いてみようと思う。

自主的言論統制
まず、「自主的言論統制」という言葉があるかどうかは知らないが、「自主的+言論統制」というそのままの意味である。
分けて考えると「自主的」というのは「他の指示・援助を受けず自力で行動する事」であり、「言論統制」とは「出版・言論・報道」等の表現物の内容を(国家権力・行政権力が)審査し統制する事を指す。

言葉の説明はこれくらいにして、この言葉がどのような状況を指すのかという具体例を考えてみよう。

た と え ば
軍事政権下などにおけるマスメディアの規制や、刑務所から外部へ(またはその逆)へ手紙を送ろうとする時に「検閲」が入るのは周知の通りで、戦時中の新聞や資料などを見ると黒塗りでまともに読めない文章が多かったりする。
現在、刑務所においてどれほどの検閲がなされているのかはわからないが、もっと身近な例で言えば中国政府におけるネット上の表現物の検閲がグーグルに同意されたりした事は記憶に新しいだろう。

このような状況下に置かれると、そのうち現れる思想が
「どうせ好きなことを書いても検閲され、規制・統制されるのだから、最初から検閲に引っ掛からないモノを書こう」
という発想に至るのは極自然の事であると思われる。

これが自主的言論統制。

国家や公権力による統制が行われる前に「自主的に」言論・表現を統制し無駄な敵や争いごとを避けたりする目的でなされる状態を指した言葉である。

広義におけるファシズムが台頭する前兆、または最中のような土壌であり、日本のマスコミはいまだ自主的言論統制下にあると思っているが、その話は大きすぎるのでここでは一旦おいておこう。(てか、そんな話できない)

“空気のようなモノ”による検閲・統制
正確には公権力による検閲・統制ではないので「検閲」というのは誤用なのだが、しばしばネットやブログ上で議論をしているとこの「自主的言論統制」と呼べるような状態を見かける。
具体例を引用してみよう。

重要なのは他者にとってどうかより、自分はどう思うかどう感じるかってこと。それを人の目や人の反応が気になって書けないのがはてブによくある状況かもね。
メモ – 人の目が気になるのね

3. ネタ的な空気ができた中でブクマするのは悪である、もしくは控えるべき。 ・・・ 略 ・・・
本当は(貶める等の目的以外に)ブクマしたいのに、空気を読むとブクマできないジレンマ。それに従うべきなのかどうかとか。従わないと共犯にされてしまう。
断片部 – floating between – 無断リンク問題を整理したりメタに逃げたり

つーかね、正しいとか間違いとかはどうでもいいんです。向こうが正しくてこっちが間違いであっても関係ない。単純に、「リンクしにくい空気」が醸成されるのはぼくの利益にならないので止めさせたいだけ。
「で、みちアキはどうするの?」- love, tinycafe

最近見たところではこんな感じ。
なんとなくニュアンスが伝わっただろうか。
要するに、何だかよく分からないが反論しにくい空気が漂っていて(反対・反論・批判するだけで人格攻撃する集団がいたり、はなからネタ扱いされたりするような雰囲気)、その空気に支配され自ずから発言を控えたり、ブックマークしなかったり、ブログでいうとエントリーしなかったりする状況だということだ。

正義という価値観
この空気が醸成されるときの弁論(と呼べるかどうか)として、よく用いられるのが「正義」という価値観である。
(こっちの価値観が正義なので相手は悪だという弁論。空気の醸成パターンとしては、他にも色々あけども今回は言及しない)
分かりやすくいえば、表現物の内容に対しての批判ではなく、その表現物を出す事自体を悪とする論法である。

具体例を挙げると
・ 「それは人間として最低ではないだろうか?」
・ 「それは言ってはいけない事だと思う」
・ 「それはいじめである」
・ 「相手が嫌がっているのだからやめればいいのに」
・ 「人としてのマナーがなっていない(常識はずれである)」
などなど。
これらの共通点として考えられるのは、「人間としての価値」「感情」を攻撃したりするという事だ。
もうひとつの共通点として、これらの発言の多くは「何故人間として最低なのか」「何故言ってはいけないのか」「人としてのマナーとは何か」という立証を自分自身は行わず相手に押し付けたり、感情や常識に訴えたりするところにあり、発言者自身は「最低だから最低だ」と繰り返す場合が多い。

ま と め
個人的には“空気”に囚われて反論を控えたり、表現を控えたりはしたくないのでこのような事を書いている訳である。
このように日ごろから、気をつけていても

前回記事の補足と少し考えが修正されたところを書いてはみたが、tinycafe氏の記事は見ていてあまりにも滑稽で笑ってしまうモノが多々ある。
しかし、個人的感覚からブクマしないだけである。
suVeneのあれ: tinycafe氏とはてブの続き

と、ある意味ジレンマに陥ってしまっている。

はっきりいえば、そのようなあるかないか分からないような“空気”に縛られているのは、外部から見れば何もない空間でもがいているようで滑稽である。
ではどのように対処していくのが好ましいのか?(個人的に)
それは、法的に許される範囲で“空気”など気にせず「自分自身が発言したい事を発言すればよい」という簡単な結論になる。
たとえその発言により、周りから人格攻撃を受けたり、常識はずれだとか、最低だとか言われても、それは言っているほうがアレなのでほっとけばいいのである。
(どうしても反論したいのならば(パワーゲーム中だとか)すればよいのだが、同じフィールドとして扱われる事だろう。この辺の対応はもうちょっと考える。)

この記事を書こうと思っていた時に先に同じような結論を導いていた人を見かけたので引用してみよう。

結局自分は自分としてブクマし続けていくしかあるまい。それがいじめの共犯として認知されるなら、それは違うと主張し続けるよ。わかりやすいような説明が求められるのが当然かどうかはわからないけど、自分としては少なくともわかりやすく説明していくよ。
断片部 – floating between – 無断リンク問題を整理したりメタに逃げたり

俺はこの結論に賛成である。

メモ – 人の目が気になるのね
断片部 – floating between – 無断リンク問題を整理したりメタに逃げたり
「で、みちアキはどうするの?」- love, tinycafe

追記: 2006/10/18 19:48
ちょっとタイトル変更

suVeneのあれ: 自己と他者を同化する価値観

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